浄土真宗を調べてびっくりした。「悪人正機説」って犯罪者と昔はやんちゃしてた連中に都合良すぎる邪教だろ🤦 [639215321]
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日本最大の伝統仏教宗派、浄土真宗本願寺派(寺院数約1万)が「お家騒動」に揺れている。今年1月、室町時代につくられた聖典の現代版を大谷光淳(おおたにこうじゅん)門主(46)が示したところ、
全国の僧侶や門信徒から不満が続出。指導的立場の僧侶らが、「誤解と混乱を招いている」として総局(執行部)に取り下げを求める異例の事態になっている。
https://www.asahi.com/articles/ASR6P4CYHR61PLZB00V.html >>509
つまり霊も人物も人間では無い
人間でないものは人間について語る能力が劣るもの達のことである 要するに現世を娑婆というんです
娑婆とは試練の場であって苦しみを伴うんです
ここではいろんな苦しみがあってそれをクリアするまでは
何回も何万回も何億回も何兆回も六道を輪廻して生死を
繰り返すんです
その試練には前世のカルマなど人それぞれあるんですが
当然宗教について乗り越えなきゃならない試練もあるでしょう >>516
人間には霊がいます
大霊界の分霊と言って意志は同じなんですが
霊としては分かれているんです
人間は肉体がありますから >>519
ありがと
今度から他宗教の人には
俺は全くそう思わないけど仏教徒はこう思ってるらしいって宣伝しておくね >>522
ちなみに中村 元は仏教徒ではありません あらゆる苦痛は他者と比べる事によって生まれる
その比べる欲を捨てろってのが釈迦の思想だろ
除夜の鐘なんてそれでしょ 仏教は人間が覚る(解脱)ためのノウハウを提供するだけで、その他のことにはあまり関心がない >>523
霊界という人もいれば意志とか霊魂とか
お墓を霊園って言いますよね
それは仏教でもキリスト教でもいうでしょ >>520
人間には霊があったとしてもそれはあるだけである
何故ならば仮に例があったとして霊をコントロールできる術を持ってないのだから
コントロール出来ないものは存在価値がない
存在価値の無いものは存在しても意味が無い
人にとって意味ある霊を持ってこい >>524
え?
じゃあ今までしてきた話って
何の根拠もない単なる「とある考え」ってだけの代物なのかよw
なんだそれw
やっぱり宗教ってゴミだなw >>529
瞑想がその手段ですし
感謝の気持ちや信心も霊との通信といううか
ネット用語でいうならリンクですね >>531
それは天気予報と変わらない
霊をコントロール術を持ってこいと言ってる >>530
中村 元は思想歴史学というか世界の哲学に詳しい方です 亡くなった人が気になって仏法修行が捗らないなら、何らかの功徳を積んで供養の気持ちを振り向けて差し上げればいいんじゃない >>533
霊と人間の精神は
霊から精神に対して語りかけるが 逆はない >>536
では人にとってはなんの意味もない
人とは人がコントロールできる範囲を広げることために発展してきた生き物であるのだから >>534
哲学が詳しいとかどうでも良いよw
そいつの考えた妄想話って事でしょw
なんだよせめて教義で「全ての神は一つ!ほかの宗教が崇めてる奴らも実は同じ」って載ってる話してよw
全然宗教と関係ないじゃんw >>538
ない。人の未来とは過去の蓄積からの確率的な結果でしかない >>539
ではさようなら
>>540
そうですか 「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去、現在、未来の諸仏ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。」 自分では学ばないで
なんでも人から教えてもらおうとするのはいいが
なぜか上から目線で相手をバカにする態度をとる >>542
結局>>445に筋違いの反論をしてきたって事ですな
やっぱり仏教含め宗教はみんな
死をネタにして商売しているだけだなw 仏教は自分で学ばなければなにも役に立ちません
経典を読んでその裏側を推察できる人だけが
真理を見ることができるんです >>544
受け入れろ
ひとの言葉はコントロール出来ないが自分の心はコントロールできる範囲だろ 5ちゃんで3行以下で語り合うにはあまりに難解なテーマだわな >>546
こう言っては何ですがまず自分で少しは学んでください
基礎を知らない人に教えることはできません >>548
こう言っては何ですがまず自分で少しは学んでください
基礎を知らない人に教えることはできません >>551
人のことはコントロール出来ない
その状況を受け入れろ >>552
人は因縁によってコントロールされているんです 昔の2ちゃんねるなら
知識人がまともな長文で書きこんできたけど
もうだめだな
5ちゃん >>512
個人の墓を持ってもいいし、持たなくてもいい
本山に納骨してもいいし、しなくてもいい
浄土真宗はそのへんはまったく自由 ほな一度悪事をやらかしたやつは救われへんのかっちゅう話や
未だに死刑続けとる土人には難しすぎるかもしれんがな
死刑に賛成したりクソスレ立てたりする邪悪な土人でも心入れ替えたら救われるってことやでありがたい設定やないか >>553
コントロールできる範囲はコントロールする努力しろ。甘えんな コントロール、支配ってのはまさに頭の中のものを実在として
そういう「合理性」とかで「世界」を全て説明できる!とらえられる!としてきたことだな
頭の中のもの、つまり意味を離れたものには全く用がないと切り捨ててきたのが西洋の近代、みたいな感じだったかな >>549
3行以下ルールなんてあったっけ
存分に語っていいよ >>551
何か勘違いしてない?
こちらが教えを請うているわけじゃなくて
あなたがこちらの言い分に「それは違う」と反論してきたんだよ?w
で、まともな反論なのか説得なのかができなかった結果
ほざいた言葉が>>550という事だ
自分の身の程をもう少し理解したほうが良いと思います 須弥山を守る四天王が全員軒並み元DQNだって知ったときどう思った? >>512
そんなの宗教でもなんでもないからやめてしまったらいいのに 仏教って面白くて
こうやって苦痛から逃れろ
欲を消せみたいな
あんまり死生観が無い宗教と思うんで面白いと思いました >>561
天界にそういう神がいますよ
帝釈天が阿修羅の娘を強姦して
起こった阿修羅が何度も帝釈天に戦いを挑みましたが
負け続けて天界から放り出された
修羅界はそうやってできたと聞きました >>562
それは今までの人生の結果。
意味が分かないということは過去の蓄積の結果
5年後に意味がわかるようになるため今から意味が分かる努力をすべきである
これが人ができることの全てである >>563
はいさようなら
あなたも早く呪縛が解けると良いですね >>559
清沢満之は多くの人に影響を与えたが、正岡子規、夏目漱石にも影響を与えた[。
清沢は結核で喀血した子規の病床六尺を読み、
次の手紙を送った。次の文章は正岡子規の後の病床六尺にでている。
「病床六尺」を読み次の数言を呈する。第一、かかる場合には、
天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし。
第二、信ずることあたわずば、現在の進行に任ぜよ、痛みをして痛ましめよ、
大化のなすがままに任ぜよ。天地万物わが前に出没隠現するに任せよ。第三、
号泣せよ、煩悶せよ、困頓せよ、而して死に至らんのみ。
小生はかって瀕死の境にあり、右第二の工夫により精神の安静を得たり。
これ小生の宗教的救済なり。 三木清の親鸞論
一 人間性の自覚
親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、
『正信偈』や『和讃』のごとき一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、
特に彼の主著『教行信証』についても言われ得ることである。
『教行信証』はまことに不思議な書である。
それはおもに経典や論釈の引用から成っている。
しかもこれらの章句があたかも親鸞自身の文章であるかのごとく響いてくるのである。
いわゆる自釈の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の体験を語っている。
『教行信証』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、
単に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、
むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、
その引文の読み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥することなく、
親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。
それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。
実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、
そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。 三木清の親鸞論
人間 愚禿の心
親鸞の思想の特色は、仏教を人間的にしたところにあるというようにしばしば考えられている。この見方は正しいであろう、
しかしその意味は十分に明確に規定されることを要するのである。
親鸞の文章を読んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豊かなことである。
そこには人格的な体験が満ち溢れている。
経典や論釈からの引用の一々に至るまで、ことごとく自己の体験によって
裏打ちされているのである。親鸞はつねに生の現実の上に立ち、
体験を重んじた。そこには知的なものよりも情的なものが深く湛えられている。
彼の思想を人間的といい得るのは、これによるであろう。
生への接近、かかる現実性、肉体性とさえいい得るものが彼の思想の著しい特色をなしている。
しかしながら、このことから親鸞の宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤りである。
宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。
宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。〔欄外 Emil Brunner, Erlebnis, Erkenntnis und Glaube, 1923.〕
真理は単に人間的なもの、主観的なもの、心理的なものでなく、あくまでも客観的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。
もし宗教が単に体験に属するならば、それは単なる感情、
いな単なる感傷に属することになるであろう。かくして宗教は真に宗教的なものを失って、
単に美的なもの、文芸的なものと同じになる。
親鸞の教えがともすればかくのごとき方向に誤解され易いことに対して我々は厳に警戒しなければならない。
もとより親鸞の思想の特色が体験的であること、人間的であること、
現実的であることに存することは争われない。
そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。
しかし内面性とは何であるか。超越的なものが内在的であり、
内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。
内面性とは空虚な主観性ではなく、かえって最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。 >>2
別に?
皆悪人だからな
ていうか
自分が悪人だと認識することができる人こそが救われる つづき
親鸞の文章には到るところ懺悔がある。同時にそこには到るところ讃歎がある。
懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じている。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。
しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。
懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。
親鸞はすぐれて宗教的な人間であった。懺悔と讃歎とは宗教の両面の表現である。〔欄外 Augustinus〕
親鸞の文章からただ懺悔に属するもののみを取り出して、
彼の宗教の人間的であることを論ずる者は、彼の思想を単に美的なもの、
文芸的なものにしてしまうことであって、いまだ宗教的人間のいかなるものであるかを知らざるものといわねばならぬ。
親鸞における人間の問題はどこまでも宗教的人間の問題、
宗教的人間の存在の仕方の問題でなければならぬ。
懺悔は単なる反省から生ずるものではない。自己の反省から生ずるものは、
それが極めて真面目な道徳的反省であっても、後悔というものに過ぎず、
後悔と懺悔とは別のものである。〔欄外「後悔はそれぞれの行為、懺悔は全存在にかかわる。」〕
後悔はわれの立場においてなされるものであり、
後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。
懺悔はかくのごときわれを去るところに成立する。われはわれを去って、
絶対的なものに任せきる。そこに発せられる言葉はもはやわれが発するのではない。
自己は語る者ではなくてむしろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。
かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべきはずである。
しかるにまことの心になるということはいかに困難であるか。
自己を懺悔する言葉のうちにいかに容易に他に対してかえって自己を誇示する心が忍び込み、
またいかに容易に罪に対してかえって自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。 >>561
天部神なんて
DQNどころか
メキシコの収監所におる狂犬みたいな輩ばっかりやんけwww 神目線からすると面白きこそ善、つまらなきは悪
だから悪に塗れて刺激溢れる人生は善で、平穏で従順で怠惰な人生のやつな悪なんだわ 悪を成さず正しい人であれる人間ってのはすごく恵まれた人間だからだろ
貧しい時代は特にそうだけど生きるために罪を犯さざるをえない人だっていっぱいいるだろう >>586
恵まれた人は前世で努力している
恵まれてない人はその逆だとしたら 餓鬼みたいな貪りしか出来ないゴミクズに何人か会ったことあるけど
不思議と、体型も餓鬼みたいにチンチクリンで貧相な体型してるんだよな
すげえキモいんだわ >>587
現世で返上するしかない
酷い人生の中でも
悪い事をせずに必死に生きるんだ >>588
その人の霊性は顔かたちや体形に現れる
お釈迦様のお顔は32相で素晴らしく
お身体も80相で理想的な姿 >>589
不幸な宿命でも 良いことをすれば運命を変えることができる
交通事故でも重傷になる人もいれば軽傷で済む人もいるように 歎異抄をマスターしている俺に質問あるやつ解釈は諸説あるが答えるぞ質問よこせ 一神教の世界における
この世のすべてを司る全知全能の神がいるのなら、この世で善人として生きる人も悪人に落ちる人も生まれる前から決まっていて
したがって死後神の国に行ける者も地獄に落とされる者も最初から決まってるのでは?(救済予定説)みたいな議論に近い話だな
仏教は本来一神教ではないけれど
浄土系はほとんど全知全能の阿弥陀如来一神教みたいなもんだからそう言う議論の発生する余地があり
「慈悲深い神様(阿弥陀様)がそんな非情な差配をなさるわけがない」ってなことで
「(今生ではさておき)死後は悪人だろうが善人だろうが平等に極楽浄土に転生できるようになってるはず」ってことになる
何かキリスト教の方にもカルヴァンの予定説に反駁する立場でそんな宗派の人がいたような気がしたが
(「そのような無慈悲な神に従うくらいなら信仰を捨てたほうがマシだ」とまで言って)
誰の何ていう宗派だったかは忘れちまった >>587
浄土真宗に前世の行いが現世に影響お及ぼすとかそんな教えはないからな >>591
ただの縁起じゃないの?
いい事とか悪い事とかこっちが勝手に評価してるだけであって。一生ツイテナイ奴もいるだろ >>590
護身法の通りやな
ガチな行者さんは確かに美形が多い
特に弁天行者は普通人離れした美しさやな
>>591
そうなるわな
過酷やけどな >>595
俺は浄土真宗は知らないが
そもそも悪人でも成仏できるわけだからね >>597
良いこととは慈悲のこころ
そして悪いことをしないってことかな
悪いことというのは十悪や執着や煩悩だね >>590
一理あるよね
オーラというか
あと綺麗な人なのに
歯並びだけ矯正した方が、、、、みたいな勿体ない人は
もう少し功徳が必要なのかなとか思ってしまうw 最近の人はもう5行以上読めないみたいなので
梅原は難しいかな >>598
俺これ好き
tp://up.mugitya.com/img/Lv.1_up179162.png >>1
どんなに頑張っても、くそカルト宗教・公明党、25年ぶりに野党へ。おめでとう。 >>603
まあ実社会でそう思っても仕方ないけど
でもアイドルとか均整のとれた顔姿かたちを愛でるのはそういうところから来てるのかもね >>590
ぼくは単純に運動不足と食べすぎって行動が体形に現れるだけだと思うなあ… そんなバカが増殖した現代日本
南無阿弥陀仏のたった6文字で読解力が劣化して書物も読めない日本人を救う
時代にフィットしてるわな >>404
法然じゃないかな、革命と呼ぶならその第一人者は ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています