徳川家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにしたとされてきた「徳川家康三方ケ原戦役画像」(しかみ像)について、三方ケ原の戦いと関連づける根拠がないとの説が提唱され、有力視されている。合戦の舞台となった浜松市や出生地の愛知県岡崎市では、展示を見直す動きが出ている。 (藤嶋崇)
 この新説を二〇一五年に提唱したのは、しかみ像を所蔵する徳川美術館(名古屋市東区)の学芸員だった原史彦氏(54)=現在は名古屋城調査研究センター主査。口伝として継承されてきたしかみ像の由来を明確にしようと調べた。
 徳川美術館は尾張徳川家に伝わってきた品々を中心に収蔵。台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の所持品とあった。尾張徳川家九代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と一七八〇年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。
 原氏は、三方ケ原の戦いに関する文献も調査。いずれも反対を押し切って家康が出陣したとの内容で、慢心の戒めとして合戦直後の姿を描かせたとする記録はなかった。
 三方ケ原の戦いとの関連で最も古かっ...

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