《尖閣は中国領》
日本政府は、1885(明治18)年、尖閣諸島に国際法の「先占」を示す国標を立てて欲しいと、沖縄県令から
上申を受けます。
しかし、外務卿の井上馨は、尖閣諸島は、無人島だったが清国が島に名前まで付けて、近海では清国の漁民
が漁もしていたことを知っていました。そのため大国であった清国と事を荒立てたくなかった日本政府は、
国標の建立を見送るのです。

ところが、9年後の1894(明治27)年8月1日、日清戦争が勃発し、その年末には日本の勝利がほぼ確定的と
なります。
すると日本政府は、国標建立を見送った10年前とは事情が異なるとして、1895(明治28)年1月14日に
「久場島及び魚釣島」を沖縄県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定をしたのです。

その後、日本は日清戦争に勝利し、1895年(明治28年)4月17日の下関条約(日清講和条約)で、日本は
台湾の割譲を受けます。
尖閣諸島は台湾から非常に近い島嶼ですから、1月の閣議決定で国標を立てなくても、同じ年の4月の下関条約で
台湾と一緒に日本の領土となっていたはずです。
しかし、尖閣諸島は下関条約の3ヶ月前に国標を建て日本が先占したので、下関条約の対象とはなりませんでした。

このままなら、清国の敗戦がほぼ決まった「どさくさ紛れ」に国標を立てて先占しなくても、結局は下関条約で
割譲を受けたでしょうから、「どさくさ紛れ」に国標を立てたことは問題とならなかったはずです。

しかし、その後の太平洋戦争で敗戦した日本は、カイロ宣言、ポツダム宣言を経て、台湾を中国へ返還します。
ただ、尖閣は下関条約で割譲を受けた領土でなかったので、中国には返還されませんでした。
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