【速報】上杉謙信「戦闘最強です。170万国の大大名です。京から近いです。関東管領の名門です」→こいつが天下統一できなかった理由 [661852521]
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信玄もそうだけど
天下を取るって発想自体が無かったよね
信長が京に上った辺りから焦り始めた感じ でも月に一度決まった頃に腹痛で自室に籠もっていたらしいね 北条攻めて北関東の木端大名を従属させるが、越後に撤退したらこいつらはすぐに北条に寝返る
外交とか根回しが壊滅的だったのだろう わからないひとは これを見ましょう
前後の動画も
まんが日本史 #33 戦国の群雄-武田信玄と上杉謙信-
https://www.youtube.com/watch?v=aEz-HczIRog 義輝時代に上洛もしてるし道中の朝倉とも仲良かったから関東とか武田といちゃついてなきゃ普通に取れてたと思う
畿内と濃尾押さえた織田が伸びてからじゃ手遅れその前なら行けたはず 米も魚も塩もとれる土地にあるから別に他所から奪う必要がなかったみたいに聞いたけどマジ?
なんだかんだで家も続いてるし 本拠地の越後が関西からも関東からも遠いから兵站に問題があった 配下の武将が宇佐美以外はみんな脳筋だったからとkoeiで学んだ 京都人だが新潟遠すぎて行ったことねえわ
こないだ甲府には初めて行った(寄った)
駅前の武田信玄像の尻見てきたわ 雪がすごいし長尾は下剋上して2代目だから国人とか一門の独立心強すぎだし そもそも体制をひっくり返すっていう発送が無かったんだろ 日本のトップは三河と、昔から決まっているだけだが?
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 家臣が定期的に裏切るし一向一揆が定期的に起きるしで結構忙しい
織田との違いは何だったんだろ 意味のない戦争ばかりしてた
信長とは違う旧時代の大名 東西の端っこから強い奴が京都目指してたんじゃなくて
強い奴が固まって配置されるというバランス崩壊してる糞ゲーだったから 一回目の関東遠征が失敗して近衛前久に見限られた時点で終わった人
その後の十数回の遠征はその敗戦処理でしかない 豪雪、まとまらない家臣団、一向一揆
武田北条も強豪だし天下統一なんて言う段階じゃない 冬になったら引きこもって春になったら関東いってたから 雪降ったら地元に返って全部取られても繰り返してたから 最強の武田軍団と渡り合ったんだから強いはず
というジャンプ的な三段論法 >>34
信長は征服地に本拠地を移し続けたけど謙信は春日山から動かなかった
最初に越山したとき関東に居座っちゃえば良かったのに いや遠いだろ
当時の関東なんて文明のない野蛮地域だぞ 野心がなくて自分から攻めないから
武田軍とやりあったのも侵攻された信濃国に助け求められたから 一応手取川までは行ってるんだよな
それ以上は進めなかったから兵站の問題かと 1550年越後統一
1552年上洛し天皇、将軍に拝謁
1568年越中侵攻←ここまでの間ずっと武田北条と遊んでた
最初から西行ってたら良かったんだよ勅命も出てたのに
ちなみに織田の桶狭間1560年、美濃平定1567年で信長がそれなりになるまで15年も無駄にしてたからああなった 政宗が10年早く生まれたらみたいなこというガイジもいるけど東北に生まれた時点で詰みだよな 本当に強かったら東北一帯、加賀あたり余裕で屠ってただろ
実際のところ領国守るので精一杯だったんだろうよ そもそも関東管領だから仕方ないのだが関東方面で遊びすぎ >>61
一向宗に先に行ったら武田に背後突かれない? 東北どころか関東ボコしてたろ小田原城に追い込んで鎌倉行ったりしてたし
維持できないから無駄だったけど そもそも「京都のゴタゴタに巻き込まれたくねえ」って自立してったのが戦国大名だからな
「上洛すれば勝ちゲーム」みたいな認識は普通の戦国大名にはそれほどなかった >>65
領国守るのに精一杯なのに鎌倉まで遊びに行ってたらアホの子じゃん逆に 謙信きたら降伏するけど帰ったら一気に北条になびくとか、そもそもカリスマ性なかったんじゃねえの >>20
あれ戦国時代の出稼ぎや期間工みたいなものだから
寒い季節は暖かい北関東で略奪レイプしながらのんびり暮らして雪が溶けたら帰国していく >>72
カリスマも何も国人なんて利でしか動かんよ いまでこそ米の一大産地だけど一昔前までは土地は豊富にあるものの信濃川の水害も頻繁にあって
そこまで肥沃な土地とは呼べなかった
大河津分水のような対策案はあっても実行する金がなかった
明治に入ってから長州の前原一誠が着手したもののすぐに知事を更迭され
後任の知事は重い地元負担を要求したため悌輔騒動で中止された
本格的に動き出したのは1896年の堤防決壊がきっかけになってまた長州の原田貞介が動いたおかげ
山口の人間が助けてくれなかったらいつまでも放置されていただろう 戦国時代は名門とか権威とかはむしろ逆効果だったんじゃないの?
今の何も考えてない日本人と違ってあの頃がそういうものに無条件にひれ伏すような社会じゃなかったんだろ? いや、そんなやつが人たらしの秀吉とかに勝てるわけ無いだろって
秀吉には大満足で従うやつばかり >>67
信長みたいに仏敵認定されてなかったし越中に足場作って加賀は通過、朝倉は友好だし将軍の信あれば六角も敵対しない
義輝は対三好やってほしかったから三好と決戦して勝ったら天下取り行けたんじゃないかなあ
将軍廃位したと思えんから最終到達点が足利幕府での大大名かもしれんけど >>81
謙信の祖父は越中の一向宗に殺されてるし信玄と顕如は嫁が姉妹で武田と結んでたから一向宗とはかなり仲悪いぞ そもそも体制側だろ上杉謙信
人口最大の領地もらって体制転覆図ろうとかどんな野心家だよ まあ皆言ってる通り最初から天下目指してないとどうしようもないよな
最後の方には目指したって説もあるけど、だとしても他のやつに取られるくらいなら程度の動機だろうし 天下取り目指してなかったんでしょ
関東管領だもの
上杉の名跡のために北条狙い 北陸道を抜けての進軍は困難を極めるから
信濃攻略しようとしたんでしょ
それで時間食いすぎて死亡 >>69
いや謙信の場合は明確に武装上洛を目標としてたはずだぞ
1559年の上洛で「まず関東を平定し次にその大兵力を率いて上洛し戦国を終わらせる」
というグランドデザインを関白近衛前久と描いて実行に移そうとしてたんだから 北条、武田が強豪すぎるからな。
雪国だから機動力無いし。 >>20
成田氏への扱いがアレ過ぎて見限られただけやろ 謙信が死ぬ1578年には織田が勢力拡大しすぎて
手が付けられなくなってる頃なので
信濃攻略の失敗が原因でしょう >>34
越後の港町のある直江津や柏崎は国内でも屈指の豊かな場所なのに
越後平野の多くは3年に1度は畑が流されて貧しいので格差も激し
くどうしても領民の気性も荒くなりやすいし、一向宗に不平不満を煽られたらすぐに乗ってしまうため
安定してまとめるのは非常に難しい。まとめているだけで凄い 上杉で戦国伝進めようとするとフツーに激ムズで高確率で詰むんだが てか実際は謙信の性格がアレだったから人望がなかったのが真相かな
領国でもしょっちゅう反乱起きてるしアル中でメンヘラヒス気味だったから女説とかもあったんだろう >>27
商売上手や 越後の名産を京都に売ってたりする わざわざ取る必要なかったんだろ。越後さえ守ってたら安泰 信玄には結局負けて領地奪えなかったし
北条にも勝てずあれだけ拘ってた関東も駄目だった
つまり最強ではなかったということ 「合戦最強」と言われる割に桶狭間レベルどころか三方ヶ原レベルの戦果もない男
まぁ弱くはなかったんだろうが別に最強ではない >>113
勝率が他に比べて異常らしいよ
負け戦が殆どない
信長は負けてばっか >>103
謙信自体に子がいない
死後に姉の子と北条からの養子が家督争いして姉の子が勝ったそれが景勝 >>104
割と痛い人だったと思うわ 正論言ってるつもりで全然妥協しなくてって感じの人だからな 織田軍は金沢のあたりの合戦で1回打ち破ってる
その後にすぐ死んで後継者がいないから領土消失 そういや『センゴク』って漫画だとプーチンと瓜二つで笑った >>114
それもさ
例えば信玄との川中島も本来信玄から信濃解放が目的で何度も戦っても成果をはたせてないなら結果実質負けなんよ
信長は割と負けてるがキチンと成果は残せてる 関東に深入りしすぎた
それに上洛ルートの越中加賀の一向宗をなんとかしなきゃいけないってのもある 謙信は冬になったら帰ってたわけでもないぞ
第一回越山は1560年8月~1661年6月の10ヶ月でその間ずっと関東にいた >>33
ほんになんでやろなぁ
東西中間の要所の出ってだけでチートすぎん? >>104
成田長泰打擲事件が本当だとしたら器じゃなかったとしか言いようがないよな
こんな奴には誰も付いて行かねえよ >>114
勝率の話はマジで意味ない
謙信の「全合戦」を書いた表を見たけどちっさい小城落として一勝に入れてる >>78
何故か今は新潟が中心地になってるけど
江戸時代の末期まで新潟はどっちかと言うと中継地で
そこまで栄えていた訳じゃないからな
江戸時代に栄えてたのは
現在の新潟県では高田、出雲崎、岩船(村上)小木(佐渡)当たり
藩としては高田、長岡、新発田、村上辺りだな
新潟は維新後に開かれた感じだな 戦いさえできればいいバトルジャンキーみたいな描かれかたされてるけど鬼島津に比べればまだ常識人扱い FGOのぐだぐだ川中島は結構面白かったわ。復讐に燃える氏真出したのはなかなかうまかった。 >>20
小田も佐竹も結城も名門
そも京徳の乱と結城合戦で公方方も管領方もシバキ倒して足利と上杉の間でコウモリをやっていた連中だ
100年以上経っても変わらぬ筋金入りの反骨だよ >>126
率で言わなくてもこれだけ戦争して大敗が無いというだけでも凄いだろ
占領が維持できないから実質負けとか言ってるやつもいるけどそれは戦争の強さとは別問題だし >>134
戦争って守り切れば勝ちって戦いは多い
で勝ち切れなかったらそれは敗北でしょ 謙信自身は長尾氏だし上杉家の家臣の家柄だから
上杉家に仕えてた家の武士たちからは同等に見られてそれらを従えるのは難しかったのでは
上杉憲政が後ろ盾についてるとは言っても
関東管領なんてもうほとんど権威を失っていたよね >>136
川中島が有名だから言われるだけで当時は城や砦を攻めるけど占領せず帰るなんてどこでもやってたからな
大きな損失出てなければ普通は負けにはカウントしない >>129
近年はバカ殿から株が上がっているからな >>114
致命的な損害を出さないのはノッブも謙信も同じ事だろ 僻地の越後を攻める気が皆無の武田さんに
ちょっかい出す事に全力出してたから >>27
米は明治以降西欧由来の品種改良によるものだろ
それまで他はともかく農業としては豊かな地方ではなかった >>144
関東は北陸に比べて豊か
特に米とか米とか米とか >>143
武田さんは春日山すぐそばの直江津港取るのに全力だろ
北条今川と同盟組んだ真意はそれ >>74
言っちゃなんだがイナゴが目的なんだよなあれ
そら関東で根付くかと言ったら 武田信玄は小説や漫画多いけど
上杉謙信はイメージでしか知らないんだよな
生涯を書いたオススメの本とかない? 本当は雑魚だったからだろ
武田も美濃に全く歯が立たなかった雑魚だしな
こんな雑魚となれ合ってる時点でそりゃ無理よ たった170万石で統一なんかできるわけねえだろ
1000万石で統一できなかった理由ってならともかく
有力大名でしかないんだからできる理由なんかに全くならない 京に近くない
関東管領なのに関東支配できない
雪国
定期的に武田信玄といくさしなくちゃいけない
身内の争いが酷い
無理だろ😦 塩ペロペロペロ酒グビィィィィィ塩ペロペロペロ酒グビィィィィィ塩ペロペロペロ酒グビィィィィィ
これじゃ天下獲るまで生きるのは不可能 国内だって安定してないしまず足元を固められてるか疑問 >>104
反乱が頻発したのは越後の支配構造が今の立憲みたいなものだからだろ
謙信は国人達連合体の都合で選出された神輿だったということよ
神輿が国人達に不都合な真似をすれば専制君主だの独裁者だのと糾弾される できなかったというより天下統一する気無かったが正しいと思う
別にゲームの信長の野望じゃないんだから
各々に天下統一の勝利条件が設定されてるワケじゃないという事を
ゲーム脳の人達はちゃんと考えた方がいい すでに関東管領というNo.2に立ったのだから一番を狙う必要がなかったから ゲームでいつもこいつスタートだけど
簡単に統一できる >>165
天才っていう感じではなくない?
別段頭良いとは思えないエピソード多いし
顕家だけ地方に遣られてたからか宋学の知識も浅いし、建武新政にも参画できてない
知識的には親房の子供の中でも下だと思う
まあ公家なのに半分武士みたいな生活してるから仕方ないかもだけど >>34
信長は最初に身内をしっかり粛清したからな >>172
一応名目上鎌倉公方と征夷大将軍はNo.1だから 上杉はそもそも天下統一に興味が無い
だから引き返した 部下の総合力がうんこ
東北特有の自分達が優れていると勘違い甚だしい
被害妄想激しい
何をやっても無理だろ😭 しれっと2回も上洛してるよなこいつ。幕府を開こうと思えば開たんか? やっぱ日本海側は晴天少ないし、性格がインキャになるんだと思う >>81
まず三好に勝てないだろうな
兵数も鉄砲の配備率も段違い
そして外交戦で武田動かされたら撤退するしか無い 名古屋に引っ越してきて思ったんだけど、名古屋から京都や奈良ってめっちゃ近いんだな
鈴鹿山脈を越えたらすぐ
東京から鎌倉に行くような感じ 上洛しようとすると毎回親不知子不知を通らなきゃいけないの半分罰ゲームだよね
そりゃ信濃に行くわまだ歩きやすいもん 家康に喧嘩売って滅びてないから
本当に強かったんだろうな 内乱鎮圧して
その後に地方平定するように朝廷から言われてるんだよね
それを地道にやって、信玄とバチバチやってる間に寿命でタイムアップ
戦争しまくりなのに金が尽きないのは内政もきっちりこなしてたんだよなぁ
なんか特産品みたいのを作ってたらしいけど 武田は結局今川のとこの海取ってるから海岸確保って長年の目的は果たしてるんだよね なんにしろノッブの豪運よ
何度も謀反やらで死にかけてんのに生き残って
信玄も謙信もすげータイミングで死んでんだもん
どっちか生きてたらあそこまでスムーズに行かなかっただろうな そもそも上杉謙信は足利将軍に拝謁して上洛してたり
天下なんて取る気がない 武田信玄軍団が大権現家康に三方ヶ原で味噌つけたから、江戸時代に幕府主導で武田軍団を過大評価した
そしてその武田と延々引き分けてた上杉謙信の評価も過剰に上がった
というのが真相とのこと 関東と越後国の間には雪雲さえ越せない山脈があるのに謙信は16回も遠征したんだろう?
そんなの兵隊さんが可哀想すぎる😞 >>20
なんなら越後でも反乱起こされまくってるからな
統治能力に問題あったんじゃね >>127
まあ高田はそうだけど新潟は江戸中期あたりには藩庁のある長岡より大きくなってるけどな >>195
信長の柴田秀吉連合軍も蹴散らしてるし普通に強いわ
関東でも敵なしだったが、武田が動いたので引き返しただけだし 秦末期の項羽と同じ
本人は最強?だけど
それだけだから
戦で勝てても戦略的には勝てない人 アルコールで肝臓壊しておっぱい出てきたりするから女説はそれだと思ってる 上杉家発祥の地丹波の上杉荘を回復させてもらってそこに代官もしくは自身を置いて畿内に勢力を拡張すべきだった
武家公家の両面で戦えば義輝助けられたかもしれんぞ >>6>>1
天皇のことよく知らんかったんだよ。
当時の天皇なんてそんなもん。
知ったことろで、何かしてくれるわけじゃないし、
強い方に引っ付くだけの寄生種族@Y染色体劣化 関東は大体今の市域毎に小豪族が居てそれを郡単位で地域領主が束ねてる、その中では各家の血縁関係が複雑に絡みあってる
そんでその地域領主は関東管領か公方家のどちらかの勢力に与してんだけど、事はそんな単純でもなくて各地域領主の家の中にも管領派公方派が居てそれぞれ主導権争いを繰り広げてて、うっかり出陣で家を留守にしたり戦で着く側間違えた瞬間に取って代わられる危険を感じながら領主やってる
だから謙信が関東出兵したら謙信に従うし、謙信が帰って後北条が来たらすぐ降伏して後北条に従う、当然戦で召集されても出来るだけ損害が出ない様にする
ガチ戦なんてなったらみんな手抜きして戦するフリをして誤魔化す >>209
仮冒
岡崎城下、足利尊氏が生まれたであろう屋敷は幕末まで岡崎藩が使用していた
もちろん家康も目にしていた屋敷だ
岡崎城から矢作川に行く通り道にあったからな
足利尊氏は、徳川家康が生まれた岡崎城から直線距離で約1.5キロの地にあった上杉氏の屋敷たる日名屋敷で生まれた可能性が高い
おそらく足利尊氏と直義は、足利宗家の大門屋敷から南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれたであろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 そもそも天下統一なんて考えもしなかった
戦国自衛隊で見たから間違いない だから謙信が城攻め弱いというより寄せ集めで仕方なく参加してる敵にも味方にも親戚だらけの関東勢がどうにもならんくらい動かんというのが正しい
そしてその中で空気を読まないガチやろうと言い出す迷惑な存在が太田資正とか梁田とかだな
関東はプロレスなのに上杉ノアはガチやろうとして毎回興行失敗してるんや 濃尾平野の人口と収穫量には勝てなかったってことだろ、他の地域は 勢力や能力うんぬん以前に場所が悪いのよ。
当時の中心地から離れたところからスタートしてる時点でもうほぼ勝ち目がない。
どうして人が都会に集まるのかっていうのと全く同じなので、それが理解できないとこれも理解できない。
織田だって本州の端とかからスタートしてたらあそこまで行けてないからな?
都会憎しでそこを理解しようとしないお前たちでは一生答えにはたどり着けん。 >>88
秀吉と敵対したから
関東というポテンシャルがあったから
さっさと恭順しておけば
5大老入りまでは確実にやれた >>212
足利讃岐守貞氏の継室が上杉氏出身で丹波で尊氏生んだ説あるんだが
それに反する説の信ぴょう性は❔ >>125
山之内上杉の名跡継いだといっても長尾だし
関東管領になれば無条件にみんな付き従ってくれると思い込んでいたのかも >>217
そもそも性格的に天下を取るとか考えてないしね
正義感は強いけど >>199
ゆーて織田家の5.6個ある軍団のうちの2個軍団相手にしただけだしそれで強いと言えんのかな?て感じもするが >>214
城攻め下手って言うやついるけど疑問だよな
城攻めって基本城囲んで時間をかけて降伏させるものなのに
謙信は遠い新潟からやってきて冬来る前には帰らなきゃいけないし
呑気に城囲んでいたら武田軍攻めてきちゃうしで時間がなかった
それに関東軍も関東軍でいろいろな複雑な事情もあり
無理やり関東軍と共に攻めようとしてもうまく行かないというパターンが多かった
それでも幾つも城落としているし城攻め下手だとは思わないだけどな 信長の野望って、全ての武将のゴールが天下統一になってのおかしいよな
天下統一しようとする輩を倒すのがゴールのやつもいれば、自国さえ守ればゴールのやつもいただろこの時代 最近従属でエンドできるのも多いだろハイエナしまくれよ >>222
あれ勝家と秀吉喧嘩して羽柴軍いなくなってたしな 関東管領に関しては既に名前だけの名誉職で
就任の経緯も半分たなぼたで謙信が死んで消滅した意味のない役職だよ 取る気も無かったのが一番の理由だろうな
今で言うと大手の社長が天皇家のトップ目指す感じ >>219
物を知らない田舎者か?
尊氏が生まれた時、上杉清子のとーちゃんは三河国奉行頭人として在三河の可能性が高い
鎌倉から京都に行く際、必ず三河を通るだが、とーちゃんにバイナラして一人で京都まで行って一人で生むかつーの
よく考えろ
足利尊氏、直義が生まれたであろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 関東管領なんか引き受けたせい
北条のせいともいえる >>219
上杉頼重は、三河国の奉行頭人
上杉氏が実は三河の日下部一族だったのかはさておき
鎌倉期に上杉氏が、三河国以外に権益を持っていた史実は見受けられない
鎌倉期、足利御領の三河国担当奉行頭人だった上杉氏は、実は三河との縁は古いわけだな
◆鎌倉末期、足利氏御領◆
■知行国
・三河国(1221年~)
・上総国(1259年~)
■奉行人(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
・足利庄担当
奉行頭人:南右衛門入道(高頼基、高師直祖父兄弟)
奉行人:駿河六郎二郎、横瀬五郎入道、粟飯原十郎、醍醐三郎入道、堀松三郎二郎、寺岡太郎左衛門尉
・上総国担当
奉行頭人:三戸八郎左衛門入道(三戸為澄、三浦為澄の孫)
奉行人:寺岡左衛門入道、彦部二郎左衛門尉、海老名七郎太郎、有木中務丞六郎、源民部七郎、村上助房
・三河国担当
奉行頭人:上椙三郎入道(上杉頼重、尊氏祖父)
奉行人:倉持新左衛門尉、設楽太郎兵衛入道、梶原太郎左衛門尉、小嶋三郎、有富三郎、明石二郎左衛門尉、大炊助
三河県幸田町の長満寺は、上杉清子の弟、足利尊氏の叔父たる日静が創建した
長満寺は三河県額田郡幸田町深溝にある日蓮宗の寺院。
山号は誉師山。開山は妙龍院日静。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。
三河県新城市の冨賀寺にいた足利尊氏の従兄弟(真応上人)も、恐らく上杉一族
冨賀寺
http://www.fukaji.com/nenpyo.html
1338年 足利尊氏が冨賀寺に堂舎9+坊舎18ヶ所建立田地180町/「三千仏名宝塔図」/「荒神図」等寄進住職 真応
三千仏名宝塔図(国重文)
http://www.fukaji.com/jiho.html
足利尊氏が寄進か?
上杉氏は高一族によって三河から追い出されたが、室町期初期までは三河に足跡を残していたわけだな >>228
雪国だから関東ぐらいは取りに行くだろ普通に >>223
関東だとあまり攻城戦で根切りやらんからね、謙信も後北条も降伏して来たら割と殺さないんだわ、勿論人質とか金銭とか払って敵対しないって起請文交わして放免とか、自分の親派に代替わりとかさせるんだな
だから二の丸三の丸落ちても本丸ギリギリまで粘ってアカンとなると降参、そして人質差し出して城を退去のパターンがめちゃくちゃ多い
だから死守とか飢え殺しとかにならないので割と城が落ちる
謙信なんかは永禄6年だと2月から6月迄で城3つ落としてたりするけど、この城が謙信が三国峠越えるとあっという間に後北条氏に帰参してたりする 正直なところ謙信も馬鹿らしいとは思ってたんだろうけど上杉顕定出して憲正引き取って関東管領名乗っちゃったんで仕方なかったんだろう (ヽ´ん`)「んー、春になって雪とけたら本気出す」
そういうとこだぞ(´・ω・`) >>237
尚且つ、貞氏は1303年に出家した説が濃厚だが
それ以降、三河で上杉頼重との活動が頻繁になっている
尊氏が生まれたのは1305年、尊氏が京都で生まれるわけねーだろう >>216
木曽義仲は越後から北陸道を通って京を制圧しているから難易度はそれほど高くない
謙信にとって最大のガンだったのは祖父の代から因縁のある一向一揆
これを徹底的に叩き潰さなかったのが最大の失敗
家康なんかひでー騙し討ちした挙げ句に禁教令出して三河一向一揆を徹底的に叩き潰した
逆らった奴を簡単に赦してしまうのが謙信のダメなところ 尾張なんてあんな狭い土地で50万石あるのがズル過ぎる、当時間違いなく日本一豊かで人口密度の高い国
その上東海道と海上交通の要所で現金収入ガッポリとかいうチート立地やぞ >>195
甲州流軍学対上杉流軍学のしょうもないマウント合戦が真相じゃなかったかあれ >>240
一揆とは和睦成立しただろ
だいたい一向一揆の前に謙信パパン殺されてるようなもんだし潰すといってすぐ潰せるものでもないのが一揆 >>172
関東公方は何人もいるからな
鎌倉と堀越と子弓に古河だいたいはこんなものか >>241
物を知らない田舎者か?
鎌倉期、鎌倉武士が尾張守護を欲しがらなかったのは何で?
足利氏も食指を伸ばす事は無かった
答えは、日本最重要の要所は三河だからだろう
その最重要の三河の領主になり、尾張を植民地扱いすればいい話だからな 日本の最高偉人たる源頼朝は、当初自らの分身と考えていた異母兄弟たる源範頼に尾張ではなく三河守を与えた
いい加減気づけよ
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>224
自分の裁量でやりたいようにやっても恐らく問題無さそうではあるけどな 現代社会においても、三河は輝きを放つ存在感を示す一方、尾張は出来の悪いダサい田舎者であるので察しろ
尾張が要所とか笑い殺すつもりか?
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 まあ天下統一を推し進めた信長、その後を継いで成し遂げた秀吉、それを掠め取った家康
この3人には及ばんわな
そもそも戦闘が強いって武田の下位互換だし
戦闘強いだけで天下は取れんからな
野望も抱かず酒飲んで塩舐めて死んだおっさん 越中と加賀の一向宗がいないか対立してなければ
簡単に上洛出来るんだよな
武田が一向宗と友好関係っで操ってたからムリだったけど >>252
支配階級と無縁なダサい田舎者か?
家康は当時の既得権益者側の人間で、守旧派のラスボス
そもそもノビナガ、猿吉サイドの人間ではない
江戸幕府の実態は、室町幕府を関東に移しただけだろう
織田が守護代家として慎ましく臣従するなら残すだろう
だが、尾張の田舎者たる猿吉一味は、中世の武家社会とは無縁なゴミだ
土下座しようが歴史から抹消されただろうし、史実、抹消された
何時になったら、三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期
三河幕府は500年続いたと捉えられないんだ?
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 一向一揆や真宗王国こそ別の日本社会の可能性を秘めているのに。ウンチ左翼どもは宗教絡みだからということで不当に貶めるよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 三河の一向宗はなんであれほど雑魚だったの?
当時の家康にあっという間に片付けられてやんのwww 信長の野望みたいに配下が謙信の意のままに従うわけじゃないから
たとえ北条や武田に寝返っても帰参を許さざるを得ないという力関係 >>209
近くに若狭武田氏も居るから甲斐のじゃないけど武田とのケンカは楽しめそうね… そら奪われた関東管領を取り返すために動いてるからな
信長と敵対したのも信玄死後だし 越後は国が豊かで長尾家が各地にやたら沢山あるので反乱起きまくりだからな、正直言えば関東への出兵は自分の肩書きと家内統制の手段でもある
上杉景勝なんか生涯最強の敵だったのは自領内の新発田重家とかだからな、謙信が戦争しまくるから何とか抑えられてただけで国が割と出鱈目なんだわ 16世紀前半の揚北衆とかは家臣団つうかソマリアの武装勢力みたいなもんで
戦争に勝ち続けて権威を示さないと言うこと聞かねえからな
越後は立地やら実入りやら以前に国人の独立性が高くて手に負えないこう言うのはゲームで表現出来ない 足利氏の外戚ってだけで権勢を誇ってきた上杉氏の名跡を継いだ時点で幕府を超えて天下取るつもりなんかないだろ 結局あの時代にガチで天下統一を考えてたのって信長だけだからな
上杉や武田も所詮地元のヤンキーよ 越後が謙信の前から豊かだったなんて適当言うなよ
年の半分は雪に埋まってるような土地だし水はけ悪い沼だらけで氾濫も頻発してた土地だぞ >>264
豪雪地帯で豊かじゃ無いし飢饉も多く
阿賀野川流域が古くから開発進んでて遠くて中間に空白地帯に近い湿地と河川が拡がってたから 関東管領だからそれを超えたことが出来なかったってのもある 金策は他の田舎より豊富
からむしと北前船からの税
くらいこのスレ書くやつなら知ってるだろ 一般方向の概念がない
車懸かり見るとそうとしか思えんな >>205
アレキサンダー大王とかティムールとか
人外な強さで大帝国作っても後続かずとかだったらわかるけど謙信そこまでじゃないし 別になんか超凄いことしてないのにこんだけみんなが知っててたいしたもんだよ 毛利と同盟して信長包囲網作ってすぐ亡くなったんだよな。運には勝てなかった 関東管領で満足して将軍にとってかわる木などなかっただろうがw 戦国時代~江戸初期の越後は人口の多い大国だぞw
しったかで飢饉が~とか書き込んでんなよ 半分雪国だから
ノッブみたいに兵農分離できてないと上洛なんて考えも浮かばんわな いうて上杉が北条を何度も攻めた原因が国内の飢饉に有る説も有るからな >>285
家臣団強いか?
甘粕、柿崎、宇佐美、鬼小島、直江(先代) 車懸かりの陣ってどんな感じ?騎馬がグルグル回ってんの?どうやって指揮するの >>284
人口増えたの徳川初期に信濃川の治水始めて越後平野開発してからだし >>287
信長がやったのわ兵農分離じゃ無く
農兵と武家の分離だから >>293
こんなん実際にはやってないんだろな
軍学者のホラ話だろう >>294
右翼が下がって左翼が出る
基本の戦術です
陣と付くから謎なだけで >>297
あなたは本当に疑うことを知らないピュアな方ですね >>295
それを言ったら地方大名の殆どの戦も怪しくなるんだよ 上杉謙信が最強て在命の頃から広まってたんじゃないの?雪の峠で見た 上杉軍は騎馬隊じゃなくて長槍が有名だったらしいな信長の影響で武田が槍上杉は騎馬隊だと思ってたが 銃の本格普及までは、一世代で一国二国併呑できりゃ名将だよ
天下統一なんて銃と火薬を大量確保できなきゃ無理無理 上杉謙信「酒好きです、毎日飲みます、肴は味噌や梅干しです」
↑
そりゃ死ぬわな >>286
よくあんな湯沢の山地のとこ越えて関東に出張ろうとしたな
勝っても領土維持するの至難の技やろ 越前あたりならともかく越後から京都は割と遠いだろ
越後から京を安定して勢力下に置くには信濃美濃の中山道か越中加賀越前の北国街道を掌握する必要があるのに越中を支配できたのすら晩年の頃なんだから
今の県名で言うと新潟の隣は山形とか長野、富山とかだぞ
耕作地帯が多くて人口が多く海運も栄えて領地としては恵まれてるけど冬は豪雪地帯で移動できないしな >>178
信長も足利義輝に会いに若い頃上洛してるし
京都を制圧したわけじゃなく道中でお金払って京都を視察したような感じだろ >>6
武田や上杉は守護に関東管領って体制側の連中だからねえ 越後が穀倉地帯になったのは江戸明治以降の干拓、新田開発の結果でこの時代は豊かではない。 >>289
強いっていうか封建で古い体制だったというべきか
上杉が主っていうより新潟国人会のリーダー格ってだけなんだよな 天皇や公家や足利を相手に魑魅魍魎が蠢く京の政治できなそうだし
信長も失敗して三度も包囲網作られた 170万石って盛り過ぎだろう?
直接動員できる兵力はせいぜい40万石(越後39万石動員兵力約1万人)で直轄地に至っては15〜20万石と見るのが正しい
最も謙信は経済能力は米高以上のものがありまたその威光は周囲から突出していたので最大動員3万〜10万人という見方もある
だがこれは石田三成の最大動員力を20万人と見る様なもので実数的に可笑しい 信長にしたところで信長本人も凄かったけど部下に天下人やれる奴が2人も居た訳でなー
それを取り立てたのが凄いと言ったらもちろんそうなんだが >>264
越後平野は豪雪で二毛作できないしコメも戦前まで鳥またぎとか呼ばれてたんよ 船で敦賀あたりまで行ったら、京都なんて琵琶湖経由ですぐだしな 関東にこだわり過ぎたな
さっさと北陸平定して京に登るべきだった
その後近畿一帯平定してたら東海や信濃も余裕で手に入った この時代の船使って軍隊を日本海通して輸送って出来たんかね?
瀬戸内とか穏やかな海は普通に船使った戦があったみたいだけど >>295
最近の学説はゴッドハンドなデタラメ多過ぎだから >>325
当時の日本海側の輸送って廻船メインじゃん
小型の船で川遡上して >>320
信長の幸運は、明智光秀と秀吉の二人を配下にしたことだよな
秀吉いなかったら美濃攻略もまだ数年は時間を必要としたろう >>328
秀吉の一夜城ってなんの一次資料も残ってないから後年の作り話率800%だぞ >>193
結局天下取る前に死んじゃうからそこをどう考えるかよね信長は
謙信公は神 >>330
それもなんの資料もないから一夜城と同じだと思う
ただ秀吉の出世スピードが異常なのは確かだから何かしらの大働きはしたんだろう、くらい
でも秀吉はそもそも家柄悪くなかったて話もあるしその出世スピードに関しても通例より控えめに考える必要ある >>332
家柄悪くなかったとはいえ、名字のない農民身分ではあったろう
父親(実父は早く死に養父と言われる)はせいぜい足軽に動員される程度で士分だったかも怪しい
同じく最下層からの成り上がりの劉邦や朱元璋と比較されるけど、朱元璋の境遇よりは全然マシ、劉邦とどっこいどっこいの身分だったと思うわ >>244
鎌倉は古河に逃げて堀越はすぐ途絶えて小弓はほぼいないようなもんだから実質古河だけじゃないの
しかも上杉謙信の頃にはいないし まあ秀吉は文字書けるからな正直文字書くのって凄いぜ?
俺ら普通に何十年も生きてるのに日本語以外真面に読めないし書けない
幼少期に寺かどこかで絶対習ってるレベルだわ自然と身に付くとか有り得ない >>224
天下統一なんて考えてたのは信長くらいだろ
それも敵対勢力を破ってたらこのまま日本中行けるんじゃね?ってなもんでしょ
他の人にとっては天下統一?三好に成り変わるのね、みたいな認識じゃないのかな >>333
出世スピードの裏には本人の才能が前提だとしても富農としてのバックボーンがあったせいじゃないかって思ってしまう
とりあえず伝説的な話は全部作り話だろうな 武力だけで日本平定は信長しか出来ないだろうな
秀吉だって家康その他を政略で従えたんだし 信長のやり方は破綻したのよ
家臣をギリギリまで追い立ててるから調子がいい時は無敵に見えてもどこかでああいう終わり方になる 生理痛でトイレで踏ん張ってたら脳出血起こして死んだんだっけ? >>341
信長が焼き討ちされた理由って明らかになったの?
まあ、光秀にも非があったり筋が通るような内容なら秀吉がキッチリ記録に残すだろうし、
そうじゃないってことは100%信長が悪いか、クソしょーもない内容だったんだろうな 関東平定を目指してたわりには関東の農民に狼藉働き過ぎて人望がない 戦国時代の奴らの失敗はだいたい生まれた時期が悪いで片付けられるからな
上杉も時期が悪かった >>333
秀吉ばかり注目しがちだが他の織田四天王も同じようなもんだぞ
父親の名が分かってるのは丹羽長秀くらい
出自はどれも後からでっちあげ
信長はあえてそういうのばかり取り立てたと言える 光秀が勝手に一人で破滅したのを信長のやり方が悪かったみたいに言われても信長さんだって困るじゃろ
部下をあんま信用するなとか先に安土で徴兵しとけとか信忠と同じ場所にいんなとか
危機管理意識が足りてないのを責めるならそれはまあそう >>337
信長も天下統一を意識したの幕府潰してからだと思うぞ
天下布武の天下て畿内のことだった、て示す根拠も多いし
信長はそもそも幕府を潰すつもりもなければ将軍を廃するつもりもなかったて根拠もめちゃくちゃ多い >>339
その富農としてのバックボーンとやらからあそこまで出世した人間が他に居ない以上
秀吉が他の武将より遥かに大きな功績を積みまくったのはほとんど疑いようがないのだが 秀吉は割と悪い生まれだったんじゃないか?
嫌味上級国民の千利休からバカにされまくって、最終的に切腹させた、のはガチで育ちが悪そう >>346
でもその下の母衣やら森なんて土豪に源氏と土地に根ざしとるから力とコネが大事なんだろう >>351
大きな功績上げたのは間違いないだろうが、秀吉は特別卑賤の身じゃないし織田家内の出世争いに勝利した人、てだけじゃね
>346の人がゆーてるように秀吉も彼らと同程度の家系なんじゃないかと
非譜代家臣が織田家筆頭レースの乗るってだけで凄いことは凄いことだが、光秀も秀吉と同じような流れだろうから通説通りに伝説的に持ち上げるのは少し違うと思う 当たり前だろ
春になったら隣国へ攻め入る
攻め落とした国を放置したまま進軍
冬になると敵地で越冬できないので自国領へ戻る
また春が来るとまた隣国へ
こんなことやってたら天下など取れるわけがない
取る気もなかったと思う 野心がありません、自分が将軍になろうとか考えてません← あくまでも古い体制に拘ったんだよ
自分は関東管領であって室町幕府を再興しようとした
自分がどうこうとかの人じゃない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています