タケヨシキです。もう二度とぱぴ屋には行かないことをここに誓う。 [474547398]
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感謝の気持ちや言葉を表すだけでなく、行動に移して努力しなければ前には進めないということです。身魂は磨けないのです。「ありがとうという言葉を何万回も唱えれば、ひとりでに幸運が舞い込んでくる」といった教えは、一歩間違うと人を堕落させるだけの結果に終わる危険性があります。やはり、常に向上心を持って目の前の課題に挑戦することが大切なのです。
悪の大将は奥に隠れてござるのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組み、もう九分通りできているのじゃ。(黒鉄の巻・第14帖)
「悪の大将」とは「ユダヤの最高賢哲」と言われる存在のことを指していると思われます。最近では、「イルミナティ」という得体の知れない存在を隠れ蓑に使っていますが、それも計算済みのことなのでしょう。九分通りできあがった「世界支配層」の仕組みは、もはや人間の力ではどうすることもできません。
「一の大将と二の大将が大喧嘩するように見せる」手口は、まさに「分割して統治せよ」そのものです。国家間はもちろん、世界中のあらゆる国や組織の中に「一の大将と二の大将」が計画的に作られています。例えば、かつての「アメリカ対ソ連」がそうですし、アメリカ国内では「共和党対民主党」、日本でもいま二大政党制の確立が巧妙に仕上げの段階に入りつつあります。
そのような対立構造を作り上げて、世界や国をワヤ(=めちゃくちゃ)にするのが狙いなのなのだと警告しています。 霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違い多いぞ。心せよ。(黒鉄の巻・第18帖)
幽界(霊界の低層界)に勢力を張る存在からすれば、現界人を騙すことは簡単なことなのです。歴史上の偉人のように見せかけたり、進化した宇宙人を装ったりして、間違った通信を送って人を惑わすことが多くなると忠告しています。
神は理屈ではない。理(みち)であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん絶対であるぞ。ただ求めるより外に道はないぞ。親呼ぶ赤子の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。すべてを投げ出せよ。まかせ切れよ。神は喜びの光となって、そなたに現れてくるぞ。理屈の信仰に囚われると邪道。赤子心の理解は第一ぞ。(黒鉄の巻・第26帖)
理屈でなく心の底から神を信じることを「赤子心」と表現しています。まったく同じ内容が新約聖書の中でもイエスの言葉として繰り返し述べられています。幼子が親を信じ切って任せきる気持ち(全託)こそが、この終末の時代には特に大切になってくるのです。 死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を治してやるのもよいのじゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなことくらいでマコトの改心ができるならば、人間はとうの昔に改心してござるぞ。今までのような宗教は亡びると申してあろうが。(黒鉄の巻・第30帖)
この項は、わが国の仏教をもとにした宗教団体を批判しているものと思われます。そのような宗教は亡びるということです。
何事も咎めるでないぞ。咎める心、天狗ぞ。神の前にへりくだり、へりくだってもなお過ぎるということないのじゃ。人間は、色とりどりそれぞれの考え方を自由に与えてあるのざから、無理に引っ張ったり、教えたりするでないぞ。今あるもの、今生きているものは、たとえ極悪ざと見えても、それは許されているのであるから、あるのであるぞ。他を排すでないぞ。(黒鉄の巻・第31帖)
他人を咎める気持ちを持つことはよくないということです。自分の考えだけが正しいと思って他を排除する気持ちを持つな、と戒めています。要するに「傲慢になるな」「謙虚であれ」ということです。イエスやホワイト・イーグル、シルバー・バーチの教えとも一致しています。私もこれまでの人生体験の中から、「謙虚であるかどうか」が人の魂のレベルを測る有効な指標になることを確信しています。 ゾロアスター教の基礎知識
世界にはただ一度の始まりと終わりがあり、世界の終わりの後には永遠に幸福な世界が誕生するというユダヤ・キリスト教の終末論は、キリスト教の世界では、ユダヤ・キリスト教に独自のものだといわれることが多い。しかし、そうではないという意見もある。このような場合に、ユダヤ・キリスト教の終末論の起源として、しばしば取り上げられるのがゾロアスター教の終末論である。
ゾロアスター教は、紀元前600年頃 に、イラン東北の中央アジアで活動した預言者ゾロアスター によって始まった宗教である。ゾロアスターは幻の中で善神であるアフラ・マズダに出会い、預言者として活動することを命じられ、その教えを説いた。この教えにさまざまな要素が加わり、1つの体系となったのがゾロアスター教で、アケメネス朝、パルティア朝、ササン朝というペルシアの三王朝約1200年の間、ペルシア帝国の国教のような地位にあったといわれている。したがって、ユダヤ・キリスト教の終末論よりも、ゾロアスター教の終末論の方が古いことは確かで、その間に影響関係があるという意見にも十分な根拠があるといえる。
内容的に見ても、ゾロアスター教の終末論は、ユダヤ・キリスト教の終末論と類似したところがある。
ゾロアスター教では、世界はその誕生から1万2千年間続くと考えられている。この1万2千年間は、4つの3千年期に分けられるが、全体として善と悪との抗争として捕らえられている。この抗争において、最終的に悪が滅び、世界に終末が訪れ、最後の審判が行われる。それから、世界は完全に更新されて、完全に幸福な時代が訪れるとされる。このうち、世界の終末時に最後の審判があり、その後に完全に幸福な時代が続くとされるところなどは、ユダヤ・キリスト教の終末論とかなり似ているといっていい。
しかし、世界の歴史が直線的に進歩し、最終的に完成するという直線的な歴史観は、ユダヤ・キリスト教の終末論からもたらされたことは確かで、ゾロアスター教の終末論はそのような歴史観に直接の影響を与えたわけではない。そこで、本書では、ゾロアスター教の終末論をユダヤ・キリスト教の終末論とは切り離して、別個に紹介することにした。 宇宙の歴史は1万2000年
ゾロアスター教の最大の特徴は、宇宙には善と悪という完全に正反対の2つの力が働いているという二元論の立場に立っていることである。そこで、始まりから終末まで、宇宙の歴史全体も善と悪との抗争として説明される。
宇宙の歴史は全体で1万2千年だとされている。この期間は、3千年ずつ4つに区切られる。最初の3千年は、霊的に宇宙が作られた時代。次の3千年は物質的に宇宙が作られた時代。3番目の3千年は、完成した宇宙の中で善と悪が抗争する時代。最後の3千年は悪が滅びる時代である。
こうして、宇宙の終末時点で悪が完全に滅び、宇宙は更新されて、その後は完全に善である性質にだけ支配された幸福な世界が永遠に続くとされるのである。
■全知のアフラ・マズダと暗黒のアンラ・マンユ
ゾロアスター教で天地創造に費やされたのは、宇宙の全歴史1万2千年のうち最初の6千年だが、これは次のようにして行われたという。
始め、宇宙には何もなかったが、善と悪だけは存在していた。善は善神アフラ・マズダとして、悪は悪神アンラ・マンユとして存在した。2つの存在は絶対に相いれないもので、アフラ・マズダは無限の光に包まれたはるかな高みに、アンラ・マンユは暗黒の深みに存在していたという。宇宙にはまだ何も存在しなかったので、2者の間には空虚だけがあった。このため、全知のアフラ・マズダはアンラ・マンユの存在を知っていたが、アンラ・マンユはまだアフラ・マズダの存在を知らなかった。このような状況で、善神は悪神に悟られないように、天地を霊的に作り上げた。天地の創造に関しては、ゾロアスター教はペルシア地域に古くから存在した神話を踏襲しており、宇宙のすべてが365日で作られたとされている。この期間に、アフラ・マズダの仲間となる配下の神々、人間の祖先に当たる原人カユーマルス、原初の動物である原始牛なども作られた。とはいえ、宇宙はまだ目に見えない霊的な状態にあり、この期間が3千年続いたのである。 はいなーポチョムキンもーちがおるんよ
だーぶゆだぶゆ梅田くるか? 閉じ込められる悪神
こうして最初の3千年が終わった後で、アフラ・マズダは宇宙の存在を霊的な状態から目に見える物質的な状態へと移行させ始めた。このときになって、闇の世界にいた悪神アンラ・マンユも初めて善神アフラ・マズダの存在に気がついた。そして、自ら数々の悪魔を作り出すと、光の世界に攻撃を仕掛けようとした。全知の善神はすぐにそのことを悟ったので、悪神に対してある契約を申し出た。3千年たってから、光と闇の決戦をしようというのである。アンラ・マンユはどういうわけか、この申し出を受け入れた。このとき、アフラ・マズダがゾロアスター教の光の呪文を唱えたので、アンラ・マンユは無意識の状態になって、暗黒の底に3千年間閉じ込められることになった。この結果、完全に物質的な宇宙が平和のうちに完成したのである。
■善と悪の抗争の時代
善神アフラ・マズダによって作られた宇宙は、完全に理想的なもので、少なくとも当初は光輝くような存在だった。が、そのような時代は長くは続かなかった。次の3千年が訪れたとき、暗黒の底で眠っていたアンラ・マンユが目を覚まし、数々の悪魔たちを引き連れて天地を攻撃し始めたのである。悪の軍勢はまず天空を突き破り、大地を攻撃し始めた。すると、昼間でも大地は真っ暗になった。このとき、大地が悪の軍勢を追い払おうと身震いし、大地震を起こすと、アンラ・マンユは害悪をもたらすとされた生き物である蛙、蛇、さそり、毒トカゲなどを大地に放った。このため、大地は汚染され、樹木は枯死してしまった。天地創造時代に作られた原始牛も原人カユーマルスも死んでしまった。最後には善神の作ったすべての創造物が醜くなってしまった。 しかし、善神アフラ・マズダは完全に敗北したわけではなかった。アフラ・マズダは劣勢を挽回するために天空からシリウス星を呼び寄せた。この星は古代ペルシアで雨の神とされたもので、海の水を蒸発させることで繰り返し大地に雨を降らし、害悪をもたらす生き物を全滅し、大地を豊穣にした。原始牛と原人は死んだが、それらの死も無駄にはならなかった。原始牛が死ぬと、その身体から55種類の穀物と12種類の薬草が成長した。牛の精液は月に昇り、そこで浄化されて282種類のつがい番の動物が作られた。死んだ原人の身体からはさまざまな金属が生まれた。さらにその精液から最初の人間の男女であるマシュイェーとマシュヤーナクが誕生した。そして、この2人から数多くの子孫が誕生したのである。
この3千年間は、全体としては悪神アンラ・マンユが大いに活躍した時代であり、世界には死や害悪がはびこっていた。しかし、新しく誕生した者たちはけっして滅びることはなかったのである。
■3人の救世主
宇宙の歴史の最後の3千年は預言者ゾロアスターの出現によって始まるとされる。この3千年間は最終的には悪が滅びる時代だが、ゾロアスターの出現以降、ゆっくりと悪が滅びていくというわけではない。ゾロアスターの登場以降、1千年ごとに新しい救世主が登場し、3人目の救世主が登場したとき、悪が滅び、世界の終末が訪れるのである。
ゾロアスターから1千年後、最初に登場する救世主はフシェーダルである。神話では、ゾロアスターが死んだときその精液が湖に保存され、最初の千年期が近づいたとき、水浴に来た15歳の処女がそれによって妊娠し、最初の救世主を生むのだという。この救世主の登場は当然世界によい影響を与える。しかし、悪は完全に滅びるわけではない。この時代に、悪は冬となって出現し、人々を苦しめるという。 未だに熱心に通えるパッションだけはすげえわ
パチのラッキートリガーは気になるが
今なにをそんなに打ち込めるってんだ
>>28
(⌒─-⌒)
((´・ω・`)) ぼくの怒りはそんなものでは収まらないんよ?
゚し-J゚ 毎日言ってるよな
酒止める宣言しつつ飲んでる俺やFXで自転車操業してる知人に似てる
つまり中毒だから病院いけ
>>38
熱意を持って行ってるわけじゃないんよ。
もう、惰性だよ。
気づいたら足が向かってる。それだけ。 2番目に登場する救世主はフシャーダル・マーで、彼もまたフシェールダと同じようにゾロアスターの子孫とされる。この救世主が登場する時代には、蛇や蛙など邪悪とされる生き物がいなくなり、人間は水と野菜だけで生きられるようになるという。しかし、悪はやはり根絶されるわけではなく、アジ・ダハーカという奇怪な竜として登場する。この怪物は悪神アンラ・マンユが人類と地上を滅亡させるために作り出したもので、三頭、三口、六眼の竜で、千の妖術を使うものである。この怪物のために、人類と動物の三分の一が喰い尽くされるという。
ゾロアスターの登場から3千年の後、最後に登場する三番目の救世主はサオシュヤントである。この救世主の登場によって古い世界は終末を迎え、悪が完全に滅びることになるのである。
■完全なものとしての更新
ユダヤ・キリスト教の終末論では、終末の後に出現する新しい天と地は、天国と同様に彼岸的なものである。しかし、ゾロアスター教では、終末の後に完成する世界はあくまでもこの世のものとして存在する。この意味では、ゾロアスター教の世界の終末は、終末というよりは更新というべきものになっている。この更新は、三番目の救世主サオシュヤントが登場したときに行われる。
救世主サオシュヤントは、まず始めに死者たちを復活させ、すべての人間を最後の審判の場に集める。ここで、すべての人間の善悪が裁かれる。
次に巨大な彗星が天空から降りてきて、地上の金属をすべて溶かす。溶岩のように流れ出た金属は大地を焼き付くし、平坦にする。最後の審判を受けた者たちは善人も悪人もみな、地上を覆う灼熱の金属の中をわたらせられる。このとき、悪人たちはまさに灼熱の金属に焼かれているように感じるが、善人たちにはそれがとても心地よく感じられるという。それから、悪人は地獄で、善人は天国で永遠に過ごすことになる。
最後に天の神々と悪魔たちの間で最後の決戦が行われる。この戦いで悪魔のほとんどは滅びてしまい、アンラ・マンユは地獄に逃亡する。しかし、地上を覆っていた灼熱の金属が地獄に流れ込み、それを塞いでしまうのである。
こうして、悪の勢力は完全に滅び、世界は善に満たされた完全なものとして更新される。これ以降、地上はアフラ・マズダが支配する善の王国となるのである。 ■地獄の鬼と美しい少女
人間の死後を扱う個人的な終末論に関しては、ゾロアスター教では次のように信じられていた。
人間が死ぬとその魂は死後3夜の間死体のまわりをさまよい、第一夜には生前における自分の言葉、第二夜には思考、第三夜には行動について反省する。それから、死者の魂は死者の裁判官とされるミスラ神、スラオシャ神、ラシュヌ神の裁判を受ける。ここで、死者が天国、地獄、中間の冥界のうちのどこに行くかが決められ、この後にさらにチンワト橋を渡ることになるのである。これは死者が必ず渡らなければならないとされる橋で、大地の中央にあるアルブルズ山頂と天の間にかかっているという。橋の向こう側には天国が、下には地獄の深淵が広がっており、ここで死者の行き先が振り分けられるのである。善人が橋を渡るときには、橋の幅は広く感じられ、楽々と天国へ渡ることができる。しかし、悪人が渡るときには、橋は剃刀の刃のように細くなり、死者たちは地獄へ落とされてしまうのである。
チンワト橋を渡る以前の死者の魂が経験する出来事として別な説明もある。それによると、悪魔たちを祭ったような不義者たちが死ぬと、死後3日の夜が明けたとき、ウィザールシャという地獄の鬼がやってきて、死者の魂を縄で縛ってチンワト橋へ連れていき、そこから地獄へ突き落とすという。また、善人が死ぬと死後3日後に快い香りとともに美しい少女が現れ、死者の魂をチンワト橋に連れていき、死者が橋を渡り始めると第1歩で善思天、第2歩で善語天、第3歩で善行天、第4歩で無始光天という天国へ入ることができる。悪人が死んだ場合は、死後3日後に不快な臭いとともに醜い少女が現れて死者をチンワト橋へ連れていくが、死者の魂は第1歩で悪思界、第2歩で悪語界、第3歩で悪行界、第4歩で無始暗界という地獄に落ちるという 仏教と末法思想の基礎知識
仏教は紀元前6世紀頃の北東インドで始まった宗教である。当時のインドで支配的だったバラモン教と同じように輪廻転生と解脱を基本にしている。輪廻転生は、この世に生きているものは死後に生まれ変わって再びこの世に誕生するという思想だが、仏教の考え方ではこの世は苦悩に満ちているので、輪廻転生は一種の悪循環であって望ましくない状態だとされる。そして、このような状態から逃れることが解脱であって、それが仏教の目標だという。
ところで、仏教は日本でもなじみの深い宗教なので、地獄や極楽だけに限らず、その複雑精緻な宇宙観に触れたことのある人は多いかも知れない。しかし、仏教の目的はあくまでも解脱であって、初期の仏教は複雑な神話や宇宙観を持っていなかったといわれている。創始者である釈迦の死後にさまざまな経典が編まれるようになり、その中で複雑な宇宙観が作られ、それと一緒に宇宙の生成や消滅に関する理論も作られたのである。
こうして、最初に作られた仏教の終末論は、仏教と同じように輪廻転生を前提としているヒンズー教の終末論に類似した性格を持っている。つまり、仏教の宇宙観では、生き物が輪廻転生するのと同じように、宇宙そのものも生成と消滅のパターンを永遠に繰り返すと考えるのである。したがって、仏教の終末論は、ヒンズー教の終末論と同様に典型的に循環的なものだといえる。
ところが、仏教にはこれとはまったく性格の異なる終末論も存在する。平安時代後期に日本でも流行した末法思想に見られる終末論である。これは、釈迦の死後にこの世はどんどん悪化して、最後にはどうしようもない暗黒時代が来るとするもので、完全に直線的な終末論といえるものである。
ここでは、仏教に見られるこれら2種類の終末論を取り上げている。仏教の終末論をその他の終末論としたのもこのためである。 仏教の世界と三千大世界
仏教が最初に作り上げた終末論は宇宙は生成と消滅を繰り返すという循環的なものだが、これは仏教独特の壮大な宇宙観と結びついているので、まず初めに仏教が語る宇宙観を見ておきたい。
仏教の考え方によると、死後の人間は生前の生き方によって6つの道に生まれ変わる可能性があるとされる。これを六道と呼ぶが、これには地獄道、畜生道、餓鬼道、阿修羅道、人道、天道がある。この世に生きている生き物は、解脱しない限り、永遠にこの六道の中で輪廻転生を繰り返すのである。
この六道が1組になって1つの世界ができあがる。したがって、私たちが住んでいるこの世界にも、人間が生きている人道の他に、5つの道が存在することになる。私たちが死後に輪廻転生するのは、この世界の中の六道であって、別の世界の六道ではない。1つの世界には1つの太陽と1つの月があるといわれるので、仏教のいう世界は私たちが太陽系と呼んでいるものに相当するといえる。
しかし、仏教の宇宙にはこのような世界が数多く存在するといわれる。その数は1000の三乗(十億個)で、これだけの数の世界が集まった宇宙を三千大世界という。
この三千大世界が仏教の終末論の対象である。単に地球だけとか太陽系だけという問題ではなく、恐ろしく壮大な三千大世界のすべてが同時に生成したり消滅したりを繰り返すのである。
■宇宙(三千大世界)の周期的変化
仏教において永遠に繰り返されるとされている三千大世界の生成と消滅は完全に規則的、周期的なものである。仏教では三千大世界が生成と消滅を繰り返す1つの期間を1大劫と呼んでいる。1大劫は80劫からなる。ここで劫というのは時間の単位だが、一辺が7km以上もある巨大な立方体の岩石を柔らかい布で百年に一度だけ軽く払うということを繰り返したとき、岩石が消滅してなくなるまでに必要な時間よりも長い時間だといわれる。したがって、劫も1大劫も想像を絶するほどに長大な時間である。
三千大世界はこのように長大な時間をかけて生成と消滅を繰り返すわけだが、その1周期(つまり1大劫)には次のような4つの段階がある。1段階の長さはどれも20劫である。 成劫(せいごう) 生き物たちの業の力で、完全に消滅してむなしい状態(空劫)にあった世界がゆっくりと再構成され、そこに生き物たちが住み始めるようになるまでの期間。
住劫(じゅうごう) 世界が完成し、その中で生き物たちが生きている期間。住劫の期間である20劫の間、人間や生き物の寿命は規則的に増減を繰り返すとされている。住劫になったばかりのとき、人間の寿命は無限だが、最初の1劫が終わるまでに十歳にまで減じる。第2劫から19劫までの間は、1劫の間に寿命が十歳から8万歳へ増加した後、再び十歳にまで減じるという増減を繰り返す。最後の第20劫において、十歳の寿命が8万歳まで延びたところで住劫がおわるという。したがって、住劫の中には、人間の寿命が8万歳から十歳にまで減じるときが、19回あることになるが、人間の寿命が十歳にまで減じた時期には、戦争、疾病、飢饉という3つの災いが生じるという。災害の期間も決まっていて、戦争は7日間、疾病は7カ月と7日間、飢饉は7年と7カ月と7日間続くとされている。
壊劫(えごう) 世界が壊れていく時期。この時期に世界は地獄から順に生き物が住めなくなり、生き物すべてが生きられなくなった後で物質の世界が壊れて消滅してしまう。宇宙を消し去る災害には火災・水災・風災の3種類(次項「宇宙壊滅のメカニズム」参照)がある。
空劫(くうごう) 世界が消滅した後、ただむなしい空間だけが存在している期間。
以上に述べた4段階が1大劫の中に順番で現れ、1周期が終わると新しい1大劫が始まるわけである。
しかし、ここで述べた1大劫は単純に永遠に繰り返されるわけではない。仏教においては、1大劫が64個集まったさらに大きな周期があり、その周期によって宇宙壊滅のメカニズムが異なってくるのである。 64転大劫による宇宙壊滅のメカニズム
宇宙が壊滅するのは1大劫の中の壊劫の段階に当たり、壊滅を引き起こす災害には火災・水災・風災の3種類がある。
火災は火による破滅であり、空に7つの太陽が出現してこの世を焼き尽くすもの、水災は大豪雨、風災は暴風雨による破滅である。
しかし、これらの災害は同時に起こるわけではない。宇宙の壊滅はいつもこのうちの1種類の災害によって引き起こされるのである。
火災・水災・風災のうちいずれの災害で宇宙が壊滅するかは、1大劫よりもさらに大きな周期によって決まっている。この周期は64転大劫と呼ばれるものだが、これは1大劫を64個集めた恐ろしく長い周期で、これによって次のような規則で災害が起こるとされている。
64転大劫のうち最後(第64番目)の1大劫だけが風災によって滅びる。第1から第63の大劫のうち、8の倍数にあたる大劫は水災によって滅びる。残りの大劫は火災によって滅びる。
したがって、64転大劫の間に、風災によって宇宙が滅びるのは1度、水災によるものが7度、火災によるものが56度ということになるのである。
■末法思想における終末状況
日本で平安時代後期に流行した末法思想の終末論は、これまでに述べた周期的な宇宙壊滅の論理とは異なっている。しかし、周期的な宇宙壊滅の理論と矛盾しているというわけではなく、双方の理論が共存しても差し支えないものになっている。
末法思想は、仏教の創始者である釈迦の死後、釈迦の教えである仏法がしょうほう正法・ぞうほう像法・末法という三段階を経て失われ、やがては最悪の時代が来るという直線的な終末思想である。
この説によれば正法・像法・末法というのは次のような時代だという。 こいつの信者ってなんで一度も証拠上げてないのに信じるの?
勝ったとき一度も証拠上げたことないんだが
それで負けたー勝ったーとか信じてんの
まじでカルト宗教じゃん
しかもこいつパチで負けるのは許せるのに株関連でイキったツイートして負けるとツイート消すんだよね
インバとか小僧寿しとか何度も消してるの見たわ
まじでラインがわからん
全部ウソなのに
こいつネタ抜きにガチモンのキチガイだよ
本人はネタのつもりでやってるんだろうけど、自分の中でどうしても許せないラインがあってそこは常人には理解できない
どうせまたこんなスレを前フリにして明日明後日行くんだぞ
実際は行かないんだけどTwitterの中だけで行く
証拠もださずにまた勝った負けたのツイートする
まじでキチガイだよ
本気で死んでほしい
できるだけ苦しみながら死んで 落ちぶれたよな、スレ立てるたびに完走してた頃がもはや懐かしい ■末法思想における終末状況
日本で平安時代後期に流行した末法思想の終末論は、これまでに述べた周期的な宇宙壊滅の論理とは異なっている。しかし、周期的な宇宙壊滅の理論と矛盾しているというわけではなく、双方の理論が共存しても差し支えないものになっている。
末法思想は、仏教の創始者である釈迦の死後、釈迦の教えである仏法がしょうほう正法・ぞうほう像法・末法という三段階を経て失われ、やがては最悪の時代が来るという直線的な終末思想である。
この説によれば正法・像法・末法というのは次のような時代だという。
正法 真の仏法が存在するよい時代である。ここで真の仏法といっているのは、教(釈迦の教え)、行(釈迦の教えを実践する修行者)、証(修行の成果である悟り)の3つがそろっているということである。
像法 教と行は存在するが、証が手に入らなくなっている時代。釈迦の教えを実践しようという意欲はあるのだが、悟りを得ることはできないので仏教は形ばかりのものになってしまうという。
末法 釈迦の教えだけは経典などの形で残ってはいるが、それを実践するものはなく、当然悟りも存在しない。仏教が廃れきってしまった時代である。そして、この時代が終わると共に、この世は法滅尽(ほうめつじん)(仏教が消え去った完全なる暗黒時代)に入るのだという。
これらの三段階の時期には特定の年数も定められている。その長さは説によって異なるが、正法・像法は500年または1000年、末法は1万年とするものやとくに期限を定めないものがある。したがって、どの説を採るかで末法に入る時代が異なってくるのである。
■五五百歳説と末法思想
末法思想の源流は釈迦の死後500年ほどしたインドの仏教教団にすでにあったといわれているが、最初に流行したのは紀元6世紀頃の中国である。
この時代に中国語に翻訳された『だいしゅうがつぞうきょう大集月蔵経』にある〈五五百歳説〉が三段階の末法思想の根拠にされたという。この説は釈迦の死後に5個の500年を経て法滅尽にいたるというもので、終末までに次のような5段階があるとするものである。 ■末法思想と宇宙壊滅理論の組み合わせ
これまでに見てきたように、仏教が当初から持っていた宇宙壊滅の理論は円環的なものであり、釈迦の死後に時代がどんどん悪くなって最終的には法滅尽に至るとする末法思想は直線的なものである。このため、この2つの終末論は互いに矛盾するように見える。が、けっしてそんなことはない。
仏教では最高の真理を得ることで解脱した人のことを仏とか仏陀と呼ぶが、この仏陀はこの世が生成と消滅を繰り返す1大劫の間に1人だけ出現するとされている。つまり、〈仏陀〉というのは普通名詞であって固有名詞ではない。現在私たちが生きている世界では、仏陀といえば釈迦のことである。これはインドに生まれた釈迦という人物が最高の真理を会得することで仏陀となったからである。したがって、この世が消滅して新しい世が誕生したときには、また新しい仏陀が1人だけ登場することになるわけである。
そこで、仏陀の死後にこの世がどんどん悪くなると考える末法思想は、釈迦の次に誕生してくる仏陀の死後に繰り返し当てはめることができるのである。
しかも、仏教では釈迦の次に登場する仏陀がすでに決まっている。現在、みろく弥勒と呼ばれている菩薩である。菩薩というのはいつか仏陀になることができるとされている人のことだが、一説によると、釈迦の死後56億7千万年後に弥勒菩薩が仏陀となってこの世に出現するのだという。 解脱堅固(げだつけんご) 釈迦の死後、第1の500年。正法が存在しており、修行によって悟ることもできる時代だという。
禅定(ぜんじょう)堅固 第2の500年。座禅による瞑想が尊ばれる時代で、像法の初に当たるという。
多聞(たもん)堅固 第3の500年。行は衰えてしまうが、経典の知識は重んじられ、戒律も守られる時代。像法の末にあたるという。
造寺(ぞうじ)堅固 第4の500年。行も証も存在しないが、寺院や堂塔が盛んに建立される時代である。末法の初にあたる。
闘諍(とうじょう)堅固 最後の500年。釈迦の教えは力を失い、僧侶たちは戒律を守らなくなる。しかも、誰もが自説に固執して互いに争い合うようになり、邪見も増してくる時代である。末法の末に当たる。
五五百歳説は、末法思想の根拠とされた思想だが、末法の期間も500年となっているため、法滅尽に至るまでの年数に関しては一般的な末法思想よりもはるかに早いものになっている。
■日本における末法時代
末法思想が日本に輸入されたのは紀元8世紀頃だといわれている。日本では釈迦の入滅は紀元前949年と信じられていたので、もしも正法500年、像法1000年と考えれば、8世紀の日本はすでに末法の時代に入っていたことになる。が、この時代は仏教が国家的に保護されていた最盛期の時代でもあり、末法思想は流行とはならなかったという。
日本における末法思想の流行は平安時代後期に起こった。この時代は貴族社会が解体し始めた時期であり、それだけでも貴族たちは不安だったが、それに追い打ちをかけるように疫病や飢饉などの自然災害が相次いだ。しかも、正法1000年、像法1000年と考えると、紀元1052年から末法の時代が始まる計算になる。このため、この年以降は貴族から大衆に至るまで末法思想の虜となって、無常観や厭世観がひろまったという。僧侶たちの間では、仏法が滅尽してしまうときのために、経典を書写して、経塚に埋めることも盛んになったりしたといわれている。
(⌒─-⌒)
((´・ω・`)) だれもお金かしてくれないんよ。
゚し-J゚ ううう・・・
( )
(⌒─-⌒). ノ( )ヽ
(( ´・ω・) コロコロ... ノ ヽ
゚し-J゚ ◆⌒Y⌒Y⌒
(⌒─-⌒)
((´・ω・`))
゚し-J゚ 彡サッ
(⌒─-⌒)
((*´ω`*)) これぼくのなんよ。
゚し-J゚
___. 警察の者ですが
ヽ=@=ノ ちょっと署までご同行を・・・。
( ・∀・)
./| ̄У フつ(⌒─-⌒)
∪=◎=| ((´・ω・`))
(__)_) ゚し-J゚ >>62
てめえそれやりたかっただけだろ
さっさと死ね ハゲ「ぼくの頭とかけてパチンコと解きます。その心は?」
虚空に向かって謎かけをするヨシキ。それを聴く者はもちろんいない。
気持ちの悪い含み笑いを顔に浮かべつつ、二の手を溜めるヨシキ。その顔面はあたかも猥褻物さながらに歪みっていた。
ハゲ「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!おちんちん汁が止まらないよぉぉぉぉぉぉぉぉおお!!!!」
どこが謎かけなのかわからない答えを絶叫し、ペニスを扱きあげるヨシキ。たちまちのうちにペニスは3cmに達し
懸命に強張る。およそ常人のそれではない行動の中、本人的にはよほど可笑しいのかヨシキは涎を垂らしながら爆笑を
掃き溜めの如き自室内に木霊させる。
狂気に狂気を重ねたヨシキの行動はもはや誰にも予想できない。それは本人とて例外ではなかった。
ハゲ「まみゃぁぁぁぁぁぁん!!シルシルミシルぅ~!!!」
ヨシキのペニスから放たれたそれはいつもの白濁液ではなく、甘い匂いを放つ黄色い液体であった。
いわゆる尿なのだが、さすがに尿を部屋内に撒き散らすのには些か抵抗があるのか、傍に転がっていた
ペットボトルに液体を詰めるヨシキ。
尿を出し終わり、ペットボトルに満たされたその液体を神妙な面持ちでヨシキは一息に煽る。
ハゲ「オレンジジュースみたいでんま~い!!」
実はヨシキの飲尿癖はこれが始めてではなかった。いつの頃からか己の尿が甘い匂いを放つ事に気がついたヨシキは
その香しい香りに耐えきれず、容器に入れた尿を飲み干す行為を何の抵抗もなく常時として行うようになったのだ。
ペットボトルに尿を詰める行為は決して部屋の汚れを嫌ったからではない。己のペニスから放たれる
甘い液体を堪能する為。それ以外の何物でもないのだ。
他が為になる事はまずありえない。が、秘められてさえいれば誰が損をする事もない。
そんな閉じた世界で病んだ悦楽に浸る事はある意味、ヨシキが世の中に対してする事のできる唯一の貢献であるのかもしれない。 >>48
スレ立てんでもxで語ってるしな
ハゲキ好きならx垢登録すればいいだけ
別に隠しもしてねえしタケヨシキで探せばすぐ出るだろうよ
>>71
誤解をさせてしまったのなら申し訳ない。
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((´・ω・`))
(つ⌒Y^()
O ヘ,_,ノ,_,ノ ────────────
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>>75
(⌒─‐⌒).,,,,_
(( ´-ω)ω-ヽ.
(::::::::づ ο
`ー~'ー---‐´ でもまた行くよね?
10年以上同じこと繰り返してるし
結局パチ以外やること無いしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています