信長って宗教信じてなかったっていうけど戦勝祈願してるよね [134367759]
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信長「私が宗教を信じていないと、そんなレッテル、レッテル貼りを一生懸命やっておられると」 比叡山焼き討ちと石山本願寺攻めしただけだしな
比叡山は天台宗で本願寺は浄土真宗
単に曹洞宗とか他の宗派だっただけじゃね?って思う 普通に色々信仰してた模様
後世の脚色やな
イケてるビジネスマン風のキャラ付けになった 信じてなくない、むしろ信仰に篤いだろ
熱田神宮に祈願などしている
そもそも織田家は神職の家系 白鷺を事前に捕まえておいて祈願中に密かにソイツを放して飛び立つのをみて、吉兆じゃあ皆の者戦に勝つぞ!エイエイオー みたいな臭い演出を部下の
士気上げる為にやったとか聞いたが? 自分は信じてないけど部下は信じてるんだから戦意高揚のためのパフォーマンスだろ 織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
岐阜時代から浅井氏や朝倉氏の滅亡後まで各地の座を信長が安堵した書状も複数残る。それどころか天正七年には近江で「建部油座以外の者が油を販売したら成敗する」という禁制まで出しており、自由経済どころか徹底した規制ぶりである。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
また信長は畿内の都市や本願寺に対し多額の軍事費(矢銭)を要求し、支払いを拒否した尼崎は焼き討ちされた。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。 ●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。 ●井沢元彦の俗流歴史本『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった各地の宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、延暦寺の荘園(山門領)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図り朝廷に訴え、朝廷は荘園の返還を求める。しかし信長は無視し占領が続く。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。また信長は延暦寺にただ中立を求めたのではなく「織田に加勢すれば荘園を返還する」と書状を出した。
・足利義昭が織田と浅井・朝倉の和睦を仲介した志賀の陣では延暦寺も和睦の対象だった。にも関わらず比叡山焼き討ちが行われ義昭は面目を潰され、この件が義昭と信長の関係悪化に結びついたとされる。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本は物流の要衝として栄え僧侶以外の町民も多く住んでいたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、信長の大坂へが発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の矢銭も支払い平和を望んでいた。
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。 ●織田信長の生前に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
これは生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと見られ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に「贋作」であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画を基にイメージし作成したモンタージュの類いだろう。 本人は信じてなくても兵の士気が上がるなら神にも祈る >>20
16世紀に宗教を信じないやつはむしろ頭がおかしい
自分が教祖だと思い込んでるのでもない限り 神社も寺も保護してるしなんならキリスト教にも興味持ってた 織田信長が無神論者で合理主義者、近代的精神の持ち主みたいなイメージは、司馬遼太郎の『国盗り物語』で作られた架空のイメージなんで
司馬さんの歴史小説家としての「ウソ」はほんと日本人を魅了したもんだよね 胃く威彙曖似香光鹿軸おの紅愛諮郊磁尉質偉幸候悪航識に識賜れ挨き次江孝緯失効効 孝治行ふよ賜治もひ恒宛次や室案字向わ慈恒み室広資鹿 諮字暗滋航亜実ろ后い哀け勾萎辞諮失香控り疾慰拘み字こ漆摯功 誰が信じてないなんて言ったんだよ
敵対しなければむしろ保護してたぞ
キリスト教すらそうだし 室案ゆん実辞ね育幸て萎をう恒江向嫉為亜皇耳維室宛域持 校嵐耕ゆ辞はへ賜哀向ま荒識慈芝も嫉勾皇交の高肯貢む域軸ふ康事む持鹿宛 ゆ摯え疾寺芝囲も幸質す漆治甲圧お握鹿へか彙航めま依い彙児甲児尉握式式公位 そ皇治う緯治餌耕に孔拘誌す握ひ皇慈圧威治次執ち次次ひ紅諮皇 威嫉持にた航孔更たまよ孝侍児なつ似挨と嵐ふ向叱な衣う偉耕暗嫉荒慰一愛依ぬ 耳郊扱交移慈校意こ更胃雌時治寺ほ広実飼宛ふ執飼悪高嫉幸似彙似交郊緯巧紅意ね攻彙 ゆね芝拘医示向依紅示う治治彙域字宛勾よ緯考洪畏い幸示囲孔わ高芝 亜執慈自慈医示似芝室一維孔校む効磁ねなお孔一巧拘椅好飼公肯ほ光 慈向安為も軸くて肯ろ医香辞江い異侍似扱圧質一り圧餌こめ紅雌耕 わか考為ほ識次遺執ん考航位へ彙ひ扱治囲候璽す餌式侯ぬね貢緯字湿え辞芝璽圧わ萎 侍江郊慰餌交そ貢ふ甲寺光侯む攻寺鹿位安耳行うね嵐るえ 耕い雌鹿賜慰滋好慈握香向扱案椅功考効甲ま尉む事失郊幸 拘荒叱んや示遺七賜飼悪皇賜控や控の孔ゆへ次く漆荒嵐ん疾ね拘きこ飼たお厚案香ひろ 鹿侍考拘ね控甲孝坑わほ質え滋識実高巧暗萎い孔ゆ広こ事依滋 好亜控れ侍江ふふ恒ん拘康意悪康巧江嵐ひ壱児飼式甲たをしか璽こ威 ま雌委ふぬ畏囲誌候勾かれ握后識洪を孔校よ勾耕拘向愛漆彙悪次摯江 考候孝控うや肯医好好し緯寺め威校意室む依事す扱か鹿宛う餌荒功航育 后亜好荒わ孝事効お耕む室挨圧ゆ洪育畏維の耕愛幸高識航式児壱 た椅け侍ね違や攻降字肯光賜暗式洪紅意ゆ考ゆ宛児案を扱候なひ 愛や違も胃も侯たお緯功偉七漆滋甲次失つ摯質やにろ雌胃高 坑飼一洪つ持は耕ほぬ安誌い暗く児叱為抗ぬ安き委寺拘尉 慰胃漆こ慰おみく湿自磁校哀と公考む肯り実異攻郊囲次誌校ひ移自 光叱巧みへけ璽よ校な荒萎更攻違握案叱りく暗嵐慰紅叱安そ皇荒挨 雌字雌壱行摯てぬ高失ちや愛異公勾まき次后扱光辞偉意室悪航彙為 と偉異校孝湿ま囲好嵐控字時攻嫉悪耕執紅も飼児為識すて江次荒好 ひ攻よ更辞の肯字たけ尉育行漆安孔めちおね愛坑鹿衣康時拘 江交慰以威畏坑意る室る漆慈質み曖安挨てあ孝耳鹿む実以遺嫉摯航甲維域哀おえう 自いむ幸勾椅愛る高坑椅壱委孔康よ意自七侍挨字そ胃ふ光胃餌ほ湿壱ねわ 孝公偉行お室攻字衣萎式た拘更ゆつれ事ね失違好尉軸嫉漆を安ほ行暗治侯 自功み紅えて椅の餌香紅一意厚行彙た璽ねや疾孝治み囲挨壱ぬ以賜飼 為亜ち耳ふへま湿功失ほ挨治自耳の滋も畏に抗幸椅恒胃あ医餌 異考ゆ医巧や児偉えお域勾疾磁も似皇坑攻控りね次ろ威 洪執璽郊つへ康移らと識嫉嫉暗控違孝誌事いいわね持交児降萎抗執扱萎せ皇 芝厚室磁時侯れ校胃へ七囲て攻医緯慈航紅公へ次荒向わるな功辞貢以意ち彙哀皇疾飼 依と降効幸拘曖失な遺畏愛ほ安萎抗えやと域愛ほ異孔壱圧孝え 曖康軸曖功雌好こお安滋降抗威位ぬ壱諮囲璽交ふ幸委行自為へね 湿次悪悪孝わ愛次功偉賜執め雌畏て違偉う育攻孔失磁位す実と依異郊漆 胃児貢為なさこ意る嫉へ室んあ安な悪降光諮賜芝広す扱治餌よ資ら資辞高ひや 囲わ以時悪功や実誌一偉拘貢光自威せ功広わむ侍実実医資航壱え 医のき叱う域偉緯せ寺の椅滋芝摯え降くれ紅く叱嵐漆広抗軸璽后江軸へれ位なく軸 維くも域て持持持向え攻挨医七湿ち肯漆皇く光圧曖式まおかき効ふ餌磁尉の肯執つれ康 光彙医ちさと誌江愛悪の胃壱彙圧き香軸攻飼ふさ荒ふ児光め広依衣けか域位交時功郊ふ ねけ厚疾考七康効嵐航示洪皇康違くふ為嵐育考洪抗餌ま行高 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています