乗客も玉音放送聞く 8月15日の安房北条駅(千葉県)
「終戦の日」はこの時期、メディアで取り上げられる。報道だけでなく、ドラマや映画でも。出征兵士やその家族、祖国を守った人々……。
では、あの日、市井の民はどう8月15日を迎えたのか。戦後77年。
国民の8割が戦後生まれとなり、戦争体験者が高齢化する中、文献から終戦の日の模様を振り返った。(忍足利彦)
館山市の那古連合町内会刊行の『那古史』(平成19年発行)。自治体発行の「市町村史」並みの立派な内容だ。
「鉄道の発達」の節があり、ここで現在の館山駅のその日の様子が取り上げられている。
昭和20年(1945)4月に、安房北条駅(当時)の駅長に着任した男性(那古史では実名)の日記を掲載している。孫引きになるが、一部を抜粋しよう。
「8月15日早朝、空襲警報のサイレン吹鳴に直ちに出勤す。(略)敵機の攻撃なし。管理部より十二時のご放送時刻にわたり、運転中の列車は、その終了まで発車せしめざる様指令あり」
正午の玉音放送終了までは、列車の運行を止めたということだ。
駅長日記は、この放送の自身の受け止めを「ソ連に宣戦布告ならんと想う」と述べている。下り列車が正午前に到着するので、乗客にも通告し、駅長室でラジオを聞くよう手配する。
5分前に駅員一同がラジオの前に整列。乗客の中の海軍将校、駅員の後に乗客が整列する。
正午、君が代が流れる。放送が終わると、一同は無言で室外に退出する。
映画やドラマで、庶民が玉音放送を聞くシーンがあるが、館山駅では、駅員と将校、乗客が放送に耳を傾けたのだ。
駅長は助役に指示する。「戦いは終わったのだ。これからは、列車運転の確保が急務だ」。だが、駅長自身も「暫(しばら)くは放送を聞き間違いたるに非(あら)ざるか」と戸惑っている。
この玉音放送後の思いは、全国の国民共通だったであろう。
だが、房州の鉄道関係者には、あの記憶が新しいはずだ。この年の5月8日、現・鋸南町下佐久間での米軍機P51の列車銃撃である。死者13人、負傷者46人を出した。安房勝山駅を出た列車が機銃掃射を受ける。
その後は白浜付近の艦砲射撃被害などもあり、房総半島は米軍による大きな被害を受けていた。
こうした状況下で、終戦はどう受け止められただろう。房州の民間人たちは、そのまますんなり終戦を迎えたのか。
駅長日記は赤裸々に伝えている。「8月17日各列車遅延甚だし、敗戦により職員の士気阻喪し、乗務員中には出勤せざる者、乗務せざる者等有り、列車運行に支障をきたしおる箇所ありとのこと」。
敗色濃い中、列車が銃撃され、死傷者が出た。地域は満身創痍(そうい)。そこに終戦の放送。きれいごとではなく、それぞれの事情もある。出勤しない鉄道人もいたのだ。
多くの公職者も戸惑ったことだろう。日本が負け、あすからの希望も見えない。「戦争は終わった」と喜ぶのは映画やドラマの世界であり、現実には虚無感が襲ったのだろう。
8月15日はこの国の大きな転換点となった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d5c67839c7e1068b62c0d7f0d58b6da5d068bd4