Macintosh誕生40周年 [256556981]
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Macintosh誕生40周年 コンピュータが未来だったあの時代
初代Macintosh、のちにMacintosh 128Kと呼ばれることになるコンピュータが世界に発表されたのが、1984年1月24日。今年がちょうど40周年に当たるのだそうである。
初代機はほとんど日本では使われなかったはずだ。メモリーが少なく、まだ日本語が扱えなかった。日本においては、1986年に発売されたMachintosh Plusのほうが初代という印象が強い。わかったわかったDynaMacとか面倒な事をいうな。そういうことを知ってて書いている。
80年代半ばからWindows 95が出る90年代半ばぐらいまで、当時のコンピュータはどれも製品寿命が長かった。今のように毎年新モデルが出るようなことはなく、1台のコンピュータを長く使った。
筆者が就職したのもちょうど1984年のことで、テレビ番組を制作するポストプロダクションにて、オンライン編集マンとしてのキャリアをスタートさせた。当時編集機は専用コンピュータで、インタフェースを介してVTRを操作しながら編集していく。
激務だった。当時はそうした状況を表わす言葉がなかったが、今で言うところの「IT土方」である。言うなれば、「テレビ土方」か。給料も安かった。
個人では家賃3万数千円の学生時代から住んでいた日当たりの悪いアパートで、YAMAHAのDX音源内蔵MSXを購入し、いつかは音楽家になれないかなと思いながら、コツコツと音楽制作を行なっていた。
ソフトウェアはカセットになっており、音色作成カセットと譜面制作カセットを2本挿しして、シーケンサ兼音源として使用する。以前はバンドもやっていたが、自作曲がやれないということで、2人組のユニットを組んだ。当時シーケンサをバックにユニットでライブをやるグループは少なかった。
筆者が買った初めてのMachintoshは、SE/30というモノクロの小型モデルだ。1989年発売だが、購入したのは1990年だった。当時の価格で40万円ぐらいしたのではないだろうか。
MSXでの音楽制作に限界を感じ、MIDIを使って手持ちの楽器を音源として使いたいということから、シーケンサソフトのOpcode Visionと専用インターフェースも一緒に購入した。合計で80万円近くになったはずだ。当時社会人になって6年も経っていたが、ローンでなければ買えるものではない。当時のシーケンスソフトの主流は「Performer」だったが、高くて手が出なかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f558bc4225698b0f540e8d6b4e89a166a14f54a1
Mac屋だらけだった秋葉原
1980年代後半から90年代初頭には、秋葉原にはMac屋がそこそこ多かった。いわゆるパソコンショップ系列ではなく、お茶の水の楽器店がコンピュータミュージック専門店としてアキバに進出してきた、そういう時代だった。
SE/30とVisionでずいぶん曲も作ったが、Macはよくハングアップした。シリアルバスにMIDIインターフェースを繋いでいるのだが、うっかり楽器をつなぎ換えると、保存していなかった作りかけの曲が何度もパーになった。次第に嫌気がさして、やっぱり専用ハードだなということでシーケンサはローランドのMC-50へ乗り換えた。
急にMacの使い道がなくなった。ただ、もう音楽に使うのは無理そうだなという感触はあった。当時の情報源と言えば、Mac雑誌とアキバのMac屋で常連の話を立ち聞きするぐらいの事である。そうそう雑誌も買えなかった筆者は、買うものもないのになんとなくアキバをウロウロするようになった。いわゆるフリーソフトであるPDSをフロッピーディスクにコピーしてくれたり、サークルが作った同人フロッピーが売られていたりと、変なものが手に入った。
大抵Mac屋はビルの1階にはなく、家賃の安い2階3階にあった。そんな当時のMac屋にはみょうな連中が入り浸っており、あちこちのMac屋で同じやつに何度も遭遇したりした。どこの誰かも知らないし、特に約束したわけでもないのに、なんとなくいつもいる。
そんな中の一人に、誰にでも声をかけて妙なことばかりやりたがる日本語が流暢なアメリカ人が居た。のちにテレビのコメンテータとして知られるようになる、モーリー・ロバートソン氏である。何度も遭遇しているうちに、モデム買いなよゲームで対戦しようぜ、と誘われたのだが、ゲームに興味が無かったのでモデムだけを買い込み、パソコン通信を始めた。
思えばそんなことがきっかけで、今はモノカキになっている。
Macではできなかったこと
Windows95が大ヒットする前まで、Mac以外のPCはコマンドベースがまだ多かった。MS-DOSかDOS/Vか、である。すでにワープロソフトや表計算ソフトは存在しており、ビジネスで使った人も多かっただろう。ゲームもMS-DOS用のものが多かった。
一方でMacを個人で使う人は、なんとなく特殊だった。仕事で使うという人はごく一部で、多くはMacそのものが好き、という人達が多かった。つまり、実用目的ではないのである。当時は自分も含めて、こうしていればやがて違うところにたどり着けるのではないか、という思いがあった。
違うところとは、今で言うところのネット社会とかバーチャルワールドではない。リアルな世界の中で、奴隷船でオールを漕ぐのではなく、もっとクリエイティブな世界で生きていけるのではないか。
1990年には会社を変わって、筆者はテレビCM合成の仕事をしていた。CMの世界には多くのクリエイターやアートディレクターと呼ばれる人達が活躍しているが、筆者のようなテレビ土方からは完全に線が引かれており、長く務めてもそちら側に行ける可能性はなかった。別の飛び越え方が必要だった。
だがMacからビデオ信号を取り出すシステムは、あまりにも高価だった。当時の会社にも導入するよう見積なども提出したが、一笑に付された。
そんなときに仕事で知り合ったのが、アートディレクターの田中秀幸氏だった。伝説的なテレビ番組「ウゴウゴルーガ」や、キャラクター「スーパーミルクちゃん」で知られるようになる前のことである。
彼は当時NHK美術センターを退職してフリーで活動していたが、古巣であるNHKの仕事も多かった。彼が編集室に持ち込んだAMIGAというコンピュータは、モニター出力からGVPというメーカーの廉価な機器を通してビデオ信号に変換できたことから、メモリーに溜め込んだ数秒のグラフィックスを少しずつVTRに収録し、それを編集・合成するという手法で番組オープニングなどを制作していた。
同氏と一緒に制作したのが、NHKの教育番組「天才テレビくん」の初代オープニングであった。AMIGAはビデオ信号が出せるコンピュータシステムとしてはかなり安く、Macを使うよりも現実的に見えた。以降仲良くなり、用もないのに田中氏の自宅に遊びに行ったものである。思えば用もないのになんとなく集うという慣習が、インターネット夜明け前のコンピュータ文化にあったのではないだろうか。そこから筆者もAMIGAを購入し、見よう見まねでCG制作の道に入った。
当時AMIGAには「Video Toaster」というスイッチャーシステムがあり、これに付属していた3DCGソフト「LightWave」はのちに一世を風靡することになる。現在ライブ配信システム「TriCaster」や、映像伝送規格「NDI」を開発するNewTekと筆者との付き合いは、この頃まで遡る。
秋葉原には、AMIGAの専門店も2件あった。あとはお茶の水、御徒町、のちに下北沢にもできた。Macのサブカル具合は、のちにCD-ROMブームを産むような、カラフルで鮮やかだった。一方AMIGAはサブカルをこじらせて、もはや怪しいような世界があった。
コンピュータにかけた夢
話をMacに戻す。当時Macは、スクリーン上で見えているままに印刷できるWYSWYG(What You See is What You Get)というアーキテクチャだったことから、DTPに使われるようになっていく。
一方動画については、テレビ出力のほうには伸びず、コンピュータ内での動画表示にこだわった。1991年に発表されたQuickTimeは、翌年のOSアップデートに合わせて無償配付された。Adobe Premiereもこのときに誕生している。
最初はQVGA(320×240ピクセル)ぐらいのサイズが動くのがやっとで、当時高品質なテレビコマーシャルの制作を手がけていた筆者からすれば、まだまだ全然使い物にならないという印象しかなかった。なにせ640×480ピクセル(VGA)の、1/4である。だが当時のコンピュータでフルカラーが難なく表示できるのはMacぐらいしかない。
多くの人がこの可能性に飛びつき、やがて実写動画ではなくCGアニメーションを動かすという方向で飛躍的に進化した。「MacroMind Director」の登場により、その動くグラフィックスは様々なCD-ROM文化として開花した。ゲームはもちろん、動画付きのサブカル辞典のようなものも数多く制作された。
日本のインターネット普及は、Windows 98が発売された1998年以降とされる。これがCD-ROM文化を急速に衰退させた。だが少データでグラフィックスを動かす技術は、Webページ上のアニメーションとして生き残り、現在に至る。思えばCD-ROMブームがなければ、Webはもっとテキスト寄りの文化になっていただろう。
かつてはパソコン文化の聖地と言われた秋葉原だが、インターネットもない時代は、調べて一方的に情報を得るということはできなかった。だから人と会って話をして、見たこともないソフトが動いているのを見て、言語化されていない何かを掴むしかなかった。
文筆家となった今、敢えてそれらを言語化するならば、モーリー・ロバートソン氏からは「懲りないことが力になる」ことを掴んだ。田中秀幸氏からは、「何かの素養が無ければコンピュータがわかるだけではダメだ」ということを掴んだ。
コンピュータの方向に未来があるのだけはわかっていた。そうした夢が見られたのがコンピュータの世界であり、その世界に居続けることがまだ決まっていない未来の手触りを感じられる唯一の手段だった。
筆者はいその夢を叶えたわけではなく、今もその夢の中に居たいだけなのかもしれない。あのデタラメな時代の気持ちのまま、今を生きている。 >当時のコンピュータはどれも製品寿命が長かった。今のように毎年新モデルが出るようなことはなく、1台のコンピュータを長く使った。
なんでこんな嘘つくの?
毎年モデルチェンジして越えられない性能差に泣きながら使っていただけなのに >>10
SR以降、AV以降、turvo以降、VM・UV以降・・・ バブル期はモニタ等と一揃い50万円~だったな
Macintosh II fxとか本体だけで100万超えてた
バブル崩壊 & ライバルWindows95登場 & 超円高でPerfomaシリーズが20万円くらいで登場
うちにもようやくMacが来たのが1996年 >>11
出ても数ヶ月おきに本体なんか買い替えない
パーツの取っ替えひっかえができるようになって、
数ヶ月おきに新しいカードやパーツを増設
するようになるのは、ドスブイパソコンがでてくる
もう少しあと >>15
車買えるくらい高かったからシャッキントッシュって揶揄されてたからねえ
でもPhotoshop、illustrator、QuarkXPressでDTP業界には徐々に普及した
というか買わないと仕事取れない感じ >>10
2005年に買った最終型g5はAppleに見捨てられても性能的にはメモリとhad足す程度で10年くらいはいけたし
2011年に買ったMacBookProも先日壊れるまで10年以上現役だったな
68kや初期のPPC機なんかは壊れなくても性能的には3年もすれば無理が来て
mpuまでアップグレードしながらだましだまし使っても五年経てば実用性なくなって趣味の世界の道具になるから
90年代から00年代初頭の10年くらいってパソコンでテキスト打ちや表計算程度から音楽、3d、動画編集まで性能の向上でやれることがどんどん増えてく進化の早い時代だったと思う
mpuも数十mhz程度から一気に数GHzまで100倍近く性能向上してたし アップル今はMacintoshって製品名使ってないんだな >>21
80年代~2000年初頭までは性能寿命が
短かったね平均3~4年くらいか >>23
Power Macintosh G3 Blue and White が「Macintosh」を名乗った最後のハードウェア
G4になったモデルは Power Mac G4
その前年にボンダイブルーの iMac が登場してる ただのスーパーのバーゲン広告をMacで作りましたってどや顔するバカを駆逐したい。 母艦winでiPad併用
なにも争うことなんてないんだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています