>>985 栗原利一(第十三師団第六十五連隊第一大隊)
死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。
(『南京への道』文庫版P315-316)
高城守一(第六師団輜重第六連隊小隊長)回想録
南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国人兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。
(『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』P95)
ジョン・ラーベ「ヒトラーへの上申書」
残念なことに、この処刑もまた、およそ粗雑なやりかたで行われました。死刑の判決を受けた人のなかにはただ負傷して気を失っただけの人もいたのですが、死体と同じようにガソリンをかけられ、生きながら火をつけられたのです。このなかの数人が鼓楼病院へ運ばれ、息を引き取るまぎわにその残酷な処刑の模様を語りました。私もいくどかこの耳でそれを聞きました。
(『南京の真実』文庫版P359)
松本重治(同盟通信上海支局長)
私は、最近、従軍記者として南京攻略直後に取材のため南京に数日を過したという元同僚の新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、直接話を聞いた。特に深沢氏は、ずっと従軍日記をつけていたので、それを読ませてもらい、大いに参考になった。三人ともが十二月十六日から十七日にかけて直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった。約二千人という人と、二、三千ぐらいであったという人があった。おそらく、機銃掃射され、ガソリンをぶっかけられて死んだものであったらしい。
(『上海時代(下)』P251)
大寺隆(歩兵第65連隊第7中隊・上等兵)陣中日記
12月19日
午後七時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終る
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P197)
川畑芳弥(第六師団輜重第六中隊)回想録
夕暮れ、少し広い空地に捕虜が引き出された。捕虜は裸になるように命じられ、着ている服を全部ぬいだ。八人いた。数人の兵士が歩み寄り、後手に縛りあげ、背中にひとかかえのワラを置き、それをまた、縄で落ちないように結んだ。その上に石油をたっぷりかけ、火種を手にした兵士が、後に立っていた。〔中略〕
「つけろ!」の合図とともにかけ寄り、ワラに火をつけた。パッとワラと石油が燃えあがる。〔中略〕ワラがプスプスと燃え、石油の燃える臭いと人の焼ける臭いが混り合って周囲に漂う。
(『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』P120)