愛国女子「アイヌが日本の先住民というのは嘘、11〜12世紀、陸続きだった大陸から北海道に来たオホーツク人」 [834922174]
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12世紀まで蝦夷地は大陸と地続きだったんだ!
また一つ賢くなったぜセンキュー >>231
ちゃんと竹田恒泰先生の動画見た?
真の日本人たる縄文人が住まう北海道に謎の移動手段でアイヌ(ロシア人)が侵入してきて縄文人は男はレイプーチン女は虐殺されて北海道を侵略されたんだよ
本来なら北海道の先住民は真の縄文後継者たる和人の物 >>1
11〜12世紀に入ってりゃ フツウに先住民だろが
アベ下痢便呑みすぎでバカなのか? このマンコ >>249
彼らの言う民族はどこにいる?
大和民族とやらがどこにいる?
それは何時から存在した?
そもそも存在するのか?
空論、神話、あるいはただの詐欺か?我々は既に答えを知っている。「そんな民族は存在しない」と >>287
オマエだって 証拠無しで じゃっぷを名乗っているわな 古代から蝦夷は東北北海道の人間集団の名称だな 蝦夷はアイヌ人の名称でもある 遺伝子調査でアイヌはほぼ純度100の縄文人、大和民族は1割程度で残り9割は半島人って結果出ていたよな
アイヌが先住民じゃなかったらジャップはただの侵略者だな 南北朝期の諏訪大明神絵巻に蝦夷は三種類いるとある 渡り 日ノ本 唐子
渡りは日本語は通じるとある まあ後世の松前藩の連中だろうな 松前藩も実は蝦夷なんだよ 日ノ本唐子は日本語は通じない まあアイヌ人のことだよね 古代から北海道東北の住民は蝦夷であって言語は通じないし風俗も違う異民族だ それが東北住民はヤマトに征討されてだんだん倭人化することになる
北海道はそういうのがなかったので独自路線を行きアイヌ人になる まあこういうことだと思われる もちろん大陸文化の影響も受けているが ここで興味あるのは諏訪大明神絵詞で渡り党が日本語が通じるにもかかわらず蝦夷と呼ばれていることだ 名称からして本州と北海道を渡って貿易する連中なんだろうがやはり蝦夷なのである
つまりマージナルな存在であってあいまいな連中なのである 北海道の松前藩の蠣崎氏、先祖は武田氏といって本州から来た商人と言われている もともとは北海道の和人勢力は安東氏が主体であって 安東氏は鎌倉時代以来の蝦夷の安藤氏の子孫と称するが戦国期には秋田安東氏になる 北海道の所領は蠣崎氏に譲った形である なんでもいいがひいき忖度なしに研究してくれればその時の最新を受け入れるよ ちなみに戦国期から江戸時代においても青森県にはふつうにアイヌ人が住んでいたのであってこれは松前藩の和人が北海道の渡島半島に住んでいたのと相補的である >>292
半島人ってか黄河系7割遼河系2割ほどな
つまり日本人はほぼ中国人 よくこんなのが義務教育潜り抜けて社会に潜り込んでるよな
それだけならまだいいけど全世界に向けて珍説を開陳するとか精神疾患なのかな >>296
約2500〜3千年前に渡来した弥生人の末裔なので
到底先住民族とは言い難いぞ >>301
ウヨ的願望を乗せたデマを積極的に吹聴された結果なんだよね >>300
最も近縁な人種は朝鮮人って結果が出ている >>37
そこに出ていない縄文→続縄文がミソだと思ってる
この概念が無いネトウヨがアイヌは11世紀に大陸から来たなどと妄想ほとばしる
本州で縄文が消えた頃にまだ北海道では縄文が残り独自進化したからこそのエミシとは違うアイヌが生まれた
なるほど続縄文という本州では見られなかった新たな民族があればアイヌまで続くよなと >>304
そだね、要は日本人と朝鮮人はほぼ中国人ということ
まあ民族の定義に遺伝子は必ずしも関係無いんですけど >>287
生活様式や文化に続縄文人→擦文人→アイヌ人と連続性がある
擦文時代に北方のオホーツク文化が南下してきて隆盛を誇り擦文人にも影響を与える
その影響を受け乗り越えたアイヌがやがてオホーツク人を凌駕して北上していく オホーツク人と交雑したのは確かだけど
文化遺構的にもDNA的にも擦文文化の方が主体 エミシは和人だから
古墳から奈良時代にかけての日本において、東日本あるいは北日本に居住し、当時の中央政権の支配に服さなかった人々はエミシと呼ばれている。
つまり、エミシという言葉そのものが、固有の文化的特徴を共有する、いわゆる民族を指す言葉ではなく、単なる呼称であるといえる。
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている。
西暦150~280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた
東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png
エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像- 三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 結論が先に決まってるネトウヨのいうことなんか信用できん ttps://youtu.be/CqwrwwOzVcQ?si=76es9Wt5bvn8kGsc
これが関係なく見えるならビョーキwww
縄文カルトのガイジ エミシはヤマト人の苦手な騎馬が得意だから縄文でも古墳人でもない先住の弥生人か何か フェ殺隊のまっきぃさんも少数派の存在に疑問を呈してるな。
お前らもまっきぃさんのように多数派で居続けろ!
まっきぃ【表現の自由を守れる範囲で守る】
@YUUKI080111
何でここまで少数派に配慮しないと駄目なん?
引用ツイート
Aikokusya
@Aikokusya6
・
20時間
#LGBT理解増進法に反対します 日本を地獄に変えるな。 https://pic.twitter.com/LGVsmdpWpC
https://twitter.com/YUUKI080111/status/1626793424174317568
https://twitter.com/thejimwatkins >>314
蝦夷は言葉通じなかった時点で縄文系なのは確定してる 陸続きだったのって、更新世とかそういうレベルの昔じゃないっけ?
更新世ってワードを受験生以来で久々に思い出したわ 熊本の弥生~古墳人骨はその形質から縄文人の継続したものと思われていたが、核ゲノムは縄文52%程だった
鹿児島の古墳人骨は見た目通り、核ゲノムは縄文100%だった
東北は弥生時代の人骨はほぼ皆無、古墳時代になると集落や渡来系人骨が大量に出土する様になる 朝廷側の都合で7世紀に意図的に創作された農耕をしない、家を持たない文化程度の低い蛮族を従えたと唐の皇帝高宗に認めさせた虚構の蝦夷像がある
実際には宮城から青森八戸まで庶民は農耕に従事し、須恵器を使用する和人となんら変わらない生活を送っていたことが明らかになっている
北東北の古墳時代は5世紀に土師器を使用する和人の移民集落から始まった
北東北の和人化は文字通りに、エミシが遺伝的に大和民族であると同意
北東北の古墳時代の社会実態を専門とする辻󠄀秀人先生が何度も言われていることなので 5世紀の仙台平野に朝鮮半島から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。
北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。
土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。
須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。
青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。 >>314
明治期の静内アイヌで御料牧場で雇われてた者は、馬の飼育にもすぐに慣れて、裸馬に乗って曲芸を見せてたりしたそうな
やはりその辺は天性つうか野性のモノがあるんじゃね? 紀元前、津軽平野の垂柳遺跡656面の水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。
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垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない。
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである。
秋田平野の地蔵田遺跡(紀元前3世紀)は初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、
ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。
新潟の下谷地遺跡(紀元前3世紀)は土器の9割を畿内系が占めており、畿内から東山ルートの陸路はこの頃から使われていたと考えられる。
その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである。 2~3世紀、後漢の終わり頃の倭国大乱の時期に新潟各所では戦乱を彷彿とさせる高地性集落が増え始める。
日本海側では鉄器を求めて朝鮮半島から直接、東北方面へと準構造船船団による組織的交易がもたらされていた。
実際に東北一円、新潟でもそうだがアメリカ式石鏃が残り、朝鮮半島南東部で作られた鉄斧が一斉に普及する様子を知ることが出来る。
弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である。
https://i.imgur.com/gV9WpIG.png
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 大陸日本が地続きだったのはもっと昔の話だろ
アホか こいつがいる時空の11世紀の世界地図見てみたいよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています