徐栄(じょ えい)は、

中国後漢の武将。本項で解説する。
中国隋の官吏。通事舎人となった。(『新唐書』宰相世系表)
中国明英宗期の官吏。槁城の知県であり、服喪で職を辞したが、彼を慕った民の請願により復職した。(『明史』李信圭伝)

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董卓に仕えて中郎将となった。冀州刺史を追われた友人の公孫度を遼東太守に推挙して、後に公孫度が自立するきっかけを作っている[1]。

初平元年(190年)に袁紹らの反董卓諸侯が挙兵すると、徐栄は李蒙と共に董卓の命で豫州へ出撃した。徐栄は滎陽県汴水で曹操・鮑信軍と遭遇したため、これを撃破し衛茲・鮑韜(鮑信の弟)を討ち取った。ただ、曹操軍が懸命に抗戦したのを見ると、徐栄は容易に滅ぼせないと見て、最終的な決着はつけずに軍を返している[2][3]。また初平2年(191年)、梁県で反董卓側の孫堅軍と遭遇するとこれを撃ち破り、潁川太守の李旻と張安を生け捕って、これを煮殺した[3]。

初平3年(192年)、董卓が王允に謀殺されると、徐栄はそのまま王允に従った。その後、長安に攻め上ってきた李傕・郭汜の軍を胡軫・楊定らと新豊で迎撃するが、胡軫・楊定の裏切りもあり敗れて戦死した[3]。