【悲報】「源平合戦」について詳しく教えてください🥺 [616817505]
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実は源氏と平家の争いといいつつ
どっちにも源氏平家が入り乱れてた 源平の二つしかないってのも不思議だよな
藤原とかはどこに行ったんだよ 秦王朝の時もそうだけど
どこかでヤバい戦をやって
主力が大壊滅する
暴力マシーンにやられる。暴力マシーンだから戦後の覇権は長続きしないけどね。
義仲
項羽
ソ連にナチスの主力が壊滅させられたのも似てるね 平氏の横暴にみんなイライラマックスだったからな
武田の挙兵を皮切りにみんなキレた >>14
最初に兄とゲイ弟が戦ったし、次は穴の中に籠ってたら見つかって殺された坊主もいた まとまっていません
一族が全滅しないよう両派にまたがっているので入り乱れまくりです
北条は平氏筋ですが源氏に味方しました
足利は源氏筋ですが鎌倉幕府を潰しました 夢か、夢に非るか
過熱せる欲望はいよいよ危ふき領域へと突入す >>34
わては血とかいう穢れとか触れまれませんわ〜とか言ってたら死ねべいと坂東武者に芋刺しにされた関西チョンのことか? 未だに平家(伊勢平氏)と平氏をごっちゃにしてる人多過ぎじゃない? ただの負けは大したことないんですよ
みんなチリジリに逃げて
兵士は各々の自宅やら
将は本拠地に逃げ帰るんです
また再起ができるんですよ
でも倶利伽羅峠の戦い、新安の20万人生き埋め、スターリングラードの戦い
こういう破滅戦をやってしまうと完全に終わってしまうわけよ
逆なのが源氏や
ナポレンオンのプロイセン軍消滅だよね
壊滅させたは名ばかりで
みんな生きてて家に帰っただけ。組織が無くなっただけ。
こんなものいつでも再起できるんです 義経の大鎧は、日本の甲冑文化における一つの到達点であるねw >>41
驕れるものは久しからず
ただ真夏の夜の夢のごとし 源平合戦と言っても実際は源氏と平氏の争いというよりも
実情としては関東武士団の中央政権に対する反抗なのであって
平将門の乱や承久の乱や永享の乱や小田原征伐や大坂の陣
この辺の一連の流れの一部なんじゃないかと思う 源平合戦と言うとこれが結構面白い
史実とは少し違うけど
https://youtu.be/jgqIpTT3JX8 源氏も平氏もテンドン家の要らない子の子孫であることに変わりはない
細かい流派を見ないと 頼朝が平氏を滅ぼし義経も滅ぼし、征夷大将軍として鎌倉幕府を打ち立ててから、明治維新までがずっと武士の時代であったよねw >>54
そもそも北条が平氏ってのはなんも根拠ないけどな
時政以前の記録無いし 「平氏」と「平家」は区別される
清盛の一族だけが「平家」
他の平氏はそんなに栄華を誇ってもいないし一枚岩でもない 平氏と平家の違い位はここにいるやつは全員知ってる定期
それをしたり顔で語ってるやつの多いこと多いことwww
だってwikiに書いてあるんだから、目の前のスマホとかPCですぐ調べられるもんwww たしかに秀郷流藤原氏は何やってたんだってなるよな
この時代で奥州藤原氏の次に有名なのはガチで景清なんじゃないか >>57
源家もあるもんな
それが頼朝の後嗣が断絶した時点で足利にその地位が受け継がれたかは議論はあるが 勝てば官軍を見事に示したな
どんだけ卑怯な手を使っても勝てばええねん 藤原氏は中央政府を押さえていたから地方は勝手にやれやと油断してたら、中央で冷飯食わされてドサ回りしてた中下級貴族が地方に土着して軍事力と経済力を持っちゃった
そのうち、平家や源氏が地方で培った力を基盤に中央政府でのし上がることを図り、ついには藤原氏と天皇家の内部分裂に乗じて源氏を追い落とした平家が政権を乗っ取ってしまった
政権を乗っ取った平家だったけど、やっぱり慣れてないから横暴になったり急進的改革を強行したりで反発を招いた
そのくすぶっていた不満や反発をうまくまとめて、平氏政権にぶつけたのが北条氏と源頼朝を中心とした東国武家集団だった
源平合戦と言うけれど、実態は平氏政権vs.反平氏政権連合体で、連合体の中には藤原氏や天皇家の一部とか非主流派の平家とかその他諸々も含まれていた
源氏だって一つにまとまってたわけでなく、バラバラで誰が統率するかも決まっていたわけではなかった
そんなごちゃごちゃしてるのをなんとかまとめ上げのだから、すごいのは北条氏なのかもね 平氏は義経が台頭した頃には戦は弱いし
清盛以外には家政を切り盛り出来る人物がいないイメージ 純粋に戦史として調べたら木曽義仲以外特に活躍してなかった 関ヶ原が完全な東西対決じゃないのと同じできれいに源平で争ってるわけでもない 平家が清盛のワンマンすぎてな
清盛対頼朝があったらもっと面白かったのに 源義家のお母さんは平家(平直方)の娘って皆知ってるかな? ケモイチや、壇ノ浦の戦いのところの弾き語りを頼む👿 北条なんかも平氏らしいな
源平合戦って言い方結構誤解招くよな 清盛も殺されてほしかったな
病気で死にやがって・・・ 和田も三浦も平氏ではなかったか?畠山はどっちだったか忘れた 平家物語を読みなさい
那須与一「矢頃少し遠かりければ」とかいいですよ 俺としては栄枯盛衰諸行無常に抗えずに徐々に滅亡に向かって行く平家視点で見るのが好き
んでラストに敦盛の人間50年で〆るこの哀愁感が最高 板東の平氏と源氏の反抗ぶりが半端じゃない源平は勿論鎌倉室町までずっと反抗してる
筋金入りの反骨精神を持った田舎者のクズ野武士 「この時代だけ」ってのがノータリン白痴バカの御意見って感じ
まぁ江戸時代の大名小名含めて親族だらけすぎだけど家柄なんてまともな日本人なら現代でも当たり前に大事にしてるわけで 調べたら北条時政の曾祖父(平時直)は源義家の従兄弟だったわ。
和田や三浦だけでなく、畠山や梶原も平氏。石橋山の戦いで
頼朝を破った大庭景親も平氏。 平清盛の異母弟である頼盛は晩年頼朝に仕えた。
息子の光盛は実朝が殺されるのを目撃している。
北村一輝が演じた平頼綱は平氏ではない、名前は似てるけど たとえば1万人分の刀槍もなかっただろうしね
盛りすぎ >>96
平氏じゃない?平家じゃないじゃなくて?
どういうこと??? >>91
そういえばノータリン白痴バカさんよく歴史スレに来てますけどご自身の家格はどんなもんなんですか? 鎌倉時代の神社仏閣ってのは鎌倉に京都を再現をしようとしてたの 日本史上で1番の女騎士枠は誰って言われたら巴ちゃん以外いないよな
対抗出来るのは謙信おまんこさん説前提の謙信ぐらい >>109
平安のお公家様の奴隷になって衰弱死するなら殺し合うほうがマシ >>102
鎌倉殿の13人で、頼綱の父だか祖父が
義時に「平」姓をもらって勝手に平氏を
名乗ったのを見たけど、ウィキと異なるね >>106
この時代ってのはモンゴル帝国の勢力糞強くて
シルクロードの影響でな
京都が攻め込まれるかもってな よく自虐史なんて言われてるけど
殺し合いとか完全に日本の自虐やん >>70
和田義盛についていったのは創作だろ、と思ったけど
そもそも巴自体創作だっけ? 極東の日本の鎌倉時代
交易しても西から発展が続いてるから極東じゃ最後だよい 平宗盛が無能すぎてビビる。
ほんとに良いところが何もない棟梁だった。
朝倉義景と並ぶ無能だと思う。 うおっ!うおっ!諸業務上!色即是空!ボワ~ン!お前の力はこんなものか! 清盛生きてたら盛り上がる
とかじゃなくて、清盛生きてたら源氏は秒殺だよw >>96
光盛は鎌倉に出仕することもあったか
都でぼんやり暮らして終わった人かと思っていた >>118
全ては文字から始まる
ローマだとラテン語になる 関東は平氏だらけだし
伊東祐親に命じて頼朝殺して終わり
甲斐源氏に北陸の義仲を討たせて終わり まあ中央vs地方の構図だよな
中央が利権独占したところに地方が反逆したんだから
構図としては健全だが 伊勢平氏 三重
源氏 三河
実は三河湾、伊勢湾を地盤にした皇別氏族の権力争い
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけなのが、三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである >>124
アメリカ南北戦争と同じだね
結果は真逆だけど >>125
続き
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>117
都落ち後、宗盛が木曽義仲の同盟の申し込みを断らずに
力を合わせて頼朝と戦ったらどうなっていただろうね?
一の谷の戦いの時に捕虜となった重衡(実弟)と
三種の神器の交換の申し入れは断ったみたい。
時子の懇願に逆らって >>70
存在も疑わしいし、いたとしても便女の一人にすぎん
大将の便女ならまともな扱いできたぶんよかった方なんじゃね 平家の落人ってマジなのかな
山口に未だ電気の通らない集落がありそれがそうだと聞いたが >>128
歴史が進まないとそういう事はできないのかもしれんと思った。南北朝くらいになるとそういうことはごく当然にやるよなあ 鎌倉幕府の幹部見りゃ分かるだろう
結局は草薙の剣を有する三河が勝った
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>1
時代の変わり目だったからだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
自分の一族じゃなくて国に仕えろという貴族政治の律令国家が機能しなくなってきてたのwwwwwwwwwwwwwwwwww
力あるものが正義という武家の軍事政権・封建制が始まる時代wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
実はジャップそれが一番あってるんだよwwwwwwwwwwwwwwwwww
それぞれ勝手にやる連邦制が合ってると思うwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>137
貴族 氏族支配で下人がまともに勉強しだしたのは
徳川幕府からってな 平清盛、宗盛を大将とする軍団と
源頼朝や義仲や甲斐源氏を大将とする軍団が戦ったから
源平合戦 >>136
三河伴氏?ウィキには伊豆と書いてあったわ
幕府 鎌倉幕府十三人の合議制、京都守護、初代執権
主君 源頼朝、頼家、実朝
氏族 北条氏(称・桓武平氏直方流)
父母 父:北条時方か時兼
母:伊豆掾伴為房の娘
兄弟 時定?
妻 伊東祐親の娘
牧の方他 >>142
修正忘れた
三河伴氏親類
伴善男が伊豆に流された時、もうけた子供が三河伴氏、伊豆でもうけた子供が伊豆伴氏
つまり、三河伴氏と伊豆伴氏は異母兄弟の家系
三河伴氏は源義家郎党、大幹部であり、その繋がりで伊豆伴氏の血を引く北条氏が源頼朝と繋がった
北条政子を頼朝に紹介したのは安達盛長説があるが、安達盛長は三河伴氏の本拠たる東三河出自の可能性大
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 坂東武者は自分たちの所領(利権)を守りたかった
頼朝はそいつらをまとめ上げるバランス感覚が絶妙に上手かったかつ清和源氏で従わせる理由も持っている >>117
一番の手落ちは都落ちの際に後白河法皇の身柄を確保できずに比叡山に逃げられたことだわなあ
知盛が宗盛より先に生まれていたら歴史が変わったかもしれないとも言われている 鏑矢ひゅーん!
おお、見事じゃ!
浮かれて踊る男が射られる 治承・寿永の乱、三河国額田郡の歴史は語るべき話が多い
その三河国額田郡で生まれたの徳川家康
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む 天皇の子供だけど天皇になれそうもない奴が臣籍降下して源氏とか平氏になる
桓武天皇の子が平氏になったのが桓武平氏、
嵯峨天皇の子が源氏になったのが嵯峨源氏、
清和天皇の子が源氏になったのが清和源氏、
みたいな感じで系統が発生する >>150
三河の隣の尾張って、ヤマトタケルノミコトが
関東に向かう時に縁があったという熱田神宮が
あったり、古代にかなり有力な氏族であった
という尾張氏の根拠地であったり興味深い地域
なんだよな。
額田王の時代に近い壬申の乱においても尾張連
大隅の活躍があるとか歴史の端々に姿を表す。
同じように古墳が沢山あり鹿島神宮のある関東と
共通して太平洋を伝う海路の延長線上に有る点も
興味深い。
このあたりって、かつての日本列島の姿を映して
いるんだろうな。 >>155
熱田にある剣は、元々は伊勢にあった
伊勢の前は三輪山
三輪山の大神神社の奥の院は三河国石巻山
社格
石巻山(三河国)>三輪山(大和国)>伊勢神宮(伊勢国)>熱田神宮(尾張パゴヤ)
やはり重要なのは三河国なんだが? 清盛の福原港整備、日宗貿易振興
海外展開
物々交換から東アジア国際通貨である宗銭での貨幣経済導入って
時代を先取りし過ぎてたな
商業・貿易経済振興 >>110
生きるため、領土のため、食べ物ため
に日本人同士が殺し合いをする
権力争い >>160
権力者という悪と悪との戦い
正義がない時代 結局のところ
赤が勝とうが青が勝とうが
奴隷のまま
勝者により悪が祭りあげられた 保元の乱平治の乱の頃から源氏と平氏って敵味方入り混じってるからよくわからなくなるんだよな
結局最後は頼朝と義経の源氏同士争ってるしその頼朝もろくに続かずに北条に乗っ取られて終了
諸行無常すぎる 自民にあらずんばひとにあらず
驕る自民は久しからず
山上の乱
世が世ならこんな感じなんだよなわーくに 義経を悪 しかも怪鳥音発しながら高笑いする基地外としてデザインしたのは当時からしたら凄いセンス 器が小さい運が良いだけの頼朝のせいでみんなメチャクチャだよ てか頼朝は神輿として担がれただけで坂東平氏と平家の争いだから >>134
屋島は香川県だし
「壇」の浦の近くの彦島は山口県だな >>33
壇ノ浦
だからいまだに山口のやつらがのさばってるやろ >>177
適当に代わりのもの作ってOKならもうなんでもありやん 壇ノ浦での平家殲滅戦なんて
残虐もいいとこだわな
天皇まで殺害してるし
後醍醐との対立においた、後醍醐側にも問題あるのに
極悪人扱いの尊氏は、ちょっと気の毒で
頼朝のほうが極悪人だよな >>114
創作ではないやろ
義仲の家来の樋口兼光、今井兼平の妹だの出自は諸説あるが、義仲と子供の頃から一緒に育てられた >>179
安徳天皇は源氏が殺したのではなく、一緒にいた母含めた宮女達が一緒に入水自殺したんだろ。
母の方は源氏方に救出されたが >>179
義経が船頭を射よと命じたのも平家の敗因の一つ。
人道(武士道?)に反するとかで梶原景時が怒って
頼朝にチクったみたいだが シグルイとか葉隠れにホモ描写が出てくるけど一般的に武士ってホモだったんですか? ハイ
戦場には女を連れて行くと戦神を怒らせるので
男同士で性処理してました
我慢しろよと思われると思いますが
戦場で命がかかると本能が刺激されてしまうようです 漫画で海から救い出された建礼門院が
船上ですぐに犯されたのを見たけどな。
実話かどうか知らないけど。まあ
描写はなく「あ〜れ〜」という声が
書かれていただけだけど相手は
大将クラスとだけ記しておこう >>167
義経悪役は手塚が火の鳥でやってるし多分それ以前にも普通にあると思うよ 源平、言うけど結局のところ後白河のひっかき回しじゃね
その後白河が徳子を見舞い現世の非情を悟って(つうかお前のせいやw)「平家物語」は幕を閉じる 6歳年上の姉さん女房をもらった高倉天皇は
十代で亡くなったんだな、上皇になった後だが >>186
ホモだよ
僧侶もホモ(空海が稚児セク文化を唐から持ち込んだ)
公家もホモが多い(後白河天皇も藤原信頼も藤原成親も両刀)
武士もそれを真似てホモ化
室町末期にはホモは完全に武士の嗜み。和歌みたいなレベル。 平氏と平家の違いを教えてくれた中学時代の先生には感謝している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています