ダモ鈴木死去で世界から追悼の声……日本人「誰??」 [462275543]
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カンのダモ鈴木、訃報を受けて音楽界からは追悼の声が寄せられることに
カンのヴォーカリストであるダモ鈴木が亡くなったことを受けて、音楽界からは追悼の声が寄せられている。
モグワイのスチュアート・ブレイスウェイトはインスタグラムで次のように追悼の意を表している。「安らかに、ダモ鈴木。史上最高のロックンロール・シンガーの一人だった。バリー・バーンズと僕で彼と一緒にやった時は人生でも最高の体験の一つだった」
BO NINGENは「数えきれない思い出」に感謝しつつ、「僕らを導いてくれて、ありがとう」と述べている。
ザ・スマイル、サンズ・オブ・ケメットのトム・スキナーはダモ鈴木との共演は「忘れられない体験」だったとして「途轍もない人間」だったと評している。
ザ・シャーラタンズのティム・バージェスは日本語で「ありがとう、そして別れ Damo Suzuki さん」と述べている。アメリカン・フットボールは「安らかに、ダモ鈴木。カンとの彼の音楽は自分たちに大きな影響を与え、ディフェンダーの友人たちが彼のバックを務めた、2003年シカゴのファイアーサイド・ボウルでのライヴはいまだにこれまで観た中でも最高のライヴの一つだった」と述べている。
ポーティスヘッド、ビークのジェフ・バロウは「真のクリエイティブな天才」で「間違いなく自分に最大の影響を与えたバンドだった」と評している。「ブラーやレディオヘッドなど他の多くのバンドが彼らの影響を受けているのは簡単に聴き取れるだろう」とジェフ・バロウは続けている。「ダモ鈴木のヴォーカルは他にないもので、彼のメロディーと歌詞はブルースと伝統的なフォーク、そして純粋なノイズとリズムのエネルギーの間のどこかから生まれたものだった」
「間違いなく既に亡くなった他のメンバーと同様に惜しまれることになるだろうが、音楽的に非常に多くの人々に影響を与えたという点で大きな遺産を残すことになった」
https://nme-jp.com/news/139244/ 実際見出された時どういうノリだったのか
なんかおもしれーアジア人がいるから使ってみようという感じだったのか ドイツのクラウトロックバンドCANのボーカリスト兼パフォーマーでしょ
年齢から逆算していくと1964年頃から新宿で最年少フーテンをしていた今でいうトー横キッズのガチ10代勢みたいな奴
命名の由来が1964年連載開始のまるでだめお、
スポンサー募集したり、アメリカに密航して世界を放浪したり、筋金入りのヒッピー放浪生活をした末に1970年頃ボーカル脱退直後のCANに加入、伝説的存在になった
1980年代にYMOメンバーとラジオで共演して大喧嘩をしたという伝説があって、喧嘩相手は噂では細野晴臣だけど実際は高橋幸宏との事。増殖マルチプライズ♾の「いいものもある、悪いものもある」のリアル版をやらかしたと考えると、伝説的存在だわな 下手くそな英語しか喋れないアジア人がわざわざドイツに行って聞き取れない英語で歌うという前衛感半端ないことしてた人だっけ
何だかよく分からないけど格好良いかもを地で行ってたらしいね当時 >>2
CANのボーカリスト脱退後、新しいボーカリスト候補をオーディションしてもなかなか決まらなかった理由が「うま過ぎて使えない」って話だから、パンク世代的な感覚でヘタウマパフォーマーが必要だったんだろうね
CANというバンドに関しては、やたら高名だけど実際に音源を聴いてみると、(クラフトワークみたいな華やかさやわかりやすさはなくて)、特定の時代の文脈で評価されたロックの過渡期のバンドなんじゃないかと思う。旧メンバーにホルガーシューカイが居て、細野さんもアルバム制作に協力してもらっているところから見て、1970年代には音楽制作マニア的にとても大きな影響力を持っていただろう事は想像できるけど 実際の音源を改めて聴いてみると
60〜70年代サイケデリックロックバンドに
20そこそこの少年のような声が乗る
そこそこ聴ける70年代音源だね
同世代のサディスティックミカバンドやちょっと後のシーナ&ロケッツが、素人ボーカリストを起用して大成功したり、ロケッツと同時代くらいにパンクバンドのヘタウマボーカルが流行ったことを考えると
ボーカルのヘタウマの良さが、商業ロックからロックのコアの方に取り込まれてムーブメントとなった時代なのかなぁ >モグワイのスチュアート・ブレイスウェイトは
誰?
>BO NINGENは
誰?
>ザ・スマイル、サンズ・オブ・ケメットのトム・スキナーは
誰?
>ザ・シャーラタンズのティム・バージェスは
誰?
>ポーティスヘッド、ビークのジェフ・バロウは
誰? 1970年代の海外進出バンドの一つの縁者?親戚さんの音楽関係者は実家の隣にも居て、ローカルでかなり影響力ある音楽関連番組制作会社から、民放番組制作会社に発展している
ご本人は山の上の湖の近くに音楽スタジオを作って活動していたらしいけど、もう30年近く前に亡くなっている
その当時のメンバーの中から誰でも知ってるレベルの超売れっ子になった人も居るから
1970年代海外進出バンドの余波というのは日本の音楽シーンでそれなりに大きなムーブメントだったというのはわかる
まあ1970年代に海外進出できちゃうのはなんだかんだ言って富裕層に見えちゃうけどね、芸能に命をかけてる人達にとっては海外進出は必然的な夢だったんだろう、特に音楽流通が未発達でネットも無かった時代に、世界市場に挑戦する夢はかなり大きなテーマだったんだろう
1980〜90年代になると、海外にデモテープを送っていきなり海外デビューみたいな流れもできて、ネット動画配信以降はもっとお手軽になったけどね
1960〜70年代はまず海外に出ないとその先のコネクションが得られない時代だった ダモ鈴木脱退後のCanって後追い世代だとほぼ聞いてないよな
俺もサブスクで一回聞いたかどうか >>16
細野「ダモに会ったこと無い」
ダモ「細野に会ったこと無い」
幸宏「けんかしたことあるの、ロンドンで」 >>2
ドイツのどっかの駅前でわけわからん宇宙語みたいので歌ってるパフォーマンスしてるところを
CANのメンバーが見つけてスカウトしたんじゃなかったかな ダモ脱退後だとスーンオーバーババルーマはエーゲバミヤージ並みにインパクトがあった
坂本慎太郎がインタビューでフロウモーションあたりの時期に言及していて確かに坂本のソロは共通点あるなと思った CANの1971年アルバムTago Magoフルアルバムひこちら
https://youtu.be/Uzm6DG_ezOg
だいぶ前に聴いた時は、音源が薄くていかにも昔のロックとか思っちゃったけど
コロナ中からコロナ後の音源薄めトレンドの耳で聞くと、結構おしゃれな感じがする 鈴木賢司ことKenji Jammerも海外で名前が知られてるな
シンプリーレッドで屋敷豪太と共に正式メンバーになったギタリスト。
ダモ鈴木と高橋幸宏が喧嘩した当時は、学生服姿で超絶プレイをする天才高校生ギタリストというキャラの人だった 鈴木賢司が学生服で出てきたのは1982〜83年頃だろ
幸宏がダモと喧嘩したのはYMO以前まだミカバンドの頃の話
https://i.imgur.com/asRpgDm.jpeg CANじゃ英語で歌ってるけどへたくそすぎてネイティブは何言ってるか聴き取れないらしい まあドイツのバンドだしヴォーカルも楽器みたいな扱いなので問題ないが >>29
伝聞知識半分で書いてるんだろうけど
1980年頃、神田商会系ギター雑誌YMM PlayerにYMOや海外シンセサイザー雑誌Synapsの日本語版が挟まれていた当時、日本のバンドで話題になってたのが上京デビュー直後のBOØWYとテレビでブレイク直後の鈴木賢治だった
サディスティックミカバンドのBBC出演が1975年10月、ツアーがその後と考えると5年差の話だね
でも44年も前の話で4年差って誤差の範囲やん
そーゆー雑談 >>30
>>22の音源聴いてないんだ
日本語で歌ってる事もある BOØWYの上京デビューが1980年ってことはなくて
結成が1980年で、1982年デビュー前に期待のバンドとして即記事になってた計算だね 幸宏が嫌ってたって書き込もうとしたら散々外出じゃん 残ったの
イルミン・シュミットだけか(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています