飛脚って本当に人間だったの🏃江戸大坂を3日ってヤバいだろ [509981292]
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江戸時代から近代にかけての「旅」をテーマにした展示会が、臼杵市歴史資料館で開かれています。
この展示会は、江戸時代から近代にかけて人々が楽しんだ旅の様子を紹介するもので、市が所蔵する当時の地図や書籍など30点余りの資料が展示されています。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20240126/5070017715.html 県境では関所があったり人力で東京大阪間で書類送ったり考えられんな 車も舗装された道路もあるのに3日かかる日本郵便さんはなんなんだよ 山賊に狙われる時のセキュリティとかどうしてたんだ? >>151
ということは宿場町に1人担当が居たんだな 夜も走ってたみたいなレスがちらほらあるけど街灯もない舗装もされてない江戸時代の夜の道を走るなんて無理くねえか 物流の中心は海路だから陸路が発達しなかったんだろ
江戸時代において、海上輸送は物流の主役でした。
「千石船」(せんごくぶね)と呼ばれた大きな帆船の輸送力は、牛馬を使う陸上輸送の比ではなかったからです。
江戸幕府は、東北・北陸地方の年貢米を迅速かつ安全に江戸まで運ぶために、
1671年(寛文11年)と1672年(寛文12年)に新たな航路を開発します。
この航路はやがて蝦夷地(えぞち:現在の北海道)まで延伸。日本全体をひとつにつなげ、
江戸時代の経済発展の礎となりました。
このとき、商人の町として繁栄した大坂(おおさか:現在の大阪府大阪市)と、
政治の中心地で一大消費地となった江戸との間を行き来していた船が、
「菱垣廻船」(ひがきかいせん)と「樽廻船」(たるかいせん)でした。 >>132
背負子だと中身が
あーもうめちゃくちゃだよ
な事になりそう >>30
なるほどー
中世ジャップの馬は輸送に向かなかったのね 船使ってんじゃね?
当時から海流とか把握してたみたいだし >>191
実際に宿場町ごとに元締めがいてピンはねしてたらしい
>>193
2人一組で1人が提灯持って走ってた 航路は西回り東回りあるから大阪→江戸は運べるけど逆は無理 >>146
飛脚のネットワークが出来てたんだね
恐らく1日に一往復ぐらいで小包を受け渡しするよう待機してたんだろうね 江戸時代後半にはすでに手旗信号で江戸大坂を2時間で通信できるシステムがマジであった
望遠鏡を使って人を等間隔で配置して手旗信号でリレーする 体力消費抑えるためにガイジみたいな走り方してたと言われてるが絶対嘘だわ
あんな走り方のほうが絶たい疲れるだろう >>1
今の感覚で考えると絶対見誤るぞ
今なんて有史以来一番運動しなくなってるからな 宛名はあったとしてろくに住所もない時代だろ
どうやって届けたんだ? この頃はちゃんとリレー方式で運べてたのに
今は一人の運ちゃんが寝ずに突っ走ってるんだもんな 駅毎にバトンタッチで実際は50組ぐらいが分担して運んでるからな
現代ならUber Eatsに近い 箱根駅伝すら箱根に行くのにかなり時間かかるのに
当時の道路と道具でそんなに早く行くのは無理だろ...
川とか考えたら今の徒歩で行く速度と変わらん気もする その頃、江戸に住んでたけど
飛脚が人間じゃなかったことは忘れられてるんだな
人間じゃなかった…… >>49
日本の場合、都市があるのは平野部だけどその都市と都市の間の道は山岳や大きな河川が横断してる
だから長距離交通に牛車やらを使うっていうのは無理があったのが大きいと思われる
都市内の交通に関しては何故普及しなかったのかは知らん そろそろ自転車とか自動車発明したのは日本人って言い始めていいんじゃないの?
自画自賛ネタも枯渇してきたし、少しぐらいの脚色はね? >>56
米の先物価格は狼煙リレーで飛脚なんかよりも全然短い時間で伝達されてたんよね >>209
郵便制度が整うまで
個人が私信を気軽に出すような時代じゃないから
飛脚を使ってるのはどうしても短期間で連絡する必要がある公儀や大店の商家、武士でも大名あたり
細かい住所が必要な場所に住んでる奴はそもそも飛脚なんぞ使わない
飛脚は使わないが、遠方の人間と連絡を取る手段がなかったわけではなく
自分の目的のそっち方面に行く機会がある商人や旅人に言付けを頼むなどして
個人でも文書で情報のやりとりをするような事はあの当時でもけっこうあったようだ
当然の事ながら、そういうのは届くのに下手したら何ヶ月もかかかったりもするが >>30にも記録にあると書いてあるが
リレーでなく一人で堺~江戸を3日て人がいたらしいから不可能ではないんだろね 東海道は箱根と鈴鹿と山科あたりが少々盛り上がってる程度だからまだマシだろう。 >>228
情報だけなら江戸大坂なら2-8時間で届いた >>40
左手と左足が前に出てる
これがナンバ走り? つうか飛脚ってリレーだろ?一人でずっと走らないだろ? >>230
箱根の標高800メートルは少し盛り上がってる程度じゃねえなあ 途中で強盗に襲われると思うんだけど
護衛も一緒に走ったのかな? そういう飛脚文化があったせいかは知らんが、
日本が初めてオリンピック出場した種目は
マラソンだったからな よく岡っ引きは穢多だったとか言うけど飛脚は違うのかな
どういう身分だったのかな? >>228
坂本龍馬は分かってるだけでも140通、手紙を出してるね >>216
×昔から
○今も
>>230
河が多いから天候が崩れると直ぐ増水して足止めくらうよ >>232
手旗とかだと箱根とかの山を越せなくて
そういう所は飛脚を使ったらしいから
二時間ってのは流石に無理あると思う >>243
箱根だけ飛脚使ったという
それ含めて8時間 >>245
馬は兵器だから厳しく制限されてた
飛脚なんぞが馬に乗れるわけがない >>26
今みたいに二車線じゃないから道塞ぐってことで禁止されてたみたいよ 飛脚というからには飛んで走ってたわけで舞空術の使い手だったと推測される ヒマなら散歩がてら東海道踏破みるといい
箱根が天下の険と呼ばれた意味を実感できる >>248
最近だとドローンを目の敵にしたり、鉄パイプに恐れをなしたりなのと似てるな。お上が兵器になりそうなものにビビるのは昔からの伝統なんだな。 >>13
馬の方が高そう
俺の祖先は宿場の馬屋だったと聞いたことある >>225
自転車の後輪カバーを発明したのは日本人らしい >>195
海路を優先するのは当たり前
速度も運べる量も陸路とは桁違いなんだから
古代人の伝播も海路中心だよ
氷河期は陸続きだったからそれによって移動できた~、なんて説は正しそうに見えて半分間違い >>128
馬車は禁止されてないし単に発明できなかっただけだよ
それまで存在しないのに禁止されるわけがない
運搬に牛車が盛んに使われている藩や街道でも馬車は使われてない
幕末まで日本において馬に車を引かせる技術はなかった 平均時速7kmで走れば3日で500km走れる
マラソン男子は時速9kmだからリレー形式なら3日後に着く >>255
東海道とか橋をかけるのも禁止されてたよね
鉄砲射撃が有利になるように江戸側の堤防の方を高くしないといけないとか堤防の高さまで制限されてたからな 馬丁ですら馬の速足に付いて歩き回っててビビったって居留地の外人が言ったくらいだしな
昔の日本人はスタミナお化け >>261
中国では紀元前から馬車はあったのに不思議だよな >>261
箱根の東海道跡とか見たらわかると思うが
日本の街道は登山道みたいな難所が多くて車両が通せない道が多かったからな 関西では平安時代から普通に牛車使ってた
ウマは国産のはポニーくらいの小型しかいなかった
戦国時代のウマは本当はポニーくらいの大きさ
テレビは大ウソ 江戸防衛のために橋をかけるのすら禁止してた幕府が箱根峠とか宇津谷峠とかわざわざ馬車が通せるほど整備するわけがないだろ >>267
京都の街の中だけだろ?
それ以外は輿使ってたよね >>66
一応伝書鳩と同じ方式で、3個くらい同じ内容を書いて別々に送る。
2人までなら殺されてもオーケー。 >>267
中世に使われてた馬の大きさはどこの国でもたいして変わらん
ヨーロッパの騎士もモンゴルの弓騎兵も日本の武士も木曽馬と大差ない馬に乗ってた 箱根駅伝往路が107キロを5人で5時間半だから25人いれば届くね ポニーっていっても大型だからポニーで想像する大きさよりはでかい そもそも箱根駅伝が飛脚オマージュで始まったこと知らない香具師多くてビビるわ 元帰宅部チー牛引きこもり「リレー方式でしょw」←これwwwwwwwwwwwwww 年賀状の時期は地獄だったろうな
寒いしハガキ多いし 西からくる蛮族の様子を箱根まで確認して戻ってくるまで2日
これ防衛間に合わんでしょ >>219
指輪物語のストライダー
韋駄天と訳されたりストライド大股で歩く人
飛ぶ脚の飛脚にイメージ似とる。雇われと放浪者冒険者の違いはあるが。
エルフ寄りで普通の人類とは違うという設定だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています