豊臣家への恩義を忘れず豊臣秀頼と徳川家康の会見を斡旋
加藤清正は、江戸時代になると徳川家が豊臣家に代わって国を治めることに納得はしていましたが、豊臣家への忠義も忘れていませんでした。

1611年(慶長16年)、徳川家康は「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)譲位、「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)即位の儀式に参加するために上洛。このとき、徳川家康は豊臣秀頼に「二条城」(京都府京都市)での会見を要請します。

この会見を断れば、豊臣家討伐の口実になりかねないと思った豊臣秀吉恩顧の大名達は、淀殿と豊臣秀頼に会見の要請を受けるように説得しました。

そうして、加藤清正と「浅野幸長」(あさのよしなが)が豊臣秀頼を守って「伏見城」(現在の京都府京都市)まで付き添い、会見の場へは、娘婿「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の護衛として臨んだのです。

加藤清正は懐に短刀を忍ばせ、万が一のときは徳川家康と刺し違える覚悟であったという逸話があります。

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