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小作農はほんのわずかで、チベット中央に集中していた。彼らは貴族や僧院の土地の一部を管理し借地料を現物あるいは労働で納めていた。スミスによれば、彼らの中には「かなり裕福になり、金や穀物を地主に貸し付ける者もいた。彼らは地主に対して訴訟を起こす権利を持ち、ダライ・ラマに直訴することもできた」、とある。
どこの社会の制度も完全ではない。中国の侵略を受ける以前のチベットにしても決して模範的な社会だったとは言えない。地主が力に訴え多くの小作農が苦しんだケースもある。しかし、チベットの管理制度は富める者にも貧しい者にも概して平等に機能していた。中国が侵略する以前のチベットの歴史には、人々が飢饉で苦しんだことは一度もなかった。チベットには、物乞いも両手の指で数えられるほどしかいなかったのだ。