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加藤清正「石田三成ゼッテエコロス」家康「まあまあ落ち着いて」加藤清正「家康コロス」こいつやべえだろヤクザかよ [256733901]
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0002習近平 (ワッチョイ 4ad6-LHkk)
垢版 |
2023/09/26(火) 20:05:19.39ID:h0Kf0gM70?2BP(1000)

@HIRAYAMAYUUKAIN
ところが、家康による三成隠居という裁定は、思わぬ事態を生んだ。家康の裁定を不服とし、加藤清正らが前田利長らを抱き込んで、大坂城に登城しようとする家康を暗殺する計画を企図したのだという。
慶長4年9月7日、秀頼のもとへ重陽の節句の祝詞を述べるために大坂城に向かい、備前島にあった石田三成屋敷を宿所とした。
ここで暗殺計画の風聞を知り、家康は徳川軍を呼び寄せて身辺の警戒にあたった。そのうえで、宿所を城外の三成屋敷から、大坂城内の石田正澄屋敷に移っている。
これらは、石田氏の協力と支持によるものであり、石田正澄・三成兄弟と息子重家が、秀頼を支える大老家康と協調していたことがはっきりするだろう(水野氏前掲書、中野等『石田三成伝』408頁以下他)。

@HIRAYAMAYUUKAIN
当時、前田利長は加賀に帰国中であったが、家康は前田の上洛できぬよう、軍勢を越前などに展開させ、さらに加藤清正や細川忠興らの動きを監視すべく淡路や丹波に軍勢が配置された。
この時、佐和山に隠居していた石田三成は、大谷吉治(吉継の息子)とともに、軍勢を率いて越前に出陣している。これは家康の要請に応えるものであった。
こうした三成の動向について、家康と三成の関係を厳しく評価する水野伍貴氏も「(三成の越前出陣は)前田領国近隣の領主に課せられた軍役とはいえ、三成の軍勢が戦局の要となる場所に充てられていることは注目に値する。
家康が三成に対して一定のレベルの信頼を寄せていることを認めざるを得ないであろう。また前述のように大坂に入った家康が宿所としたのは三成邸であり、その後、城内に位置している石田正澄(三成の兄)邸へ移っている(『鹿苑日録』)。この時期の三成は、家康の執政に対して協力的な姿勢をとっていたのである」と評している(水野「合戦に到る豊臣政権内部の動向」太田浩司編『石田三成』232頁)。
以上のように、私が「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」という事実はなく、「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている」となぜ記したのか。その理由をおわかりいただけたのではないだろうか。

@HIRAYAMAYUUKAIN

だが両者の協調は、家康が、秀頼を奉じ豊臣体制を支える執政に相応しい執政だと、三成が評価していた時期までであった。
その後の家康の動きが、三成が大谷吉継らとともに反家康に転じていくこととなった。それはやはり、「内府違いの条々」の冒頭三ヶ条に示される強引とみなされた上杉征討の動きを始め、
家康の政務のあり方を支持できなくなったことに尽きるだろう。なお、秀吉死後の豊臣体制の内実を、「文治派」と「武断派」の二項対立で理解するのがこれまで常態であったが、
もっと複雑な離合集散、対立状況が絡み合っていることが指摘されるようになっている。
今は、より精緻な基礎研究にもとづく人的関係と政治動向、権力抗争の諸相を明らかにしなければならない研究局面に至っているといえるだろう。
こうした現段階での研究状況をもとに、大河ドラマ「どうする家康」がどのように脚色されていくかを、楽しんでいただければと思います。(了)

#時代考証の呟き #どうする家康

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垢版 |
2023/09/26(火) 20:27:23.36ID:Ekypp6OP0
戦国武将は半グレと同じメンタルがほとんどだよ?
名を残してる武将はヤクザ的な知能や武力や運や人脈があっただけだし
それは昔も今(上級)も同じだよ
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