全世界ボツリヌス菌散布計画
1990年3月、麻原は幹部20名ほどを集め、「現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」「中世ではフリーメイソンがペスト菌をまいた。それでヨーロッパの人口は3分の1か4分の1になった。
今回まくものは白死病と呼ばれるだろう」「本来ならばこれは神々がすることであるが、神々がやると残すべき人を残すことができないので我々でやる。オウムの子供たちを残していく」
として[5]、ボツリヌス菌・ボツリヌストキシンによる人類大量殺戮(さつりく)を計画。同年4月に石垣島セミナーを開催し、教団信者が沖縄県石垣島に集まっている間に、毒を散布する計画があったが、培養に失敗、中止された[7][20]。
最初は信者を逃がす計画すらなく、信者もろとも皆殺しにするつもりであったが上祐史浩や早川紀代秀が抗議したので逃がすことになった[21][22]。
首都圏ボツリヌス菌散布計画
1990年4月~5月、皇居、霞が関、米軍横須賀基地、浄水場のある川などにボツリヌス菌・ボツリヌストキシンを散布したが、効果は無かった[23]。
ボツリヌス菌風船爆弾の実験も行ったが効率が悪いので中止された。同年6月には「川に汚物を放流している」として村井秀夫、新実智光が山梨県警察に検挙された[22]。
ホスゲン爆弾計画
1990年、化学兵器のホスゲンを入れた鞄型散布装置「ホスゲン爆弾」を使って、マスコミ、警察、大阪府などを標的とした無差別テロを行う計画があった。
井上嘉浩は上祐史浩の指示でホスゲン爆弾を持ち歩いていたが実行はされなかった[24]。第1サティアンや熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市)で
ホスゲンプラントもつくっていたが、国土法事件が起き強制捜査があったため完成せず、1991年(平成3年)には中止された[5][11][25]。
皇太子成婚パレード炭疽菌散布計画
1993年6月、皇太子(2022年現在の天皇)成婚パレードの際に炭疽菌を散布すべく、散布地点の下見を行ったり、皇居に向けて炭疽菌散布の実験を行ったりしたが準備不足により中止された[23]。
首都圏炭疽菌散布計画
1993年6月28日と7月2日に、東京都江東区亀戸の教団施設から炭疽菌散布実験を行い、異臭を放ったことで近隣住民の顰蹙を買った(亀戸異臭事件)。後になって生物兵器テロ未遂事件であったことが明らかになった[26]。
異臭事件の後、杉本繁郎らがトラックを運転し国会議事堂、皇居、フリーメイソンの建物、創価学会、東京タワー、横浜、霞が関などに実際に散布したが効果は無かった。麻原もトラックに乗り込み指揮をしていた[22][23][27]。
神宮球場サリン散布計画
1993年、当時の天皇(令和における上皇)が神宮球場を訪れるという情報を入手。サリンを散布する計画があり、早川紀代秀が神宮球場の構造を調べるところまで進んでいた[28]。
米国サリン散布計画
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1994年、アメリカにサリンを輸送しテロを行う計画があり、井上嘉浩らが携わった。サリンは仏像に隠して送る予定だったが、サリンプラント計画がうまくいかず中止された[29]。
第1空挺団乗っ取り計画
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オウムでは陸上自衛隊第1空挺団員の取り込みを図っており、井上嘉浩は軍事ジャーナリストを名乗ってアメリカやフリーメイソンの日本侵略を説いて勧誘、中には事件に関わった空挺団所属の現役自衛官もいた[30]。さらに1994年から1995年に、空挺団長長女を入信させ空挺団長も入信させる計画があった[31]。井上は諜報省の部下に対して、空挺団長の長女の住所を調べさせ、長女の住む千葉県千葉市美浜区のマンションの電話回線に盗聴器を取り付けさせた[32]。
しかし盗聴器の設置の仕方を誤ったためこの電話回線が通話不能となり、調査に訪れたNTT千葉支店の職員が警察に通報して発覚した[33]。
首都圏爆破テロ計画
1995年3月20日の地下鉄サリン事件後、「社会の対立し合う勢力をぶつけて混乱を引き起こし、捜査撹乱を行え」「30日ごとにテロをやりつづけろ」として[34]、
目白通りの石油コンビナート、東京タワー、東京都知事候補者の自宅を爆破したり、東京都庁にプロパンガス20本を積載したトラックで攻撃する計画があり、麻原の指示で井上嘉浩や富永昌宏が調査したが到底無理であるため中止された。
代わりに新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件が実行された[35]。ダイオキシンを散布するというプランもあった[34][36]。
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