1952年に主権回復が達せられると、「国情に沿わない」とされた占領改革の見直しの動きが、保守党の中で一挙に強まる。憲法改正はこうした逆コース運動の最たる目標となった。54年12月に吉田茂内閣が退陣し、改憲積極派であった鳩山一郎の政権が誕生すると、憲法改正は政権与党の公約となる。翌年の保守合同で誕生した自由民主党においても、改憲は党是として位置づけられた。この時期の憲法論議では、9条はもちろんのこと、象徴天皇制、参議院議員の選出法、人権保障規定、地方自治規定(特に知事公選制)、改憲発議条件など、新憲法のあらゆる条項が見直しの対象とされた。すなわち、50年代のエリートレベルにおける改憲論の主流は、「おしつけ憲法」の廃棄ないし全面的・根本的な修正を求める「全面改憲」論あるいは「自主憲法制定」論であった。
こうした中、報道機関や政府は全面改憲論の是非を有権者に問う調査を行うようになった。これが、特定の条項を指定せずに、大くくりに「憲法を改正することに賛成ですか、反対ですか」と問う一般改正質問の起源である[11]。調査回答者の側でも、この質問を「新憲法を丸ごと改めるべき
か」という趣旨として受け取っていたことが窺える。実際、図1Cによると、1950年代には、一般改正質問のほうが9条改正質問よりも、改憲賛成率が「低く」推定されている。一般改正質問に賛成することは、天皇元首化や人権制限を含む全面改憲を支持することを含意したため、9条のみの改正に賛成するより心理的ハードルがより高かったのであろう。
しかし図1A・1Dによると、そうした状況でもなお1950年代初頭には明確に、一般改正質問において賛成率が反対率を大幅に上回っていた。ここから、独立直後の日本では、(エリートレベルでの風潮と同じく)一般
国民のレベルでも、新憲法の正統性は相当に低く評価されていたことが分かる。個別論点である9条改正質問のほうでも(図1B・1D)改正賛成論が50年代初頭には圧倒的優勢であった。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA13C4E0T10C23A9000000/