倭国と日本て別の国だったの? [339885996]
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ネトウヨ 「我が国が世界に誇る皇紀2682年と続く万世一系の日本の歴史は・・・」
おれ 「1800年前の邪馬台国ってどこにあったんだろう?」
ネトウヨ 「そんな昔のことがわかるわけないだろ、バカかチョン」
おれ 「」
倭国の倭は、一人称に基づく
中国人「あなただれ?」
猿「吾(わ)は東の島から来ました~吾(わ)の王様はこれこれこういう人で~」
中国人「あぁ、君たちは倭(わ)なのね」
【旧唐書】
日本の由来に関しては
「その国から入朝する者は、多くは尊大な態度をとって真剣に答えない。したがって、中国はこれを疑う」とも書かれてる
しかも諸説あり↓
①「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺(にっぺん)にあるをもって、ゆえに日本(にっぽん)をもって名となす」と。
②あるいはいふ、「倭国みずから、その名雅(みやび)ならざるをにくみ、あらためて
日本と号す」と。
③あるいはいふ、「日本はもと小国、倭国の地をあわせたり」と。
こんなやりとりが行われていたのだろう
唐人「なんで国号が日本に変わったの?」
粟田眞人「それは倭という呼び方が雅じゃないからですよ。
そして我々の土地は日の登る所にあるからです。昔、推古王が日出づる処の天子云々と書簡を送ったでしょう?」
唐人「そうですか。では新しい天皇はどんな人なんですか?貴国で政変があったというのは事実ですか?」
粟田眞人「(迂闊な発言で帝が簒奪者として記録されたら不味いぞ...)一応壬申に大乱がありまして、その時に色々あったんですよ。前の政権が腐敗していたのでゴニョゴニョゴニョゴニョ」
唐人「もっとハッキリ教えてください!」
粟田眞人「これ以上は無理だ!(怒)」
唐人「なんだこいつ!(怒)」
みたいなね 統一国家になったのは明治からだからそれ以前は色んな国がたくさんある列島だぞ
藩という言葉は天皇の所領だということを強調するために大部後になってから使われだした言葉 ネトウヨ 「日本の皇紀は、実に2681年もの長きの間・・・」
おれ 「とりあえず1800年前の邪馬台国の文字記録が、なんで中国側にしか無いの?」
ネトウヨ 「お前がチョンなのがわかった」
おれ 「ええっ?」 倭国は関西のゴミのこと
日の下は関東だよ
関西人の中では西から日が昇るのかもしれないがw
【日本】という国号を正式に使い始めたのは天武天皇の事。
「小国の日本が倭を併合した」っていうのは壬申の乱の事が変な風に伝わったのだろう
近江朝廷が倭で
武力クーデターで近江朝廷ひっくり返したのが大海人。つまり日本 現在の天皇家は偽物。
皇の字は女性って意味、和歌は諷刺で神はかみさん、結納の対価で嫁に行ってたって歴史を残した物。
で、倭って表記は日本の事な、中国って国が幾つもあったから、呼び名が地方ごとに違う事もあるよ。
古語の一人称が「わ」だったのを転用しただけだし。
大海人は東国の協力を得て挙兵してきた
日ノ本からやって来た
これは関係ないかもしれないけどね 【外国の歴史】
遺跡や文字の記録がある
【日本の歴史】
ぼくがこう考えた >>11
君たちの集団はなんて言うの?
「輪」
の可能性も 倭奴国 って何て読むの?ってかなんて読んでたの? 委奴国とは違うの?
>>24
上古音では「奴」はヌorナと読む
ドではない
>>25
ほんとこれ >>11
日本人「一人称はワ、二人称はナ」
支那「アイヤー二人称は国名に転用するアル」
中国人「倭は東の人アル、一人称はヲに変更するしかないアル」
>>24
どっちも倭の奴国
委は倭の減筆
>>29
クソワロタ 『論衡』の中にも倭人の事が出て来るんだけど、この頃から倭は中国に朝貢してたの?
それとも中国国内にそういう人達が居たの? そもそも日本って国は近世できた国だろ
江戸時代までは色んな国の集合体のことを日本と呼んでいた
>>33
長江にいた人たちだろう
長江の倭人は列島の人間とは関係ない 和ってよくない意味なんでしょ?太陽って東から昇るじゃんだから…
君にはこれから日本って呼んで欲しいなー…ダメ…かな?みたいな >>21
大海人は呉竹の節世のクーデター政権。
それ以前で歴史捏造が起こってたから是正しようとして起った。 倭人は全身に入れ墨をし
木綿に首のところだけ穴をあけた服を着て
裸足でドングリやトチの木をたべていたという >>27
奈と那と奴は同じ。
全部これだけで国って意味。 >>36
南からは越裳が来てるんだから他にくるのはおそらく北からだと思う
あっちからもこっちからも朝貢に来たという話の流れなんじゃなかろうか
なので倭人がくるのは北(燕経由か)
>>44
九州が優位だったのは1~2世紀まででしょうね
3世紀からは全国各地に渡来人が来て技術力が均一化する
そしたら多くの平野部を有する=人口を支えられる瀬戸内海東部にパワーバランス逆転されるのも当然ですから >>15
唐会要99巻に「自言其國近日所出 故號日本國 蓋惡其名不雅而改之」とあるから、自分から言ったのは「日に近いから」で、「名前がカッコ悪いから」は中国側の推測なんだよねえ。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%83%E8%A6%81/%E5%8D%B7099
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%83%E8%A6%81/%E5%8D%B7100
まあ、倭国と日本について書かれたのは旧唐書だけしかないと思ってる馬鹿を食い物にする自称歴史家は昔から絶えないから騙される奴が続出するのは無理ないね 倭こと阿麻「新羅さま新羅さま 我々おたくらに破れてもうたんで倭はもういやです!
日が出る方角ってことで日本にします!」
新羅「そう言われても唐がなんていうかなあ」
阿麻「お願いいたしますだ」
新羅「んじゃとりあえず唐一緒にいく?」 https://i.imgur.com/ISYhGKw.jpg
https://i.imgur.com/hXcFhHX.gif
https://i.imgur.com/zYVWcZS.gif
魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
「韓は帯方の南に在り。東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。三種ありて、一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁韓と曰ふ。辰韓は古の辰国なり。」
「韓は帯方郡の南に在る。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種があって、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」
韓の東西は海ですが、南に海はなかった。倭と接すですから、朝鮮半島南端に倭が存在したことになります。帯方郡の南に韓があるという記述は、次の倭人伝の「従郡至倭循海岸水行歴韓国(帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国をすぎる)」という記述にも影響し、水行の方向を記していません。韓は南にあることが明らかなので、記す必要がないわけです。 >>49
弥生人は朝鮮半島経由で列島へ
最近は縄文人の主流派も朝鮮半島経由で列島へ
ところで朝鮮半島南部に移民船を作る基地、港町があったはずでその朝鮮半島南部地域にその港町維持している縄文人弥生人の残りがいても全くおかしくない 倭(わ)は奈良の明日香で
当時は倭京とも呼ばれていた
後に意味的に良くないから和に変更された
じゃ日本はというと語源となる地があって日下(くさか)という河内のところ
今も地名として残っていてこの日下を元に日本という文字となった
でも実は国号「日本」は今と違い「やまと」と読む
ニホン等に変化したのは平安時代の話
記紀を読めばわかるがこの「やまと」には前後して二つ文字が当てられている
ヤマトタケルがわかりやすくて「日本」と「倭」の二つ
つまり奈良盆地と河内の連合王朝共通の呼び名で「やまと」が作られたということ 国内に倭という国があった記録がないから知名なんじゃないの
>>52
じゃあなんで飛鳥京が倭京(やまとのみやこ)だったのですか?
九州の中心は奴国
中国地方の中心は投馬国
畿内の中心が邪馬臺国 >>16
田舎に帰ることを
クニに帰るとかいうもんな
支對馬[ツスマ]國→対馬
一支[イキ]國→壱岐
末廬[マツロ]國→松浦
伊都[イツ]國→糸島
奴[ナ、ヌ]國 →那珂
不彌[プミ]國→宇美
投馬[ヅマ]國→但馬or出雲
邪馬臺[ヤマデ]國→ヤマト
狗奴[クナ、クヌ]國→久怒(山梨から呉の年号が記された銅鏡出土※九州からは出土しておらず)
斯馬[シマ]國→不明
伊邪[イヨ]國→伊予(愛媛伊予市)
彌奴[ミナ、ミヌ]國→美濃
對蘇[ツソ]國→土佐
蘇奴[ソナ、ソヌ]國→讃岐
鬼[クィ]國→紀伊
巴利[パリ]國→播磨
支惟[キグィ]國→吉備
華奴蘇奴[パヌサヌ、パナサナ]國→阿波の和那散(播磨国風土記に登場、現在の徳島県和奈佐意富曾神社) 倭の説明では阿蘇山があると中国の文献にはあります
近畿には阿蘇山どころか火山すらありません 日本書紀の神武天皇のとこ読んでたら「倭の国のなんとかって村に反抗してるものがいる」って記述出てきてビビった
倭の国のストーリーを読んでると思ってたのに倭の国の話ではなかったのだ
じゃあこのあと「倭は我々のことです」って中国に言ったのはウソだったことになる 単純に倭って日本人って意味だからな。
朝鮮半島南部も任那って倭人の住んでた場所なんで、県と国程度の違いしかないし。
支那に住み着いた倭人も一定数居る。
国としては一貫して日本の国土としか言ってないべ。
その内リーベン以外の読みが全部伝説上の国になって海に沈んた事にされるぞ。
>>59
阿蘇山云々の記述があるのは倭の風俗が書かれた記事の所だよ
そりゃ倭の九州には阿蘇山あるから当たり前です 昔 茨城県のあたりに日本って国があったんだよ 国王は藤原氏な 藤原氏は茨城県出身という伝承がある これが倭国と合邦したということだろう 隋の煬帝に国書を送ったのが倭国
それを知らないのが日本書紀
>>64
皇帝激怒させる大失態犯したから書かなかったのでしょう 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/404
404 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ d58f-By/s) 2021/08/03(火) 22:08:57.88 ID:gtGBYg7Y0
2世紀末から3世紀前半の邪馬台国は世界的に極寒で氷期末期
魏志東夷伝諸
対馬 良田なく海産物で自活.船で南北に米を買いあるく.
一支(長崎県から北部の島) やや田地あり,耕作しても食糧不足.南北に米を買う.
邪馬台 稲・紆・麻を植え養蚕を行う.繊維を紡ぎ織機を使って絆の布,繰布,絹布を産する,
国々に交易の布が立つ,飲酒が普及
寒冷な弥生時代の卑弥子の時代にあっても邪馬台国は稲作、養蚕が行われた
絹の公益が盛んだった
コレが結構重要な事で絹の養蚕技術はしばらくは九州で独占されていた
重要な公益製品で稲作も出来る暖かい地域で時代は寒冷な弥生時代
ここで邪馬台国は財を成したと思われる
あたり前だけど弥生時代の絹製品出土は九州しか出土が無い
どっからどう調べていっても邪馬台国は九州のどこか
気象学、考古学でも九州以外あり得ない
なんで畿内とか日本で言っている人がいるのか不思議 >>1
倭国は中国の奴隷国だから
名前を変えて誤魔化した
日出る国の天使とか言って日本を名乗って勝手に独立
ネームロンダンリングして誤魔化しただけ
>>67
養蚕はもっと寒冷な朝鮮でも行われていたよ
九州説って学者の5%くらいしか信じてないよな 「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読むヤツはいろいろと馬鹿。
まず原資料の表記は、邪馬「台」国じゃなくて 邪馬「壹」国。「一」の難しい漢字。
で、これは中国の史書に出てきた用語。当時の中国語で読むのが当然。
だから例の国の名前が「ヤマタイコク」である可能性はほぼゼロ。ゼロ。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
「ヤマタイコク」(笑)よりまともな推測音はこんなかんじ。
邪
・z-a, ia, ua (1) ザ、ズィア、ズア のどれか
・j-a, ia, ua (1) ジャ、ジア、ジュア のどれか
馬
・m-a, ia, ua (2) マ、ミア、ムア のどれか
壹
・?-in, it(4)イン、イト のどれか
いっとくが j-a, ia, ua は、ヤ、イア、ユア とは読めないからな。 永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
いずれにせよ「ひみこ」なんて読み方はありえない。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方みたいにしてんじゃねーぞ、糞ジャップ >>58
女王国の北にある伊都国に一大率を置いて諸国を検察させ諸国はそれを恐れたという
が、本州各地に諸国があるのなら遠く九州の地にある役所なんか恐れることもないという
>>73
上代までの日本語に拗音はないから話し手の日本人はヤ行のつもりで喋っていただろうよ >>5
日本って国名で呼んでくれってお願いに行ったの持統天皇の時だけど
>ザ、ズィア、ズア のどれか
>ジャ、ジア、ジュア のどれか
上代までの日本語に拗音はないのだから、伝聞側にそう聞こえていても話し手からすればありえない
これをもってヤマト=邪馬臺を否定する根拠には全くならない
九州説論者はこの程度の知識しか持ち合わせてない
>>75
>諸国を検察せしむ
つまり一か国という訳でなく広い範囲を廻る率(帥に対応)がいる
で伊都国、つまり博多湾岸にはこれを常置して帯方郡の様な役所とした。その様は漢で言う地方長官、監察官つまり「刺史」の様であると
飛鳥時代にも吉備太宰や周防総領や伊予総領などなど、各地に置かれている
一大率(ソツ)。そして帥(ソチ)
古語で宰or司(みこともち=御言持ち)
彼らを統括する(すべる)のがヤマトの大王
よって大王は諸国から「皇(すめらみこと)」と呼ばれ恐れられる様になる >>68
きっとそれだよ ロンダリング
『日本書紀』編纂実務者たちは、『隋書』を読んだ
隋書の倭国の条には、初めての正史たる『日本書紀』には書きたくないことが盛りだくさんだ
・倭国は、漢代からはじまり三国時代を経て南北朝時代も隋にも使者を送り、中華の歴代王朝の皇帝が王の称号を与える国である
魏志にある女王卑弥呼もその一人である
・600年の倭国の隋への入朝の際には、文帝が倭国の使者に謁見し、倭国の道理のない統治機構を諭して改めさせた。
倭国は「王は天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、胡坐をかいて座っている。
太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽に任せる」これを道理のないことと改めさせた。
・607年の朝貢では、倭国の王タリシヒコが煬帝に使者を派遣した。国書ははなはだ無礼であったが、倭王は隋に教えを乞うので、
翌年、文林郎裵世清を倭国に派遣し指導することとなった。
倭王は、港に数百人の共ぞろえで隋の使者を迎え、都の郊外で再び二百余騎を整列させて出迎えた。
倭王は隋の使者に言った「海を渡った西方に大隋国という礼儀の整った国あると、私は聞いていた。そこで使者を遣わして貢物を持って入朝させた。
私は野蛮人であり、大海の一隅に住んでいて、礼儀を知らない。どうか大隋国の新たな強化の方法を聞かせてほしい」
遣隋使は思いっきり朝貢使節であり、倭国王は隋皇帝の臣下
しかし日本書紀は、日本と隋が対等であると書く
また、日本書紀では邪馬台国や倭の五王など、正史で中国王朝から冊封されている事実は絶対に書かない
本居宣長「卑弥呼は熊襲の酋長っすね」
九州説はこういうネトウヨイデオロギーに基づいてる。中国に天皇家が朝貢していたという事を認めたくない人達 「倭」と書き表された民族は元々中国南方の一民族を指していて
それが時代とともに北上して朝鮮半島付近の一民族を指すようになり
最終的に日本列島の民族を指す名前になるという話が興味深い
もうそれが答えだよね
いやすまん人違いだった
本居宣長は神功皇后説か 「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」
とは認められたけど百済の支配権だけは認められんかったんだよね
本居宣長の問題は皇紀をそのまま信じてしまった事だろう
卑弥呼は百襲だよ。神功皇后は魏志倭人伝の時代に合わせるために100年も史実と時代がズレてる
正しくは神武東征があったことにしたい人達か
それがネトウヨ九州論者 歴史学の主流である国民国家論の立場から言えば、日本ができたのは明治以降であり地球上の全ての国民国家は人為的に作られたのである。したがって明治以前は日本とは呼ばないし、そもそも近代的な国という概念そのものは存在してなかった
>>88
意味のない称号ですよ
実態が伴っていない 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/326
326 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウーT Sa09-By/s) 2021/08/03(火) 07:00:57.66 ID:WtKGh4Yua
邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話
https://agora-web.jp/archives/2043273.html
>つまり、大和政権が北九州に進出したのは、邪馬台国が滅びてから半世紀以上立ってからのことと推定できる。
>
>そうであるとすれば、北九州に邪馬台国があったとしても統一をめざして成長する大和政権とは接点がないのが当たり前だ
>
>一方、畿内に邪馬台国があったとすれば、九州までその支配下に収めていた邪馬台国を、数キロ離れただけの葛城地方の小国だった大和政権が倒したが、邪馬台国と北九州や大陸との交流は忘れ去られ、1世紀近くたってから大和政権はようやく再び北九州に姿を現したが、大陸との交流は何の過去の記憶もなくいちから始めて模索していったということになり、なんとも不自然なことになる。
>
>逆に、邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。邪馬台国が滅びて数十年たったあとその故地を支配下に置いた大和政権は大陸に使節を出した女王の噂などなんにも聞かなかったと言うだけで、すべて問題は解決する。
近畿説は大和政権に無理やり邪馬台国との連続性を持たせようとするためだから矛盾だらけだけど偽造捏造安倍晋三のわーくにらしくて好き 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/315
315 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 256d-368L) sage 2021/08/03(火) 05:09:20.55 ID:JpFehrOv0
魏志倭人伝の内容は色んな国のこと書いてるんだけど邪馬台国以外はすべて九州の国
それで間にある中国地方完全スルーしていきなりむっちゃ遠くの奈良の国に飛躍するとか普通に考えてまずありえない
>>93
怪文書すぎて理解できない
九州に君臨していたのは奴国だと最初から言っている
>>94
>魏志倭人伝の内容は色んな国のこと書いてるんだけど邪馬台国以外はすべて九州の国→違う
>それで間にある中国地方完全スルーしていきなりむっちゃ遠くの奈良の国に飛躍するとか普通に考えてまずありえない→投馬国通ってる
支對馬[ツスマ]國→対馬
一支[イキ]國→壱岐
末廬[マツロ]國→松浦
伊都[イツ]國→糸島?
奴[ナ、ヌ]國 →那珂
不彌[プミ]國→宇美?
投馬[ヅマ]國→但馬or出雲
邪馬臺[ヤマデ]國→ヤマト
狗奴[クナ、クヌ]國→久怒(山梨から呉の年号が記された銅鏡出土※九州からは出土しておらず)
斯馬[シマ]國→不明
伊邪[イヨ]國→伊予(愛媛伊予市)
彌奴[ミナ、ミヌ]國→美濃
對蘇[ツソ]國→土佐
蘇奴[ソナ、ソヌ]國→讃岐
鬼[クィ]國→紀伊
巴利[パリ]國→播磨
支惟[キグィ]國→吉備
華奴蘇奴[パヌサヌ、パナサナ]國→阿波の和那散(播磨国風土記に登場、現在の徳島県和奈佐意富曾神社) >>88
そうだね。
『宋書』に記される倭王武(雄略?)5世紀は、倭王の称号のほか、朝鮮半島各地の官位を宋から賜るべく外交交渉に力を入れた。
しかし百済の利権は宋に認められなかった。
時を経て7世紀に白村江で敗戦し半島から撤退すると、視野が広がり、半島利権を中原の皇帝に願い賜ることは中原の王朝の臣下である宣言に等しい、
ことに気づく。
8世紀になり、倭国時代に中原歴代王朝の冊封国であったことは忘れることにした。
歴代正史に倭国が冊封国出会った事実が書き記されたことは仕方がないが、国号を日本と改め、初めての正史『日本書紀』には書かないと決めた。
しかし歴代の王の記録ごと消し去るわけにもいかず、たとえば神功皇后の条に台与(明らかに冊封されている卑弥呼ではなく台与の方)の記録を記す、
第一回遣隋使は書かず、第二回からを書くなどの工夫をした。
日本は倭国と同一である。
魏志倭人伝って伊都国までは方向・里数・戸数や官名の定型項目以外に見聞記録があるけどそれ以降に記載された土地には無いからね
つまり使者は伊都国より先に行ってない。それ以降の投馬や邪馬臺は伝聞だろう。
倭人は入れ墨してるってのも、棺はあっても槨が無いってのも、伊都国までの習俗の事だ。
という事を頭に入れておいてください 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/225
225 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スフッ Sd9a-S4kD) sage 2021/08/02(月) 10:51:52.54 ID:uQ32vhSad
機内説は纒向遺跡証拠としているけど年代が合わないのを無理矢理合わせているし当時邪馬台国は他国と戦争をしていたのに戦いがあった形跡が無い
もし九州に投馬も邪馬臺もあるんだとしたら、すぐ近くなのだから使者が直接出向いて見聞録まで書いてるだろうよ
遠いから玄関口の伊都でお話聞いて帰ってきたのだ 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/228
228 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW d605-E2qD) 2021/08/02(月) 10:54:32.37 ID:AKh/hVWO0
>>36
魏志倭人伝の筆者が何故「方角+距離」と「移動手段+日数」を書き分けたか?
それらをゴチャ混ぜにすんな
・畿内説→方角も距離も移動手段も日数も全ておかしい
・北九州説→「移動手段+日数」(水行十日陸行一月)を『帯方郡から邪馬台国までの旅行総日数』と理解すれば、方角も距離も移動手段も日数も全てクリアした上で北九州の何処かに推定出来る
>>99
無理矢理合わせている←たとえば? >>96
坂東をまとめるなら鎌倉に
九州をまとめるなら太宰府に
本州を検察しなきゃならんのに九州に役所置いてどうすんだ一大率
不合理にすぎる 江戸時代の公務員であり軍隊である武士は誰に使えていましたか?
日本という国ですか、天皇家ですか?いいえ違います。彼らは藩に仕えていました
日本という国ができたのは明治以降です 邪馬台国って魏志倭人伝を読むと九州にあったとしか思えないよね [472883477]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1627829726/404
404 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ d58f-By/s) 2021/08/03(火) 22:08:57.88 ID:gtGBYg7Y0
2世紀末から3世紀前半の邪馬台国は世界的に極寒で氷期末期
魏志東夷伝諸
対馬 良田なく海産物で自活.船で南北に米を買いあるく.
一支(長崎県から北部の島) やや田地あり,耕作しても食糧不足.南北に米を買う.
邪馬台 稲・紆・麻を植え養蚕を行う.繊維を紡ぎ織機を使って絆の布,繰布,絹布を産する,
国々に交易の布が立つ,飲酒が普及
寒冷な弥生時代の卑弥子の時代にあっても邪馬台国は稲作、養蚕が行われた
絹の公益が盛んだった
コレが結構重要な事で絹の養蚕技術はしばらくは九州で独占されていた
重要な公益製品で稲作も出来る暖かい地域で時代は寒冷な弥生時代
ここで邪馬台国は財を成したと思われる
あたり前だけど弥生時代の絹製品出土は九州しか出土が無い
どっからどう調べていっても邪馬台国は九州のどこか
気象学、考古学でも九州以外あり得ない
なんで畿内とか日本で言っている人がいるのか不思議
>>102
なぜ書き分けたか?簡単だ。不彌国は九州だが、投馬は出雲か但馬なのだから今までの道程とは距離が違う。
倭人からの伝聞記事なのだ。
隋書に「倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り、大海の中の山島に依りて居す。魏の時、中国と訳を通じること、三十余国、皆自ら王と称す。倭人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ。」とかいてあるだろうよ 3世紀とか都市国家だらけだったろ
なんで日本に統一国家があったと思いこんでるんだお前ら
>>104
なぜ非効率的なのかさっぱり分からない
後世に至っても筑紫太宰は対新羅、対刀伊、対唐の機関として存続し続け、元寇でもこの北部九州太宰が要になったし外務省としての機能も果たした
瀬戸内海沿岸の諸太宰は、せいぜい国内の海賊退治ぐらいにしか使えず、すぐに廃止されたという歴史的経緯を知っていればそんな考えにならないと思うけど
知ってた? 22 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (JP 0Hff-iUHJ) 2022/10/06(木) 18:56:50.76 ID:NPDI5S+fH
【外国の歴史】
遺跡や文字の記録がある
【日本の歴史】
ぼくがこう考えた
レス先間違えたわ
>>111
>>106
瀬戸内海東部沿岸には、大阪平野播磨平野讃岐平野岡山平野と農業生産しやすい=人口増えやすい平野が集中している
ここが2世紀後半以降急速に発展し、それまで大陸に近く先進地域だった九州を追い抜くのも当然の理だった
農業生産力が九州単独と瀬戸内海東部沿岸じゃ桁違いだからね
氏族に関連する神社や史料から推測すると
摂津、河内の物部氏
河内、和泉の葛城[外交担当の支族蘇我氏](ヤマトと瀬戸内海の交通路=喉元を抑える)
大王家が三輪を本宗とする大和
[ここまでが邪馬台国]
そんで山城が武埴安彦だったけど、百襲姫の予言で崇神に討伐される。代わりに葛城に仕えていた渡来系の秦氏や賀茂氏が入植&開拓。
渡来系の~と記したけど実際の所蘇我も大王も物部もみんな渡来系だろうね
https://i.imgur.com/XpnysC1.jpg
日本で呉の年号が記された銅鏡が出土しているのは、安倉高塚古墳(兵庫)と鳥居原狐塚古墳(山梨)の2例のみ
邪馬臺国が「魏」から支援されていたならば
邪馬臺国と敵対する狗奴国は当然、魏と対立関係にある「呉」と親交を深めようとしただろうし当然応じられたであろう。
九州から呉の年号が記された銅鏡が出土していない時点で九州説はズタボロ
同時に鳥居原狐塚古墳に近い遠江の久奴が狗奴国に比定され、邪馬臺国畿内説が更に強化される
九州を支配していたのは【奴国=那珂】
比定地の那珂には比恵・那珂遺跡群という巨大遺跡があります。吉野ヶ里ばっかり注目されますが、こっちは吉野ヶ里よりデカい。4倍ほどデカいから比べ物にならない。
直線道路に面して様々な施設や家が置かれていた、つまり綿密に都市計画を練ってから都を造った先進国家が【奴国】である
魏志倭人伝に2万戸あるのと記されているのも納得 >>109
太宰府が本州の各国を監視したとか聞いたことないわ
奴国[那珂]は一時期日本最強、そして最大の都市を有していた。
漢委奴国王の金印まで獲得していた。
しかし3世紀以降急速に発展する瀬戸内海東部に圧倒され妥協の必要性に迫られ、女王国同盟に加入したという所でしょう
https://i.imgur.com/H00p5DU.jpg
>>117
それね
こっちでもう説明してる>>80,81 >>120
いやそんな妄想知らんがな
坂東武者を取りまとめるのに鎌倉じゃなく九州から監視団を派遣したみたいな話をされても
不合理にすぎる なにせ大「和」と名乗ってるからこそ倭国との継承性を誰も否定してないわけで >>81
尚更、九州説に有利じゃね?
置いてないのだから
邪馬臺国の官である伊支馬(イキマ)が垂仁天皇(和名諡号:イクメイリビコ)に対応し
副官の彌馬升(ミマソ)が崇神天皇(和名諡号:ミマキイリビコ)に対応する
そして女王国同盟で占いによる政(まつりごと)をする【斎王】が三輪山の大物主と結婚した巫女である日百襲姫って所だろうね
>>123
どういうこと?主語と目的語がなくてわからない
>>121
どういうこと?伊都国に置かれた一大率(イチダイソツ)は大宰帥(ダザイノソチ)の前身でしょう
きみは太宰府要らなかったと思ってるの? 邪馬台国がどこであるかは、その地域の経済力や軍事力には依存しない
伊都国に一大率を置いたのはどのクニか
その時代の倭国は統一の古代国家が完成していたのか、それともバラバラのクニの集合体か
権威と権力が分立していないか
これらにかかっている
統一の古代国家が完成しており、その統一国家が伊都国を押さえていたなら、奈良だろう
バラバラのクニの集合体ならば、九州だろう
権威と権力が分立していたのなら、権威としての巫女の卑弥呼が畿内のどこかにおり、権力者たるオオキミが九州、
あるいはその逆ということも考えられる
>>127
オオキミなどまだいない。
現に後に天皇と呼ばれるようになるイクメイリビコやミマキイリビコが、邪馬臺国の官や副官として扱われている
オオキミではなく、~キミや~ミミ(投馬国)や~ヒコの同盟組織が女王国である。
そして女王卑弥呼が居た場所は纏向だ >>126
前身とか妄想が根拠で言われても困る
そして太宰府が本州各国を検察して、本州各国が太宰府を恐れたなんて聞いたことない 古代国家においても、鎌倉幕府(権力)の決定を、京都御所(権威)が国書にして、元の皇帝に知らせる、ということは起きうる
王は必ず一人で権威と権力は一体なのが常識だった元は、京都と鎌倉のどちらが王なのかわからなかったのだ。
いや女王って書き方は適切じゃないな
初代倭国【斎王】卑弥呼ってところか >>128
三国志に、イクメイリビコやミマキイリビコの名はあったっけ?
いずれにせよ、オオキミがいないのだから、まだ統一国家ではなく、クニの集合体なのだ。
九州だよ >>73
これはそうだよね
結局中国語の発音が重要
ヤマトからこじつけてヤマタイコクと読むのは都合が良すぎる
>>130
だから吉備太宰とか周防総領とか伊予総領とかが各地に置かれてるんだって。そりゃ九州の太宰府だけで各地監視できるわけ無いじゃん
>>133
なんで九州なんだよ
九州だけの超小国、三韓に攻められたらたちまち吹けば飛ぶような超小国であれば親魏大月氏王(クシャーナ)に比肩する親魏倭王など貰えん 欧米が日本を呼ぶときもジパングとかジャパンとかヤーパンとか
そう考えると>>73にあるようにジャマ一~とかジィマー~と呼ばれていた可能性が高いよ 卑弥呼の名で使者を帯方郡に送った年代も重要だ
公孫氏の燕が魏に討伐され、何十年ぶりかで中原王朝の出張所たる帯方郡が復活した年に送ったのだ
使者を送る理由は、新体制への恭順(冊封される)だろう
そんなに機敏に大陸の政治変動に対応する、対応する必要があったのは、誰なのか
邪馬台国の国力が充実したから帯方に使者を送ったのではない
半島に帯方(中原王朝の出張所)が出現したから、送らねばならなかったのだ 女王国の北の伊都国てのは畿内派の人はどこにあることになってんの?
>>138
ジャマ、と呼ばれていただろうが
上代の日本語には拗音がないのでジャマという地名であったわけではない
倭人はアマかヤマかラマだか知らんが拗音無しのつもりで発音していたであろう >>137
俺は逆だと思う
吹けば飛ぶようなクニだから、貰いたいしし、与えるのだ
大国はそんなものいらんでしょう
臣下になど下りたくない >>136
伊都国の一大率が本州各国を検察できるわけもなく
本州各国が遠くにすぎる伊都国の一大率を恐れるわけもないな 畿内に大きな権力が誕生していたとして、半島に帯方郡が復活したから即座に臣下の礼をとりに行くってあるかな。
ないと思うので、使者を急ぎ送ったのは九州勢だと思う。
>>141
琉球語で「北」は”にし”と言うんだが、これは日本語の”西”と語源は同じく「去にし(いにし)」に由来している。
つまり古い形の日琉祖語では西と北が混同される。
倭人からの伝聞で間違えた可能性があるわけだね
実際後世の使節は東へ東へ進んで
邪靡堆。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者に到達しているからね[隋書]
>>143
当時のクシャーナ朝を吹けば飛ばせる国ってどこ?
>>145
うん。伊都国の一大率を恐れていたのは九州の諸国だけだろうね
中国地方には吉備の一大率とかが居たのだろう。使節が出向いてるのは伊都国までだから伊都国の一大率しか記載していないだけだね なんの証拠もない九州説唱えてるやつ多すぎてビビるw
>>150
ほんとこれ
何度も言うけど日本で呉の年号が記された銅鏡が出土しているのは、安倉高塚古墳(兵庫)と鳥居原狐塚古墳(山梨)の2例のみ
邪馬臺国が「魏」から支援されていたならば
邪馬臺国と敵対する狗奴国は当然、魏と対立関係にある「呉」と親交を深めようとしただろうし当然応じられたであろう。
【九州から呉の年号が記された銅鏡が出土していない時点で九州説はズタボロ】
同時に鳥居原狐塚古墳に近い遠江の久奴が狗奴国に比定され、邪馬臺国畿内説が更に強化される
九州説の方は、貴方達が狗奴国だと考えている呉の元号が刻まれた銅鏡見つけてから出直してきてください。
畿内説は狗奴国に比定する「遠江の久怒」付近から赤烏元年鏡が発見されているので物証万全です。しかも赤烏元年(238年)の紀年銘なので魏志倭人伝にドンピシャ
物証すらない九州説は相手になりません >>147
伊都国から南に南に行ったら邪馬臺国があるわけだが
どう西に聞き間違えるんだ? 58 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 334c-7uza) 2022/10/04(火) 06:02:26.23 ID:D5xGAPVh0
九州から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が
あの曹操の墓に埋葬された副葬品と同型って時点で九州やろ
これ否定すると「当時の中国の皇帝から王に下賜される鏡をもらった邪馬台国以外の国」が存在したことになる
もちろんそんな国は魏志倭人伝には記されてない
あえて記さない意味もない 211 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW ffac-1pLE) sage 2022/10/04(火) 20:58:30.70 ID:0xpzGSwD0
>>9
出た時点ではそうだったが、発掘を進めた現在ではほぼ白旗が上がっている
関川と坂は纏向の発掘をしてきた当事者
関川尚功(奈良県橿原考古学研究所)「纏向遺跡は邪馬台国ではない。北部九州説が正しい」
関川 尚功 『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』2020/9/20
坂 靖 『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』2020/2/5
「弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない」 この呉の年号てのを強調するのは熊本に年号はない呉の銅鏡があるからなんだよね >>148
東は、陸路で大軍を送れる漢やその後裔の魏、西はパルティアやその後裔、北は匈奴
東西北すべてと対立するよりは、遠方の大国に下っておくのも一つの防衛
どころで大月氏とクシャーナ朝は同種ではないよ。
>>152
「投馬国からニシ(西の意)へ水行20日行けば(倭人は里数を知らず、ただ日を以て計るのみ[隋書])ここ筑紫島(九州)に到着します~」
と倭人が説明する。
中国人はニシが倭語で北を意味する語(琉球語では今もニシで北)と言う事を知っていたので、「ならば逆に不弥国から南へ進めば投馬国に到着するのか」と解し記載したと考えれば自然だな。
隋書では中国人使節はちゃんと東へ進んでいるし、投馬からいきなり距離が里数ではなく日数で表記されることを考慮するとこれが一番正しい むしろ畿内説の人は魏との交渉の物証を出してくださいてブーメランなんよね >>159
なんで投馬国からニシなんだよ?
百歩譲って「ここから東に行けば投馬国〜」というならまだわからんでもないが
倭人はそんな頭おかしい表現の仕方をしてた根拠でもあんのか? 西の大月氏や北の匈奴の例からもわかるのは、漢や魏に冊封されて王の称号を賜るという行為は、
ありがたく光栄な名誉ではないんだよ。
大国であると認められた証でもない。
怖いから臣下に下る。
中原の帝国は、冊封国には攻め込まないからな。
>>156
それ作られたの5世紀って分かってるし論外でしょ
なんで魏志倭人伝の時代と関係あるの?論ずるに値しないんだけど
どういう意味?
>>161
伊都国には一大率がいるからでしょ
一大率は都から派遣されているのだ
中国の使者が話すのは公的機関の人間であってそこらへんの船頭ではないのですよ
都から来た彼らは、自分たちが筑紫島にきた道程を話したのです >>163
んじゃこれも関係ないよね?
>>81
>>136
>>157
人に指摘するときは、先に自分で調べてからにしてくださいね
中国はクシャーナどころかキダーラ朝まで大月氏と呼んでいるのですよ 漢帝国は、長江流域の諸国にも王の称号を出して支配を確定している。
倭国にも出している。
当然に後裔の魏も同じことをする。
名誉ではない。 >>166
呼んでいたとしても、月氏の認識は違うだろ。
日本列島住人の認識がどうあれ、倭国と呼ばれるのと同じ。 これ感心したわ正しいと思う
邪馬台国もそうだし全国各地の地名暴かれてる。普通に機内だわ
https://togetter.com/li/1648850
>>168
呼んでいたとしても、とか話逸らさないで欲しいのだけど。
君は知らなかっただけでしょ?
知らなかったから親魏大月氏王(クシャーナ)と表記したことにわざわざ突っかかってきたと >>164
一大率は伊都国に常駐してる役所なのに「投馬国からここまで〜」なんて言わないだろ
邪馬臺国から派遣されてきたというような役所でもなかろ >>170
突っかかったと取られるなら、それはすまなかった。
紀元前後の大陸興亡史にあまり詳しくない人が、畿内説のチェリーピッカーをしていると思ったので。
三国志の倭人条だけでなく、西側の記述も読んだうえで、なぜ畿内説なのか改めて興味がわいた。 ほんの千数百年前の出来事さえ中国の記録に頼らないと分からないって情けない話だ >>170
さらに、大陸興亡史に詳しいなら、なぜ公孫滅亡と邪馬台国朝貢との関連に注目しないのかと。 日本列島内の遺跡の状況や記紀と、三国志の倭人条のみを引き比べて、推測できることと、
アジア史全体のなかで邪馬台国朝貢を位置づけたときの推測できることは、まったく違う。 ジャップって邪馬台国を自分らの祖先と思ってるけどたぶん彼らは別民族だよ >>173
ドイツやフランスやイギリスは他国の記録に頼らずにどの辺まで遡れるんだろ
>>172
ん?大陸衰亡史に詳しくないのは君の方でしょ?
クシャーナの話してるのに>>157で北は匈奴なんて書いちゃうんだから。
すみませんクシャーナが大月氏と呼ばれていたなんて知りませんでした。と一言言えばそれで済むのに
>>171
役人は派遣されてくるでしょう
監視するためなのに現地人使うわけ?違うよな?
>>173
弥生時代中期には文字が書かれてた!硯に墨が!とかいうの
結局マジックペンだったというねww >>179
鎌倉武士団は京都で組織されて派遣されてくるみたいな話に聞こえるが
伊都国の一大率は邪馬臺国で組織されてえっちらおっちら派遣されてくるなんてどっから出てきたんだろう
>>181
兵士が、中国から来た使者に対応したと思ってるのか。そんな無礼あり得るわけないでしょうが
中央から派遣された外交担当の文官か、高等武官が対応したに決まっている >>182
一大率が中国からの使節に対応したと思ってたのかよ
そりゃあ話が合わないわけだわ 倭人条のみに注目すると、邪馬台国は魏に認められた大国と映る。
三国志全体、つまり東アジア史全体に位置づけると、魏の膨張に危機感をもった地域の勢力と映る。
畿内に強力な国があったとして、帯方郡の復活と同時に使者を送って恭順するような焦り方をするだろうか。
焦るのは伊都国(帯方郡の役人の宿泊施設あり)から攻め込まれる可能性がある地域の勢力だ。
このとき、畿内勢力がすでに古代国家を完成しており、伊都国を支配していたなら、即座に恭順しただろう。
あるいは、三国志の記述通りにバラバラのクニの集合体で、どこかに権威としての女王を共立する状態であれば、女王名で九州勢が使者を出したのではなかろうか。
邪馬台国の位置の特定は、当時の各地域の国力に依存せず、古代国家としての統一が完成していたか否かにかかっているとするのは、この理由。 中原の王朝の周辺地域は、中原王朝の膨張とともに緊張し、朝貢で恭順姿勢をみせつつ地域の統一を急ぎ、
中原王朝の分裂や引きこもり政策への転換とともに、周辺地域は冊封体制から抜け出し、地域内部の権力闘争に集中する
ときに周辺国が力をつけて中原に攻め込むこともあるが、支配が長続きしないか、支配勢力の方が中華化していく。
この繰り返し。
日本列島も例外ではない。
畿内の古代国家が西日本統一を果たして、魏に朝貢したのではない。
魏が膨張を開始したから、日本列島の各勢力が急ぎ統一国家建設に向かった。
>>183
したと思っているよ
中央直属の組織は九州にこれしかないっぽいもの
>>184
まあ、確かに
私は、女王国とはデロス同盟みたいなものだと思ってるんですよね
なぜデロス同盟なのか?後に天皇扱いされるっぽい人が邪馬臺国に「官」扱いされてるから
邪馬臺国4官
①官:伊支馬[イキマ(生駒)]
↓
垂仁天皇[イクメイリビコ(活目入彦)]
②次官:彌馬升[ミマソ(御間襲)]
↓
[謎。対応無し]
③次官:弥馬獲支[ミマワキ(御間城)]
↓
崇神天皇[ミマキイリビコ(御間城入彦)]
④次官:奴佳鞮[ヌカテ]
↓
[謎。対応無し]
邪馬臺国に官扱い×
邪馬臺国の官扱い◎ 唐にビビって国号ロンダしただけだろ
新唐書じゃ何だよこいつら同じ国じゃーねーかとしれてるし
後に天皇と呼ばれる崇神や垂仁が、投馬の彌彌那利や彌彌、奴国の兕馬觚や卑奴母離(ヒナモリ。~モリなので、守る人。)と同じ「官」扱いされている事から分かること
>>114では便宜上大王扱いしたけど実際の所、もちろん戸数約7万の邪馬臺国が最強ではあろうが女王国は大王(おおきみ)がいないという体裁とってたのだろうな。
つまりデロス同盟みたいなものだ。
>>186
統一国家とまでは言わないが、女王国同盟が結成された理由にそういう理由が関わってたりするかもね
2世紀後半にも、中国だけでなく韓や濊が強勢になって云々という記事がある。
九州から畿内まで含めての巨大な同盟諸国になったのは魏の膨張のせいか
マウリヤ朝とか、デロス同盟みたいな感じだね
極めて有意義な、学ぶことの多いレスバになりました 魏の公孫討伐と帯方郡の復活、そして朝鮮半島南部諸国が次々と帯方に使者を遣わし恭順したとの報で、
九州勢はさそかし肝が冷え、急ぎ使者を出しただろう。
後漢の衰えと公孫半独立の間、日本列島の各勢力は中原の目を気にせず半島南部と行き来できたが、そんな時代が終わり、
朝鮮南部が中原体制に組み込まれたとあっては、北九州は対中原の最前線になってしまう。
三国志によれば、帯方郡による半島支配が復活したとき、日本列島30余のクニの集合体の共立女王は卑弥呼であるが、それぞれが独自に帯方と接触している。
それぞれが独自接触ということは、倭国の最大勢力は畿内であっただろうが、まだ統一国家は完成していなかたっということ。
女王が兵力、つまり権力を掌握していたかどうかもわからない。権威であって権力ではなかったのかもしれない。
わかることは、中原との文書のやり取りは女王名でやっていることのみ。女王がどこにいたかもわからない。
女王の名による最初の魏との接触(238年)から5年後、女王名で狗奴国との戦いの助力を魏に願う使者を出す。
統一国家建設に向けた動乱が始まったのではないか
女王の死(248年)後にも動乱が起きたと三国志にある。
動乱後に
日本書紀では百襲姫の死が記載された記事の後に、崇神天皇が四道将軍を各地に派遣する話が来る 倭国って名前すら中国さんサイドからつけた蔑称なんだよな
卑弥呼も >>198
>>197
そこが重要だと俺も思う。
実質的な初代オオキミである10代崇神は、完成された統一国家を引き継いではいない。
そうではなく、彼が諸国統一に乗り出したオオキミだ。
途中で切れてしまった。
古代国家としての倭国の統一が完成するのは、台与の即位あたりではないだろうか。
いいたいのは、倭国統一が成立して魏に朝貢したのではなく、魏の膨張と朝貢要求が倭国統一の契機であったろうこと。
卑弥呼と台与の共立両女王は、権力者として実権を握っていた限らないこと。
記紀が示唆するようにヒメヒコ制だったかもしれない。
ヒメが鬼道をもって神の声を聞き、神の声を実行するヒコが軍事を担当する体制だったかもしれない。
以上の推論と畿内遺跡の年代分析とあわせて、記紀の崇神はヒメである台与のヒコだったのではないか。
ヒメとヒコが同居している必要はないし、同地域に住む必要もない。
女王と王の婚姻によって統一を成立させるも、妻と夫が互いに遠方の領地にわかれて統治する事例は中央アジアにいくらでもある。
いきなり結論だが、九州王朝と畿内王朝を前提し、どちらが卑弥呼だとか、どちらが先でどちらが一方を征服したなどと議論することには意味がない。
血統による継承がまだ確立しておらず、つまり王朝は存在しない。
権威と権力の一体化も成立していない。
ヒメである卑弥呼はどこかにおり、九州勢が急ぎ帯方に卑弥呼名で帯方に使者を出した。
そして、動乱後に統一を成しとげた崇神がヒメである台与のヒコとなって、権威と一体化した。
王朝の交代や王朝間の激突ではない。
王朝を前提してしまうから、九州説と畿内説が対立する。
九州王朝も畿内王朝も存在しない。
卑弥呼名による朝貢は、古代国家誕生と王朝誕生前夜の出来事だ。 >>47
「日本」を名乗るのと「倭」を嫌うのはどちらか一つじゃなく普通に両方だろ
「倭」の文字はチビ、ブサイク、背が曲がってるなどのマイナスの意味があるし
先進国から倭に来た百済人が黙ってるはずない 古事記 中国人向けに書かれた
日本書紀 日本人向けに書かれた
呉竹の節世 和歌(諷刺)文化が定着した天武系王朝
聖 日知、捏造されて無い歴史、日=妃=姫=比を知る者
全力で日本の風刺書無視して歴史(笑)を語られてもねwww
>>203
へー
>古事記 中国人向けに書かれた
日本書紀 日本人向けに書かれた
それで以下の質問に答えられますか?
①古事記序文によれば勅撰であり、天皇に奏上された筈の古事記が、正史の「日本書紀」にも「続日本紀」にも一切登場しない
②勅撰を自称している古事記が、無官の太安万侶一人で編纂されている
③古事記を暗誦した稗田阿礼は「日本書紀」にも「続日本紀」にも登場しない謎の人物
④性質の異なる、しかも内容も違う二つの史書が天皇(天武)の勅命でそれぞれ並行して編纂されるという不可解さ
⑤日本書紀では崇峻天皇が蘇我に暗殺されるが、古事記では暗殺されない。
日本書紀では厩戸皇子(聖徳太子)の功績が強調されるが古事記では一行しか登場しない。
⑥本当に太安萬侶が文学性豊かな『古事記』の撰録者であれば全4500種が集まった『万葉集』の歌の中に一首ぐらい彼の歌があって当然だが、無い。
⑦古事記ではヤマト→倭と表記。日本書紀ではヤマト→日本と表記。
⑧天皇の没年齢が古事記と日本書紀で全く違う(つまり日本書紀の編者は先にできた筈の古事記を意に介していない?)
⑨古事記が他の書物に引用されるのは812年[弘仁私記序]が初めて。謎の100年のブランク。
⑩江戸時代まで古事記は偽書扱いないしは軽視されていた。
古事記ってこんな感じだと思いますよ
【古事記の辿った歴史】
○[真]西暦620年
蘇我馬子らが「天皇記(大王記)」を編纂する。
○[真]西暦649年
蘇我倉山田石川麻呂さんが誅殺される。
重要な「好書=おそらく天皇記」を遺す。
●[偽]西暦712年
稗田阿礼が暗誦、太安万侶が編纂し「古事記」が完成。と古事記の序文に書かれている。が客観的な証拠なし。
○[真]西暦800年前後
日本書紀講師の多人長さん、講義に使える参考書を探してる間に「天皇記」を発見
( ゚д゚)ハッ!
正史と全く違う記述に仰天&豊かな神話に感嘆し、自家の権威付けのため利用してやろうと考え先祖の太安万侶を編者とした序文を追加。
藤原氏が権勢を振るう世情を鑑み&不敬を恐れ、ある程度正史と整合性取れるように修正。
○[真]西暦812年
「古事記」の存在が初めて他文献(弘仁私記序:多人長さんが講義)に記される。
《紆余曲折、秘書扱いで近衛家書庫に封じられたり偽書扱いされたりでずっと不遇...》
○[真]西暦1798年
国学者本居宣長が「古事記伝」を完成させる。
彼が古事記を称揚した事により評価が一変し、史上初めて日本書紀と並び評される神典として祭り上げられるようになる!!
古事記は序文で天武天皇が編纂命じたとか自称してるけど、だとしたら推古天皇までしか歴史載ってないのおかしい
明らかに嘘
ならば元ネタは何か?そう、失われた筈の『天皇記』
これが原古事記になった
原古事記は推古天皇の時代に作られた天皇記
だから歴史も推古朝まで 明確に日本の君主は女と書いてあんのに、全部無視しようとしてファンタジー主張されましてもwww
しかも中国の本、とか言いながら統一王朝じゃないうえに交易に来た人の自称の位置しか載せてないしな。
倭って文字読めんの?
委ねる 人 なんだけど、上位者以外が付けない漢字だぞ。 >>46
その過程で当然権力者も相当入れ替わっているはずだけども
建国神話なるもので偽装してごまかしてるんだよな 誤魔化してるんじゃないぞ
執筆した時点で分からなくなってただけだ コヤッキーさんの動画見れば分かるけど倭国と日本は全くの別物だよ
日本人が知らない消された歴史だからしっかり調べたほうがいい 倭人は嘘つきで信用できない
この文言から倭人と日本人が違うか判断したらいいのでは?w 倭が朝鮮南部と北九州
日本は近畿以西
倭が日本はを併合して日本の名を継いだで >>210
マジでわからなかったから神功皇后という人物を創作してわざわざ注で魏志倭人伝の事を書いたのだろうな
日本書紀成立の時点で500年も前の事だからわからなくて当然だろう 常識的に考えて口伝だけで数百年前の情報なんてほぼ残ってないだろう
つまり記紀が編纂された時代から100年より前はかなり怪しい
ましてや卑弥呼の時代なんて >>217
台湾は大和ん(たいわの)というのもあるな >>1
413年…倭王・讃、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年…倭王・讃、宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝)
↓
高句麗の王子が扶桑に侵略して大和朝廷を建国して先住民を奴婢、蝦夷、俘囚、穢 多、非人に落として…
うっ…頭が…
扶桑は関東一帯に房や総などの地名として残っている
富士山は扶桑の山
藤原は扶桑の人
藤原不比等の周囲に毛野国の毛野氏がいる
扶桑→フーサング→チーパング→ジッポン→ニッポン→日本 そんな古くから中国と倭が交流してたのに
文字を学んだり記録に全く残さないなんてあり得るのだろうか? 令和の日本人がコピー機捨てれないように
中々新しい物を取り入れる事が出来なかったんだろう 東遷説には分家説しかないのかなあ
邪馬台国体制の行政システムが当時の日本列島では優れていたから、そこだけ移植したという可能性もあると思う
分家なら名誉なことなんだから、それこそ美化するぐらいして後世に言い伝えをのこすよ >>34
>>35
いちおう「日本」と名乗り始めた経緯の話だと思う
「倭国」と中国側に認識されていた時代があったのをある時わが国の(と言っていいのか)使節が「日本」だと名乗った >>224
日出る国だから「日」は解るんだが
「本」はいったいどこから?どういう意味で? >>225
そこはわからない
「日」の下にあるから「本」の字を当てたのかな 邪馬台国は当時の日本列島では突出して先進的だったと思う
同時に、これ言っちゃ終わりかもしれないけど、その特に都の人間は卑弥呼の死後すくなくとも百数十年間は卑弥呼時代を乗り越えられてないと思う
その土地なことがそんなに名誉なことなんだろうか >>225
もと 母徒 母人
ほん 母の 母ん 藩 >>228
本物(ほんもの) のほんか
つまり日出るの本(ほん)ものの※正当な国という意味でつけたのかもな
逆に言うと本物と言わなければいけないなにかしらの別の勢力が他に存在したのかもな
日本列島の中に >>24
関係ないけど「私とあなたの国」って意味だろうな 邪馬台国はどう考えてもヤマトと読むし
大和はどう考えても和国からきてる
日本=大和=倭国=邪馬台国 >>229
女神崇拝の方が正しいから『ほんもの』って言葉が出来てる。
ソースは和歌や古今集の序文や君が代。
wa → va → ba → ha → pa
wa(吾) → wo(我)
wa → wo
va → vo
ba → bo
ha → ho → fo
pa → po
倭ん → 王 → von → fon >>225
日の出る本の国じゃダメなのか?中華から見た関係だからやはり中華にドップリはドップリなんだろうけどさ。 >>225
元々は日下と書いたんじゃないかって説があったような
ただ日下と書いてなぜ「くさか」と読むのかの方はわからない >>235
じゃあ「ヒノモトコク」て最初は呼んでいたのかな?
いつからニホンまたはニッポンて呼ぶようになったのだろうか? 日下(くさか)の元となった地名があってそれが草香
生駒山西麓の一帯がそう呼ばれてた
草香の東に位置する生駒山から日の昇る様子から
日下を同じ読みをするようになったとされてる
https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d7049319f683d402049b9a00a788b7f1
古事記や万葉集さらには風土記にも記述がみられる非常に古くからの読み
日本(日下)と倭(和)の統一呼称ヤマトから
平安時代にニホン等に変わったのは先祖返りかもしれない 今でもワ風ってよく使うやんけ 倭じゃなくていちびって和を使ってるけど倭人共が ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています