なぜ、歴史学会は蘇我氏渡来人説を否定するのか? [237216734]
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学会は間違ってる
そもそも高寛敏などまだ渡来人説を主張している研究者がいるのに、学会では受け入れられていないなどと書くwikipediaは狂ってる 明白であるってお前のイメージやんそれ
反論あるならテマエが論文書けろ
反論
1.「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
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「史料解釈上は414年」というのは「お前の解釈」であって、神功49年の記事、神功62年の記事、応神25年の記事は更に60年1巡させるべき。との指摘も存在する。(山尾幸久「古代の日朝関係」)
時代が異なる。と断言する根拠は何なのか あれ?蘇我氏は渡来人系って習ったような気もするが、なんか変わったのか?
むしろ「お前の説」だと応神25年(414 CE)から雄略19年(474 CE)まで百済記の引用がない、不自然な空白が生じることになるが、どのよう説明つけてるんだ?
また、日本書紀は蓋鹵王の即位年を巳巳年(429年)とする誤りを冒している。より信頼性の高い同時代史料である『宋書』を参考すれば、429年に即位したのは蓋鹵王ではなく毗有王なのであって、日本書紀が毗有王の時代を抹消しようとしている蓋然性は高いのである。 渡来人は帰化人。もともとは日本人にいた人たち。帰ってきたから帰化人
蘇我氏が稲目の時代になって「多くの渡来系氏族を配下に」「突然興隆」したのは、稲目の父が百済の名族「木満致」だったからに他ならない。
「木満致」は渡来人の多い河内地域にやってきて、葛城氏の女性と結婚し、蘇我稲目を産んだのである。そして故地百済とのパイプを利用して対外交易で活躍し渡来系氏族を傘下に入れて一挙に大勢力を築くことが出来たのである。蘇我氏が彗星のごとく現れて忽ちに大臣まで輩出することが出来たのには、上記のような背景があったからだという説明が一番妥当性が高い。
>>6
加藤謙吉『蘇我氏と大和王権(1983)』が今や通説だよ。蘇我氏は渡来人ではなく、葛城氏の支族であるという説ね 蘇我氏は継体天皇と一緒に北陸からやってきたの 阿部氏も一緒だよ 北陸って渡来人の影響強いとこなんだね 朝鮮風のキンキラキンの王冠とかは北陸の古墳で最初に出てくる 蘇我氏に限らず有力豪族はほとんど渡来人
日本列島に早く来たか遅く来たかの違いだけ ちなみに日本書紀は隠しているが飛鳥時代の天皇家(大王家)が蘇我氏 蘇我氏は日本史では悪役だけど本当は名門中の名門一族だったらしいな
実は正統な天皇家は蘇我氏だった
蘇我氏を滅ぼして天皇家を乗っ取った天智・天武が自らを正当化するために蘇我を悪役に仕立てた 歴史学会ってどの学会よ
史学系の学会はうじゃうじゃあるぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています