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曹操が濡須まで軍を進めようとした時、病気となり寿春に残留した。そのまま憂悶の内に死去した。50歳であった。諡は敬侯。
この死には謎が多く、自殺とも言われる。『後漢書』『魏氏春秋』では、曹操から贈られた器の中身が空だったために、その意図を「お前はもう用済みだ」と解釈した荀彧は服毒自殺した、とある(「器は空だった」と正直に言っても「中身があった」とごまかしても主君を誹謗した罪を受けるため)。また、『献帝春秋』では、かつて董承が殺害されたとき、伏完から曹操への反乱を仄めかす手紙を送られたことを長期間黙秘しており、それが発覚することを恐れて自己弁明紛いの告発をした為、曹操から疎まれたことが遠因であるともいう。
荀彧の死の翌年に曹操は念願の魏公となり、その後魏王に昇るが数年で病死した。その後曹丕は献帝から帝位の禅譲を受け、皇帝となった。荀彧の死から8年後のことであった。
荀彧の功績は極めて大きかったが、荀攸や鍾繇ら多くの者が魏の功臣として曹操の廟庭に祭られる中、荀彧が祭られることはなかった。裴松之はこのことについて、荀彧が晩年に曹操へ異議を唱え、魏の官位を得ることなく亡くなったからと推測している。