【驚愕】日本軍の戦争犯罪、ヤバすぎるWXWXWXWXWXWXWXWXWXWXWXWXXWWXXWWXWXWXWこの国 [254373319]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
旅順虐殺事件
旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん、リュイシュンぎゃくさつじけん)は、1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生した事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した[1][2]。
午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この二つの部隊は、土城子戦後の掃討の際に生首が鼻や耳をそがれて道路脇の柳や民家の軒先に吊されているといった日本軍死傷者に加えられた陵辱行為'’を、目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発していたものの[5]、これ以後、旅順の日本軍は野蛮な敵討ち的感情にとらわれたと推測する者もいる[7]。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000336.000029256.html
イワノフカ事件(いわのふかじけん、ロシア語: Инцидент в Ивановке)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対する抗日パルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村(ロシア語版、英語版)(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件[1][2][3]。イヴァノフカ事件とも呼ばれる。 俺はもし戦争になったら
敵国兵は信じてもジャップ兵だけは絶対に信じないと心に決めている
お前等もそれだけは忘れるな
集団化したジャップは世界で最も信用に値しない存在である 今更聞くのもなんだけど、このスレタイのWXWXWX…って何なの? こういう憎き支那畜と露スケを成敗した話聞くとワクワクするw
仮にこの話が事実だとしてもそれはそれで別にいい 白馬事件
ベイビューホテル事件
バンカ島虐殺事件
アレクサンドラ病院事件
etc、腐るほどあるで 素性は残酷な戦闘民族だからなw
今はただアイデンティティ欠損で弱者叩きに奔走してるだけだが本来は陰湿で残酷な民族だよ
日本人はねそろそろ追い詰められれば本性を出し始めるよ
いったん火が付けばそこかしこに潜む外国人だって加勢にはいるよ
まぁ後ろに気を付けることだねw 俺もだがなw 犯罪云々なしに戦前の陸海軍はガイジ過ぎる
特に陸軍だけど。 例えばシンガポールの戦いで勝利しマレーの虎と恐れられた山下中将だが
彼は日本人には珍しく上層部にも批判的であり
大変論理的な人物でもあった
シンガポールの戦いでの判断ミスは全く無く
ほぼ完璧な采配を振ったことでも知られる
だがそんな山下中将も
シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ絞首刑となった
彼は責任者としての役目を果たせず残虐行為を止められなかったわけである
山下中将のような言わば日本人的ではない者すら
時代の波に抗うことは容易ではない
それが戦争なのである 日本軍
「ビハール号事件」1944年3月
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。
「ババル島事件」1944年10月~11月
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による住民虐殺事件。被害者数704名。
「ポンナチャック事件」1943年10月~1944年1月
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人
「デュエナス神父処刑事件」1944年7月
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。
「メリッソ村民虐殺事件」1944年7月15日
グアム東南部のメリッソ村民が日本軍により虐殺。被害者数46人。
「トラック病院の捕虜生体解剖事件」1944年2~7月
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名がショック死。生き残った二人はダイナマイトで爆殺された。
さらに他の4名にぶどう状球菌を注射し全員死亡させる。
「ティンブンケ事件」1944年7月
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名の村民が日本軍に集団殺害された事件。
「パラワン島米兵捕虜殺害事件」1944年12月13日
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が処刑される。
「父島人肉食事件」1945年2月
撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困っていたわけではなかった。
被害者数8名。
「九州大医学部生体解剖事件」1945年5月17日~6月2日
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生きながらえるかを実験した。
「マニラ市街戦での虐殺事件」1945年2月
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害。
「石垣島事件」1945年4月15日
石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。
「ランソン事件」1945年3月
仏印北部のランソンで仏兵捕虜を処刑。
「サンダカン死の行進」1945年2月~6月
北ボルネオのサンダカンから260キロ離れた西海岸へ移動させられた2000人の英豪捕虜の大部分が飢えと病気のため死亡した事件。
「花岡事件」1945年6月30日
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で働かされていた中国人労務者がおこした蜂起・逃亡事件。
警察、自警団、鹿島組などが鎮圧、見せしめの為100人が拷問後処刑される。
「ヤルート島民処刑事件」1945年5月
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民21名を殺害。
「カラゴン事件」1945年7月
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民600名を集団殺害した事件。
「オーシャン島住民殺害事件」1945年8月19日
島民140名に終戦を告げた後、全員をがけの上で銃殺。 >>7
お前は支那の五線都市の県の鎮の村に住んでるクソ貧乏土人なんだからそもそも日本と関わる機会がないだろww 日本軍が敵を残酷に扱ったことは真実だろうけどもその動機として敵軍が日本人を残酷に扱ったからそれが動機になったというこの動機が芽生えた部分は言い訳したいがための日本人の創作だと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています