原爆投下記念日 日本軍「今更戦争をやめられないという結論に至った」このあと10日間戦争を続けます [169920436]
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「核抑止論からの脱却を」平和宣言で広島市長訴え 被爆78年 原爆の日
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6471440
広島の街に米軍が原爆を投下して78年となった6日、広島市は平和記念公園(中区)で原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)を営んだ。
松井一実市長は平和宣言で、各国の為政者に対し、「核による威嚇を直ちに停止し、信頼関係に基づく安全保障体制の構築へ一歩を」と強く求めた。
結果として350万人が死んで敗戦します
今日では形を変え「今更マイナンバーカードをやめられないという結論に至った」という何も変わっていない日本の姿を見ることができます
この点について皆さんは如何お餅ですか? 原爆投下前に「予告ビラ」というものがあったのか、無かったのか。興味深い記事が出ていたので、引用記載した。
1966年8月6日、被爆21周年原爆慰霊祭の遺族代表に選ばれた中村恭子さん(24)は、ハッキリと覚えていた。
3歳のとき、一家を襲い、地域義勇隊員として勤労奉仕に出かける途中の父・伍(ひとし)さん(当時30歳)を奪われた原爆投下直後のことを。
あのとき、ヨチヨチ歩きだった彼女の記憶は鮮明だ。原爆投下2日後に、自宅のあった広島市横川町二丁目の焼け跡を、ただもう、
涙とともに掘り返す母の姿。川に浮かんだ遺体をトビ口で引きあげる救助隊員。まぐろのようにずらっと並べられた遺体の山と死臭。
救助隊にもらったオニギリをほおばったこと。母とともに焼けたトタンの下で野宿した夜。
すべて今でも彼女のハダと鼻と目が覚えている。3歳児にとっても、それほど強烈な体験だったのだ。
「悪運が強かったのだ」と恭子さんは笑う。というのは、原爆が投下された昭和20年8月6日の前夜の最終バスで、
母ヤヨイさんに背負われて広島市外にある父の実家に食糧調達に出かけたため、助かったからだ。「その数日前から、
8月6日に新型爆弾を落とすから市民は逃げるように・・という米軍のビラがまかれていたそうです。それを見た母が、
あるいは・・・と思って郊外に出かけたのでは・・・」と、恭子さんはヤヨイさん(65)の愛情に感謝する。
残された母と一人娘の歩んだ道はけわしかった。父が洋服仕立業だったためか、いつのころからかヤヨイさんは洋服の行商をはじめた。
恭子さんも母とともに洋服のセールスにはげんだ。恭子さんが運転する車に洋服を積んでは、母とともに中国山脈を越え、島根方面へ出かける毎日だった。
「慰霊祭ですか、何だか外から来た人が、わいわい騒ぐだけで、しっくりしません」と恭子さんは批判的のようだ。(週刊朝日)
http://blog-imgs-61.fc2.com/h/i/r/hiroshima999/DSC04122.jpg ゴミ政治家ゴミ将校たち「なんとかして俺だけ無罪にならないかな」
こいつらが靖国神社に合祀されてる理由 「いまさらマイナ保険証を止められないという結論になった」
「いまさら大阪万博を止められないという結論になった」
いまだに旧日本軍しぐさ 一ミリも成長しない愚かな日本人 ちゃんと全滅させとけば汚染水放出して地球をダメにすることもなかった 明治維新から続くテロリストの血統を政権から排さねば未来はない 夏の甲子園 選手宣誓でディズニーの言葉引用
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac7e72a081c384bd7a4b954b0c246139ab316f4c
ウォルト・ディズニー
第二次世界大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメーション映画には、
ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」には
東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは政府の要請や強制によるものではなく、
ウォルトが自らの信念に基づいて制作したものである。 戦争が始まったら国民は永田町霞が関を攻めこみ上級を捕らえる
これが一番はやい戦争終結方法 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています