
年末は音楽特番のシーズン。今年は”覆面シンガー”のAdoが話題をさらいました。『ベストアーティスト2023』(12月2日放送日本テレビ)と『FNS歌謡祭』(12月6日放送フジテレビ)でスタジオパフォーマンスを披露すると、圧倒的な歌唱力に“恐ろしくうますぎる”とか”エグい”などと絶賛の声が相次いだのです。
筆者も驚きました。裏声にヨーデル、さらにドスの利いたシャウトを使い分ける喉の強さ。カラオケのように歌うのではなく、演劇的な抑揚で歌詞を”読み上げる”プレゼンテーション。それらを一瞬のもたつきもなくやり続ける持久力。どこをとっても、かつていなかったタイプで、様々な能力が突き抜けていると感じました。
しかしながら、こうしてAdoの能力が際立つほどに、筆者には昨今の日本のポップスが抱える問題が見えるのです。
ここからは、Adoをはじめとしたいくつかのヒット曲が浮き彫りにする論点を考えていきたいと思います。
肝心の“曲”についての言及がほとんどない?
それはすでに世間の感想にあらわれています。みんなAdoの歌はスゴいと言うけれど、肝心の曲について、いい曲なのか悪い曲なのか。美しいのか、心地いいのか、そこへの言及がほとんどないのですね。
どういうことかというと、歌手の役割は、音楽、曲のイメージを聞き手に伝えることなのに、Adoとなると曲そっちのけで彼女のボーカルが圧倒的だという評価であふれてしまう。これでは本末転倒なのではないでしょうか?
もちろん日本のリスナーが悪いと言いたいのではありません。むしろ、Adoの歌う楽曲自体に聞き手をそちらへ誘導するような仕掛けが施されている。そこに違和感を感じるのです。
「唱」ならば、ラップにポエトリーリーディング、ハードなシャウト、メロディを正確に歌い上げる部分、そしてわざと調子っぱずれに歌を放り投げる表現法。これらがずらっと陳列されている。言ってみれば、ゴテゴテの全部乗せ状態です。https://news.yahoo.co.jp/articles/7070c9526bd89ec3fd950cd42e926d2adf2aaa46