https://www.asahi.com/articles/ASS3T0GXMS3COXIE00M.html

72年2月に逮捕された森は、同年11月7日付で遠山の母に手紙を送った。

〈お手紙を拝見してから毎日おわびのことばかり考えておりましたが、お返事を差し上げる勇気がでませんでした〉と謝罪。
そして、美枝子の最期の様子を手紙で知らせていた。

 〈自分で自分の顔を殴らせたり、(略)寒中の柱に立ったままロープで縛って何日もそのままにしたりし、美枝子さんを死に至らしめたのです〉

遠山が苦しい中、何度も「お母さん」と呼んでいたことを明かし、〈私はそれら全てを「総括ができていない」証拠にしていった。
これが一片の弁解の余地すらない事実です〉と、「総括」と称したリンチの理由についても言及している。

 事件では、森と永田ら幹部が自己批判と総括を要求する中で暴行がエスカレートし、メンバーが次々と死んでいった。
異様とも言える状況が生まれた背景について、森は手紙でこう説明している。

 〈いつでも戦って死ぬ決意をもった革命戦士が必要だと考え自分の独善的な頭の中だけの革命戦士像に仲間を無理やりあてはめようとした〉
〈仲間を死なせてからもそれを「革命戦士になろうとしなかったから死んだ」と恐ろしい責任転嫁をした〉と、
メンバーの死に対して指導部が使っていた「敗北死」の概念についても弁明した。

 〈私は本当に「革命の暗黒」をつくったのです〉

 手紙の最後には〈私は生ある限りそのお憤りを受け続けるつもりでおります(略)終生自己批判の道を歩むつもり〉とつづられていたが、その3カ月後、森は拘置所で自殺した。