【悲報】東大教授「文系と理系の違い、それは文系は理系が分からない『不知の知』を自覚してるが、理系はそれが弱い」 [426633456]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
文系脳が勝手に他者の考えを拡大解釈して歪めるというのがよくわかるスレやねwwww
自分の脳内だけで考えるのが偉いと思いこんでるから無能なのにふんぞり返っているwwwww >>934
現代思想でもなんでもないだろw
なぜ社会科学や歴史学の概念を言語学()持ち出して捻じ曲げてまで
機能主義的な理解(システムは運用されるためにある)しなきゃならんのか
システムという言葉を使うのは不適切だ、て主張したいならまだわかるが >>952
イライラすんなよ
哲学理解出来たら
そんな感情に振り回されることもなくなるぞ >>925
コミュ力っていうかまさしく>>1の「不知の知」の指摘通りだと思ったわ
ボクは正しい!の一点張りで説明以前に会話にすらなってない >>947
適切だという思い込みがあるから有用性こそが重要でそれは
資本主義によって正当化される、というゴミロジックに
お前が囚われてるんだろw 価値判断は感情と結びつく
故に感情の制御もまた知性と関係する 酷い話は人から聞いたもんやない
実行するお前が酷いのだ >>933
なんというかゲハ的な違和感があるんだよな
ただのプレイヤーにとってはスイッチだろうがPSだろうが箱だろうが好きなの遊べばいいだけだし、なんなら全部遊ぶことも可能なはず
でも何故か一部の声の大きいのが喧嘩し続けてるという 今まで常識ってあくつだにあったろう
理系が辞めさせてきたのもあるんだろう >>953
概念至上主義は現代思想が広めたバカの考え方
資本論が社会的な実践のために書かれたのは言うまでもない
そしてその実践のあり方が世界情勢に応じて変化していくのは当然
資本主義は拡大していくだけだー!!!アホでしょ
運用しているやつらがおるから拡大していくんやwwww 文系なんて大半がデタラメの世界だよ
その最たる例がデタラメだらけのオカルト経済学だが
ほかも別に真理と言えるものなんて特にないからな
何となく良いと思われてる通説レベルの知識がなぜか学問扱いされるのが文系の世界
文系は正しい必要性がないし現実と対峙しないので知能も精神も育たない幼稚な子供が多いわけ
と言っても文系の学問が必要ないとは思ってない。社会を成立させるためには必要
でもその程度の雑学を過信するなという話
この過信のせいで日本だけ衰退してるわけだからな。ほんと迷惑だよ 自分が何故理系学問に価値を見出しているのか
そもそも理系学問に本質的な価値があるのか
役に立つことは役に立たないことより本当に価値があるのか
そもそも現実の対象を
本質的に役に立つ或いはたないという風に線引き可能なのか
理系はこーいうこと突き詰めてみたらいいと思う >>956
まさに文系脳やねwww
算数並みの「ロジック」とやらを相手に当てはめて大喜びww
>>952そのまま >>965
文系は和だよ
人と人がうまくいくのを導くだけ そしたら自分の価値観が
外部から植え付けられたものであり
それによって自分がその外部に制御されてる
って気付けるんじゃないかな 理系も文系もない
知識を深めようとするなら必要な体型を学ぶだけ 役に立たないゴミを知った気になってるってのが文系ってことね >>968
そうでもないで
ほとんどの無能な文系は自分の脳内に鳴り止まない幻聴と対話し続けてるww >>963
概念て言葉を現代思想寄りに曲解しているのはむしろお前では? >>968
このスレに和をもたらしてくれる尊敬すべき文系様を募集します >>976
確かに
アホが多すぎるからさすがに飽きたわw
乙 ここまでくると文系は詭弁で理系は論理とかいうのももはや怪しくなってきたなw >>951
>>>946
>無意識の表現は嘘にみえるからな
>何故なら見えないから
>でも見えないからといって嘘ってことではないんだけどね
精神分析は治療効果エビデンス0な上に無意識なんて無いという実験結果も続々出てる >>976
あと10レスちょっとしか伸ばせないという意味では正しい いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 法律は一つ一つお前達の文句に答えているだけ
決めつけているものはない
文句があれば変えればいいだけ
例えば沖縄とか苦労しているようやが
個人の問題を県でして国に文句言ってるのはよくやってるな
俺ならメンドくさい
でもアメカスが横で歩いてレイプしてたら殺したかろう
アメクソ人は皆殺しにした方がええと思うな 自らの不自由に気づけない人間は
走光性を持つ虫と変わらないのである
光にたいし自動的に飛び込まずにはいられない
そのような虫の如き自動反応から
人間は自由でなければならない 6.哲学の滅亡(1930年代~現在)
1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。
20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。
また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。
利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。
さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。
哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。 役に立たなくていい
実に文系らしい迷回答で素晴らしいね
日本だけ衰退するわけだわ 7.結論
以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。
現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。
哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 哲学の詐欺スキーム
1.ラッセルのパラドックスを作り出してそれを矛盾としてしまうため本来は矛盾ではないものを矛盾と仮定するので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる
2.人や立場によって指す内容が異なる概念に同じ記号を与えて抽象化のプロセスを継承しないでカットすると同一の記号が異なる複数のものを指してしまうので「異なるものが同じである」という矛盾が仮定されるので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる
これら2つを回避しただけではダメ
それだけだとただの精緻なラノベ
実証してなければ意味ない
そしてそれを実証した場合それを科学と呼ぶ
つまり哲学が助かる方法は原理的に存在し得ないwwwwww
ざんねんwwwwwwwmmmww どれだけ曖昧なことでも、確率論やファジー論理などの数学的な枠組みを用いることで形式化が可能です。これにより、曖昧な表現や哲学的命題も論理学の枠内で検討され、その妥当性や一貫性を評価することができます。数学的形式化は、あらゆる命題に普遍的に適用されるため、論理学の適用を逃れることはできません。
### 曖昧な表現の形式化
1. **確率論の活用**:
- 曖昧な命題や不確実な状況を確率論を用いて表現することができます。確率論は、事象が起こる可能性を数値的に表現する枠組みであり、曖昧さや不確実性を定量化します。
- 例: 「明日雨が降るかもしれない」という曖昧な命題は、確率 P(雨が降る) = 0.7 のように表現できます。
2. **ファジー論理の導入**:
- ファジー論理は、命題の真偽を0から1の連続値で表現する枠組みです。これは、曖昧な概念や言語的表現を数学的に扱うことを可能にします。
- 例: 「暖かい」という曖昧な概念は、温度 T に対してファジー集合として表現され、「T = 25°C で 0.8 の真理値を持つ」などと記述できます。
### 形式化の具体例
1. **倫理的命題の形式化**:
- 倫理的な主張や道徳的判断も、条件付き確率やファジー論理を用いて形式化できます。これにより、異なる倫理観を統合し、矛盾を避けることが可能です。
- 例: 「行動 A は道徳的である」という命題は、特定の条件下での道徳的評価を確率的に表現し、 P(道徳的 | 条件) > 0.9 のように定式化できます。
2. **哲学的命題の形式化**:
- 哲学的な議論や形而上学的命題も、論理学を用いて形式化できます。これは、命題の妥当性や一貫性を検討するための基盤となります。
- 例: 「存在するものは何か」という命題は、存在論的な枠組みで数理論理学的に表現され、その論理的一貫性を検討できます。
### ゲーデルの不完全性定理の適用
- ゲーデルの不完全性定理は、形式体系が十分に強力である場合、その体系内で証明できない真の命題が存在することを示しています。これは、あらゆる形式化された命題に対して適用されます。
- 例: 任意の論理体系における自己言及的命題や矛盾を含む命題が、証明不可能であることを示すことで、形式体系の限界を明らかにします。 哲学と論理学の誤り
哲学の問題点
哲学、特に形而上学はしばしば論理学の誤りに基づく妄想や矛盾を含む議論を展開することがあります。これは明確な形式化や論理的一貫性を欠くことが原因です。
爆発律の影響
爆発律は矛盾から任意の命題が導かれる論理学の原則です。哲学的議論が矛盾を含む場合、論理体系が崩壊し全ての命題が真となるため、議論が無意味になります。
普遍的な真の倫理
形而上学的な立場では、普遍的な真の倫理が存在すると仮定します。これはAにとっての倫理とBにとっての倫理が一致するとされます。しかし、Aにとっての倫理とBにとっての倫理が異なる場合、これらが同時に普遍的な真の倫理と一致することは矛盾を引き起こします。
具体的には、Aにとっての倫理が「行動Xは正しい」であり、Bにとっての倫理が「行動Xは間違っている」であるとします。この場合、普遍的な真の倫理が存在するならば、行動Xが同時に正しくかつ間違っていることになります。この矛盾から、爆発律が適用され、全ての命題が真となり、論理体系が崩壊します。
写像Fの役割
写像FはAにとっての倫理とBにとっての倫理を統合するための明確な手段として定義されます。F(Aの倫理, Bの倫理)として表現されるこの写像は、以下のように爆発律を回避します。
写像Fは、AやBの倫理を直接的に論理的対応を持たせるわけではなく、それらを包括的に扱うことで矛盾を避けます。
Fを用いることで、AやBの倫理の具体的な内容にかかわらず、統合された結果が矛盾を含まないように設計されます。
これにより、F(Aの倫理, Bの倫理)は論理的に一貫した形で統合され、矛盾を避けることができます。
例として、Aが「ある行動は正しい」とし、Bが「その行動は間違っている」とする場合、それぞれの倫理を直接統合すると矛盾が生じます。しかし、写像Fを用いることで、これらの倫理観を包括的に考慮し、適切なコンテクストや条件に基づいて統合することができます。 倫理と科学
倫理の科学的取り扱い
倫理的命題も適切な形式化を用いることで科学的に扱うことができます。例えば、条件付き確率分布や写像Fを用いることで、異なる倫理観を統合し矛盾を避けることが可能です。
写像Fを用いることで、Aにとっての倫理とBにとっての倫理を論理的に一貫した形で統合できます。これにより倫理的命題も科学理論として扱うことができます。
科学的理論としての写像F
写像Fは異なる倫理観を統合するための手段として定義されます。F(Aの倫理, Bの倫理)として表現されるこの写像は矛盾を含まず、論理的に一貫した形で倫理を扱うことができます。
具体的には、写像Fは個々の倫理観を直接的に論理式で対応させるわけではなく、それらを包括的に考慮し統合することで矛盾を避けます。
結論
哲学の妄想性
哲学、特に形而上学はしばしば論理学の誤りに基づく妄想を含むことが多いです。これは明確な形式化や論理的一貫性を欠くためです。
倫理の科学的扱い
倫理的命題も適切な形式化を用いることで科学的に扱うことが可能です。写像Fや条件付き確率分布を用いることで、異なる倫理観を統合し矛盾を避けることができます。
ウィトゲンシュタインの誤解
ウィトゲンシュタインが「超越的」と述べたものは、実際には爆発律に基づくものであり、彼の理解不足や怠慢による誤解です。写像Fを用いることでその矛盾を回避できるため、超越性は存在しません。
したがって、哲学は論理学の誤りに基づく妄想であり、倫理であろうとも科学的に扱うことが可能であると結論付けられます。 >>979
草
であれば君はパンチ避けられないな(笑)
意識してから避けたらおそいからな 1. 科学者の実践と科学哲学の乖離:
科学哲学者はしばしば科学の斉一性や証明可能性について議論しますが、実際の科学者は異なったアプローチを取ります。科学者は通常、観察や実験によって得られたデータの範囲内でのみ主張を行い、その主張は新しい証拠が提示されれば修正されることを前提としています。例えば、重力の逆二乗則に関する研究では、微小距離での実験や天体観測を通じて得られたデータを基に理論の検証や修正を行っています。
2. ポパーの反証主義の誤り:
カール・ポパーは、科学が斉一性の仮定を用いるため、科学的な主張は決して確定的に証明されないと主張しました。しかし、これは実際の科学的実践を理解していない素人の妄想に過ぎません。科学者は斉一性の仮定を絶対視することなく、観察可能な範囲での理論の適用とその限界を認識しています。例えば、重力の逆二乗則に関する研究は、特定の距離スケールでの実験結果に基づいており、全ての距離スケールでの適用を前提としていません 。
3. 科学哲学者の詭弁:
科学哲学者の議論はしばしば抽象的で、実際の科学的実践と乖離しています。彼らは、科学的理論が絶対的な真理を提供することはないと主張する一方で、科学者はそのような主張をそもそも行っていません。科学者は常に仮説検証のプロセスを通じて理論を精査し、証拠に基づいた修正を行っています。これに対し、科学哲学者の議論は現実の科学の進展や実践に対してほとんど影響を与えていません。
4. 科学者の実践における科学哲学の無視:
実際の科学者は、科学哲学の議論をほとんど無視しています。科学的研究は観察、実験、データ分析を基盤としており、哲学的な議論よりも実証的な証拠に重きを置きます。例えば、重力の逆二乗則に関する実験は、非常に高精度の測定技術と具体的なデータに基づいて行われており、哲学的な仮定に依存することなく進められています。
これらの点を踏まえると、科学哲学の議論は実際の科学的実践に対してほとんど影響力を持たず、むしろ科学的進展を理解するためには具体的なデータと実験結果に基づくアプローチが重要であることが明らかです。
granite.phys.s.u-tokyo.ac.jp/ando/seminar_090514_ando.pdf 典型的な文系脳ID:3RNWDHQc0のように考えてるだけでふんぞり返ってる幼稚な人間が多いから資本主義は運用され続けてるんですよ
自分を知的と思い込んでるだけの無能な方々が足場となっているのです
いつもありがとうございますw >>966
まるで理系が突き詰めてないみたいな言い方
まるで文系が突き詰めてるみたいな言い方w 典型的な文系脳ID:3RNWDHQc0のように考えてるだけでふんぞり返ってる幼稚な人間が多いから資本主義は運用され続けてるんですよ
自分を知的と思い込んでるだけの無能な方々が足場となっているのです
いつもありがとうございますw このスレッドは1000を超えました。
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