>>187 なぜ「ホロコースト犠牲者の国」が、パレスチナ人を迫害するのか? ②
ホロコーストが行われていた最中、シオニスト指導者にとっての関心事は、ユダヤ人の命を救うことではなく、イスラエル建国に役立つ人間を連れてくることでした。
のちにイスラエル初代首相となったベングリオンは、1938年にイギリスで行われた労働シオニスト会議でこのように語っています。
「ドイツにいる(ユダヤ人の)子どもたち全員をイギリスに送って助けるのと、その半分の人数をイスラエルの地に連れてくるという選択肢があるならば、私は後者を選ぶ」
シオニスト指導部が、ナチス・ドイツと協力していたことも明らかになっています。
「ヨーロッパからユダヤ人を追い出したい」ナチスと、
「パレスチナに移民を増やしたい」シオニストとは、利害が一致していました。
世界シオニスト機構とナチスが結んだこの協定(ハーヴァラ協定)によって、経済的に豊かなユダヤ人が優先してパレスチナに移送されることになりました。
移送のための協力関係は、第二次世界大戦末期まで続き、富裕な移民の資金は、建国後のイスラエル経済を支えることになります。
その陰で、資金のない多くのユダヤ人は強制収容所などに送られました。
また、戦後になってイスラエルに渡ってきたホロコースト生還者に対して、シオニストは冷淡に扱っています。
シオニストの多くは、自らの権利を勝ち取るためには武装して戦うべきだと考える武闘派でした。
そのためナチスに抵抗したユダヤ人を賞賛する一方で、大きな抵抗をせず、「おとなしく」強制収容所に送られていった人たちに対しては軽蔑のまなざしを向けました。
それを象徴するかのように、建国後のイスラエルでホロコースト生還者はさまざまな蔑称で呼ばれていました。「難民」「不良品」「廃棄物」「死に損ない」そして「石けん」などです。
イスラエルの言葉、ヘブライ語では石けん(サボン)には俗語で「弱虫」という意味があります※
しかし1960年代以降、ナチスドイツによるホロコーストの実態が世界的に知られるようになり、政治的に利用できると指導部が判断すると、「イスラエルはホロコースト犠牲者の国である」と内外に宣伝するようになっていきます。