織田信長「手こずったのは斎藤と本願寺、あとは雑魚だった」これマジ? [606275763]
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楽勝した相手の方が少ないだろ
裏切られすぎなんだよ みんなで武家が馴れ合ってるのに一人だけ本気出すやつ
おかげで武家戦争経済は破綻して鎖国共産主義国家へ競争しない前提だと共産主義は比較的うまくいくモデルケースとなる 天下は朝倉殿が持ち給え
我は二度と望みなし
とか言ってなかった? 信長は斎藤義龍の存命中は実質何も出来なかったんだよな 紀州がめっちゃ苦戦したイメージ
北畠から六角三好は破竹のイメージ
波多野兄弟は苦戦のイメージ 信玄謙信は揃って信長にベストなタイミングで死にすぎやろ 義龍が急死しなきゃノッブの台頭はなかったから歴史が変わってたな 本願寺が一番厄介
やっぱ宗教は怖い
武田は自滅
というか、そもそも眼中にない
武田軍は戦国最強軍団!
って信じてる奴がいるけど
それは江戸中期以降に作られた創作であって
史実の武田はクソザコ田舎大名だからな
莫大な金山なんて無かったし、騎馬軍団も保有してなかった >>28
家康から見たら超強敵だろうけど、そもそも織田と武田って東美濃でほんのちょっと争ってた位で直接対決長篠と武田滅亡時位でそんな無いしな 義龍が急死しなきゃノッブの台頭はなかったから歴史が変わってたな >>28
そもそも海がないから食料もとるの大変だし人口も少ない、平地が多い愛知の方が農業むきだし >>28
まあそうだよな
あそこらへんは風土病もやばいしな 信玄謙信相手の戦は信長本人が戦場に立ってないのでカウントしないものとする
っていうことなんじゃ 信長最大の敵は
上杉謙信や武田信玄だろ?
何故に斎藤www 手取川で大敗ガーと騒いでも川中島の戦いみたいにバッタバッタと有名所が死んだわけではないしなぁ
信玄とか国力差考えろって感じでなあl
義龍だけはガチで手こずったしあと5年長生きしてりゃ全く違う歴史になってたな 尾張平定が一番大変だったと思う
それに比べれば全部雑魚 朝倉のなんか逃げ始めたので追撃したらそのまま本拠地火の海にしましたって終わり方何なん 道三亡き後も形式的に濃姫を介して同盟関係にあったからな
お市を介して浅井と同盟関係になってからじわっと美濃攻略がスタートしたと考えるとその頃に濃姫を斎藤家に返したのかもしれない
実は確実に濃姫と思われる足跡は輿入れ以降全くといっていいほどわかっていない 信長は斎藤義龍生存中はほとんど勢力伸ばせてないと言うか
むしろ義龍の方が京や近江に関わったり勢力伸ばしてんだよな 義龍は過小評価されてるよな
存命中は信長もどうにもできんかったから時間食いまくったてか尾張美濃統一が人生の大半なんだよな
チンギスハンのモンゴル統一と同じようなもんでそこからの大征服はめっちゃ早い 本願寺って漫画とか時代小説だと坊主どもが民衆だましてうまい事やってみたいに書かれがちなんだけど、実はそれまでの日本に無いような共同体ですごい可能性秘めてたんじゃないかと思うんですよ
けど左翼の人とかなんかむしろ悪く言うのは、やっぱり宗教が絡んでるからなんでしょうねえ >>9
波多野、別所、松永、荒木とかは義昭の上洛を助けた信長に従った
義昭が追放されて追放先から帰洛するためにあちこちの大名に協力を呼びかけた結果彼らは将軍に協力することにした
あの時代の畿内の動乱は大体将軍が京都から追放される→諸大名の協力で京都に復帰するの繰り返しだから当時の常識に則っただけで信長が特別裏切られてたわけじゃない >>37
そもそも義輝が殺されることもなかったから上洛軍を起こす理由もなかったかも >>48
本願寺は上級と繋がりまくった真の上級だったけど毛利荒木別所なんかとの連携も絶たれてもう虫の息だった
顕如は信長に頭を下げて終わらせたかったけど義昭の配下なんかの死ぬまで戦い続ける派が中に紛れ込んでいたので意思を統一出来なかった。そのために勅命講和の形を取ってある程度顕如のメンツを立てる必要があった
それでも一部強硬派は譲らなかったので結局顕如は強硬派を見捨てて先に石山本願寺を退去した。その後は息子が強硬派と尚も立て籠もって抵抗したが最終的には信長の勧告に応じて退去した >>1
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
浅井・朝倉氏の滅亡後、それぞれの庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。 ●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。 ●井沢元彦『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも織田信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、畿内の比叡山の荘園(山門料)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図りこれを朝廷に訴え、朝廷は山門領の返還を求める。しかし信長側はこれを無視し占領を続ける。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本は物流の要衝として商業が盛んで僧侶以外の町民も多く住んでいたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、元は信長による大坂への侵略が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の軍事費(矢銭)も支払い平和を望んでいた。(ちなみに同様の矢銭を拒否した尼崎の街は織田軍に焼き討ちされている)
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。 ●織田信長の生前に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
これは生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと見られ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に「贋作」であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画を基にイメージしたモンタージュの類いだろう。 常に戦ってるイメージだな。
徳川以外全部敵の状況で勢力拡大って結構難易度高いよな。
浅井は裏切るし。 織田軍はそもそも伊勢長嶋の一向一揆との戦い以外では殆ど戦死者出してねぇからな 金を持ってるところから税金を取るというある意味民に優しいやり方をしてたのが信長 井沢元彦が昨今の深く調べず逆張りでっち上げ説をぶち上げて注目集めたろ!の先駆けになったのは事実だな
ロクに調べずメディアでも取り上げるせいでトンデモ歴史が流布することになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています