これは、ヴィム・ヴェンダース監督作品『ゴールキーパーの不安』や『ベルリン・天使の詩』の脚本を書いたことでも知られるドイツ語圏における最も重要な現代作家の一人、ハントケが、五一歳の若さで自殺した母親について書いた内省的な文学作品だ。「〔素材に対して〕あくまで外側に身を置き、即物的に向き合っている。ついに、みずからを回想と表現の機械と化してしまうまでに」という姿勢で創作と向き合ってきたハントケは、母の自殺というショッキングな出来事に対しても、それを貫こうと試みる。ところが、そうした対象との距離感を重視する作家が、こと母親には「うまく距離がとれない」。母は「生き生きとして自立した、少しずつ曇りがとれて透明になっていく作中人物」にはなってくれず、「カプセルの中には納まりきらず、捉えきれないままにとどまり、文章は闇の中へ失墜し、紙上にただ入り乱れて散らばるばかり」。作家は起こった出来事と言葉の間で宙ぶらりんの状態に置かれてしまうのだ。
『幸せではないが、もういい』(同学社) - 著者:ペーター・ハントケ 翻訳:元吉 瑞枝 - 豊崎 由美による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
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