「95人の男と寝た」のちの東大寺トップ(36歳・男)が誓った呆れた言葉…「男色自体については反省もしていない」という指摘も(集英社オンライン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/387370c3cb708463121bdb9b68556a3f34bb6c24
(前略
彼の名は宗性 (一二〇二~一二七八)。
建仁二(一二〇二)年生まれですから男色盛んなりし院政期、似せ絵の名手として知られる藤原隆信の孫としてこの世に生を受けました。
十三歳で出家した宗性は、のちに東大寺の別当(長官)にまでのぼりつめます。そんな彼が三十六歳の時、誓った五か条というのが凄いのです。以下、松尾氏の前掲書から訳文を引用すると……。
現在までで、九五人である。男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでない
「一、四一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二、現在までで、九五人である。
男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでないこと。
三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四、自房中に上童を置くべきでないこと。
五、上童・ 中童のなかに、念者をつくらないこと。」
松尾氏によれば、この誓文は、弥勒菩薩の浄土とされる兜率天への往生を望んで作られたといいます。また笠置寺に籠るというのは隠遁を誓っているといいますが、宗性はのちに大安寺や東大寺の別当に任命されており、結局誓いは守り通すことはできませんでした。
凄いのは、三十六歳の時点ですでに関係した男色相手が九十五人にものぼっていたという点です。しかも宗性は大貴族ではなく中級貴族出身で、当時は大法師という中級クラスの僧侶でした。
松尾氏はそこに注目し、
「男色相手の数については上限を設定しても、男色自体については反省もしていない点や、その数から判断すると、中級の大法師クラスの官僧たちにまでも、男色は一般的であったと考えられます」
「中世の官僧世界における男色関係の広がりの予想外の大きさが推測されることになります」
と指摘しています。
ちなみに上童や中童というのは僧侶に仕える童子のことで、必ずしも子どもとは限りません。この童子には、稚児(上童)と中童子と大童子の三種があって、平安時代の歴史物語『栄花物語』では花山院のお供に大童子の大柄で年輩の者四十人、中童子二十人、召次といった雑事係やもとから院に仕えている俗人どもが奉仕している、とあります(巻第八)。
大童子とは年を取っても童形のまま寺院で働く下働きの者のことで、その序列についても従来は曖昧だったり諸説あったりしたのですが、寺院の童子を詳細に研究した土谷恵によれば、兒(上童)→中童子→大童子の順といい、古典文学での描かれ方を見ても、土谷氏の説が最も納得できます(『中世寺院の社会と芸能』)。
そんなわけで、亀王丸とは宗性が寵愛していた上童(あるいは中童子?)らしいのですが、笠置寺に籠るという誓いも守られなかったわけですから、三十六歳の時点ですでに九十五人と男色関係にあった宗性が、その後、出世してますます男色の機会も増えていく中、百人以上と関係しない……という誓いが守られたとはとうてい思えません。
(後略