関ヶ原の戦い、石田三成は笹尾山には陣取っていなかった。つまり鶴翼の陣は嘘。島津の中央突破も嘘 [261484327]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
新刊『戦国大変』が反響を呼ぶ乃至政彦氏。本書の主眼を「戦国の風景と感覚を見えやすくする」と語るとおり、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。
今回はそんな「戦国大変」に綴られた戦や出来事のなかから生まれた疑問を、改めて筆者・乃至政彦氏に聞いた。
■ 関ヶ原決戦で石田三成はどこにいた?
慶長5年(1600)の「関ヶ原合戦」についてインターネットで検索してみると、石田三成を主将とする西軍が横に広がっていて、徳川家康率いる東軍が前に進むかのように並んでいる布陣図が、でてくると思います。じつは、この布陣図は、明治時代に作られて定着したものなのです。
関ヶ原の戦いにおける石田三成の布陣地は、「笹尾山」だというのが定着しています。ですが、これは明治になって初めていわれたことのようです。
江戸時代の文献で、「石田三成が笹尾山に布陣した」と書かれた史料は、私の知る限り、ありません。現在、笹尾山は立派に整備されていて、私も、これを見て、「ああ、関ヶ原が一望できて美しいところだな」と思いましたが、どうも三成は、ここにはいなかったらしいのです。
では、本当はどこにいたのか? 江戸時代の文献を調べてみると、三成は「小関」にいたと書かれています。この「小関」がどこかを調べてみると、現在の地名に小関という「町」があり、三成はこの小関の付近に布陣したのではないか、ということが考えられます。
その小関のちょうど北側に、笹尾山があるわけです。たしかに江戸時代の文献を見ると、「小関の北に布陣した」と書いてあるものもあります。ただ、その史料をよく見ると、そこが笹尾山だとすると、いろいろ、おかしいところがあるわけです。
江戸時代の文献には、小関について、「小関山」と書いてあるものもあります。「山」と書かれているのです。現地に行くとわかるのですが、笹尾山は山ではあるけれど、「小関の町」は、別に山地にあるわけではないのです。
研究者の高橋陽介さんが、江戸時代初期の頃の史料を調べたところ、石田三成の布陣地は全然違っていて、三成は「自害峰(じがいがみね)」に比定できる場所にいた、と書かれているというのです。この自害峰は、笹尾山より2kmほど南の場所にあって、小早川秀秋が布陣したという松尾山が、もう、目の前というくらいに近いところにあります。
では、小関とは、そもそも、どこなのでしょうか? ある古代の史料に、「関所があって、南北に小さな関がある」ということが、書いてあります。
関ヶ原は、関所がある場所だから「関ヶ原」となっているわけです。その関ヶ原の大きな関は、不破郡の「不破の関所」があるところです。
ただ、関ヶ原には、南北に小さな関所があって、そのうちのひとつは、たしかに笹尾山の南側、現在の小関があるところにありましたが、もうひとつ、現在の地名では残ってないところが、自害峰にあったのだろうと思われます。自害峰は、北と南に山が分かれた感じになっているのですが、その北側に、おそらく三成が布陣していて、そのあたりの山のことが、「小関山」と呼ばれていたのだと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fad3ef02832354fe61b1034daca7618465ef263?page=2
■ 笹尾山から自害峰にズレる意義
石田三成が、自害峰に布陣していたとなると、他の武将たちの布陣地も、現在の通説と矛盾が出てくる可能性があるわけです。
つまり、石田三成の布陣地が見直されると、たとえば、東軍の何々隊と西軍の何々隊が、真っ先に戦ったとされる場所も、根本から考え直す必要があるのではないかと思います。
また、石田三成の布陣地が自害峰だとすると、現在考えられている笹尾山の三成布陣地より、2kmくらい南にズレることになります。
これは、どういうことかというと、布陣地が変わることによって、三成がなにを考えていたのかが変わってくる可能性があります。関ヶ原合戦における三成の立場を、戦場の布陣地から想像し直すことができるわけです。
石田三成が西軍の総大将であり、東軍(徳川軍)との決戦を志向していたという前提の下であれば、三成は笹尾山に布陣していたとしても、あまりおかしくはないでしょう。
しかし、石田三成が、もし西軍の総大将ではなくて、一武将であり、徳川家康との大決戦を望んでいなかったとしたなら、三成は別の布陣地にいたかもしれません。逆に言うと、三成が自害峰にいたとすると、三成がどういう立場で、なにを考え、そこに布陣していたのかということから、また新たな物語が見えてくる可能性があるわけです。
一説によると、三成は松尾山の小早川秀秋が裏切る可能性があるので、秀秋と交渉する、もしくは秀秋を攻めるために、自害峰に布陣していたのではないか、といわれています。これは一つの例でして、それ以外にも、いろんな考え方ができると思います。こういうことから新たな歴史の見方が表れてくるのではないかと思います。
乃至 政彦 >>5
裏切りは事実だと思うぞ
だから陰口叩かれまくりだし
必死にその後佐和山攻めしたし 吉川も小早川も安国寺も毛利中国勢は最初から全員東軍三成は踊らされただけ てかマジで西軍総大将毛利無能が何で責められてないのか不思議で仕方ない この手の話は事前に学会とかで揉まれた上で一般人の目のつくところに置いてほしい 聖徳太子じゃなくて厩戸王
鎌倉幕府は1185
この絵のこいつは足利尊氏じゃなくて高師直
武田騎馬軍団は存在しない、居てもあの可愛いポニーが荷駄
坂本龍馬は大したことしてない
俺が漫画日本の歴史で習ったことを変えまくんなや 三成が自害峰に布陣していたとするソースは戸田氏鉄が書いた『戸田左門覚書』にある記述
「治部少輔本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す」 >>16
ただ戦後に井伊直政とか福島正則が助命求めてるし凄い戦いしたの事実だと思う ^ 乃至は「自分は学者でも作家でもなく、強いて言えば『歴史についての独自の見解を、書籍を通して発表している者』である(要約)[2][3]」「以前は『歴史研究家』と称していたが、現在は『歴史家』と称している。いずれの肩書も自称に過ぎないので、正否の判断は読者に委ねる(要約)[3]」と述べている。
^ 乃至のプロフィールは、「生年」「出身地」「現在の居住地」の3点以外は非公表である(2023年現在)[1][2]。学歴も非公表であるが、乃至は2020年10月19日にTwitterで「屈指の低学歴を誇る乃至政彦[4]」と述べている。
うーん歴史の真実だな なんか周りくどくてイライラする文章だな
スクリプトよりイライラした >>10
だってお飾りの無能だし
輝元が無能なのは大前提であぁやっぱ無能だったねって感じでなんの驚きもない >>10
家康に内通
戦場に来てない
改易は無いけど減封は食らってる これは前から言われてるな
小早川は松尾山に先に居た西軍の将を追い出して陣取ってるわけで
南宮山の毛利が日和ったのを見て本格的にそれに同調しようとした
西軍は松尾山の小早川を攻めようとしてたところを東軍に攻められてなすすべなく潰走したと 自害峰ってのもすごい地名だな
そんな縁起悪いところに布陣するか? まあ嫌われ者の三成が総大将って意味不明だったからなあ
なすりつけられたんでしょ責任を >>25
名前的には大谷刑部が陣取ってそうなところだな
で大谷が自害したから自害峰 関ヶ原前に三成と安国寺に謀反の恐れがあるので大阪に早く帰ってこいって淀殿が家康にあてた書状があるから
三成は主犯じゃなくただ巻き込まれただけって事はないだろ
当時は三成襲撃事件の余波で中央から左遷されてたわけで
三成が自身の権勢の回復の為に反家康をまとめて決起したってのは間違いないと思う 【脂肪肝予防の5ヶ条】
肝硬変や肝臓がんへと進行する可能性があり、さまざまな心疾患や生活習慣病のリスクも高める脂肪肝をみんなで予防しましょう
一、お酒を控える
二、糖質の過剰摂取に注意
三、野菜→炭水化物の順で食べる(血糖値の急上昇を防ぐ)
四、軽い筋トレの習慣を(基礎代謝を上げ、肝機能を改善)
五、緑茶を飲む(カテキンによる肝臓内の活性酸素除去効果) >>29
淀殿の書状じゃないな
正確には吉川広家が榊原康政に宛てた書状にある記述
「安国寺が近江で石田・大谷とどんな話をしたのか分からないが、大坂へ引き返してきた。安国寺は輝元より大坂へ戻るように言われたと皆に吹聴している」とある
この書状の日付は7月14日付で輝元もまだ領国の広島にいる
輝元が広島を出発して大坂へ向かうのが7月15日のこと
安国寺が輝元から大坂へ来るよう言われたってのも辻褄が合わないし研究者によっては吉川の創作だなんて言う人もいるな >>31
広家は毛利潰さないために奮闘した忠義者というやつがいるが、明らかにスタンドプレー。
広家の岩国藩が毛利本家から差別されたのも仕方がないw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています