〈自然現象〉が〈事故〉に…1923年9月1日の激しい風向きの変化で増大した死者数
民俗学や民藝運動の誕生、民謡や盆踊りの復興の契機になると同時に、愛国心を醸成し、戦争への流れをも作った関東大震災。7月26日に発売された『関東大震災 その100年の呪縛』では民俗学者・畑中章宏さんが、関東大震災をその後の歴史の分岐点としてとらえ直し、日本人の情動に与えた影響を検証しました。本書より一部を抜粋してお届けします。
災害をめぐる非合理
壊滅的な災害にみまわれたとき、被害者やその周囲にいる人びとにはさまざまな感情が湧きおこる。関東大震災の際にも、悲しみや苦しみといった言葉では表わしえないエモーショナルな思いが溢れだしたはずである。災害に巻きこまれた人びとにたいして、感情的にならず、理知的な判断を求めるのは、残酷な仕打ちだろう。しかし、民俗的な慣習を行動規範としていた近世社会の人びとと比べても、関東大震災では情動に振りまわされて、非合理であったり、暴力的な反応を示したりした人びとが少なからずいた。
インターネットが発達した現代とは比較できないとはいえ、関東大震災が起こった1920年代は、ジャーナリズムも起こり、情報化社会の入り口に立っていた。それにもかかわらず、災害の実態を知るために人びとは右往左往し、流言蜚語にまどわされ、突きうごかされたのである。そうして彼らは〈事件〉に巻きこまれ、また〈事件〉を起こす加害者になっていった。
文壇が成立し、文学が大衆にとって身近になりかけていた時期だったこともあり、震災に遭遇した人びとの記録や証言が、数多く書かれた。いまそれらを読んでみると、単純化や類型化ははばかられるとはいえ、いくつかの問題点を見いだすことができる。
ここからは関東大震災の状況を顧みながら、震災後に現われた問題、惨禍に遭遇して生まれたさまざまな感情、そして〈事件〉の背景などについて整理していくことにする。
下町における大量死
関東大震災の被害が大規模なものとなった原因のひとつに、明治維新以降も埋められていなかった山の手と下町の格差があった。
東京市では11時58分の地震発生直後から火災が起こり、それらの一部は大規模火災となって46時間にわたり延焼が続いた。延焼は市域の43.6パーセントにあたる34.7平方キロメートルに及び、日本橋区、浅草区、本所区、神田区、京橋区、深川区ではほとんどの市街地が焼失した。大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店といった文化・商業施設も焼失、神田神保町や東京帝国大学図書館も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われている。
堅牢だと思われていた煉瓦造りや石造りのビルが倒壊し、浅草の象徴で12階建て、高さ52メートルの凌雲閣(通称・十二階)は、8階から上が折れるように崩れ落ちた。当時建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊して作業員300余人が圧死、横浜でも官庁や裁判所などのほか、ホテルが倒壊し、宿泊していた外国人が圧死した。
地震が発生した9月1日から2日にかけては気象の変化が激しく、1日の昼過ぎまで南風だったのが、夕方には西風になり、夜は北風、2日の朝からは再び南風になった。風向きの変化による延焼方向の変化が、避難者が逃げまどう原因になり、逃げ場を失った避難者が増大する事態に結びついたと考えられる。1892年(明治25)に文部省に設置された震災予防調査会の報告によると、東京市における焼死者は5万217人にのぼり、大震災の死者全体の9割に達するものだった。
本所横よこ網あみ町(現・墨田区横網)の陸軍被服廠跡は、安全な避難場所と思われて多くの人びとが集まってきたが、火炎にのまれ、約3万8000人の命が失われた。生存者の証言によると、15時30分ごろから1....
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