旅順虐殺事件

旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん、リュイシュンぎゃくさつじけん)は、1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生した事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した[1][2]。

午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この二つの部隊は、土城子戦後の掃討の際に生首が鼻や耳をそがれて道路脇の柳や民家の軒先に吊されているといった日本軍死傷者に加えられた陵辱行為'’を、目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発していたものの[5]、これ以後、旅順の日本軍は野蛮な敵討ち的感情にとらわれたと推測する者もいる[7]。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000336.000029256.html