のぼうの城の城主が
馬上から謙信に謁見して
謙信の家臣らに咎められた上に
嫁を謙信に持ってかれた城主なんだろ?
大河ドラマ風林火山で見た
>>709
甲斐武田にコテンパンにやられてただろ三河
関ヶ原の時期だって上田の真田家に酒井榊󠄀原ら三河四天王が2人いてもダメだったし >>783
そう商業で金を稼いだ。青苧も海で若狭まで運んでそこから鯖街道通り京都へ。また堅田へもっていけば琵琶湖の舟運で堺までもっていけた。 >>785
成田さんは藤原秀郷の子孫の家で、源義家にも馬上から挨拶することを許された関東屈指の名門だからそれを知らんかった謙信側がダメだ。 >>634
敦賀か小浜まで船でいきそこから朽木谷や鯖街道通れば行ける。朝倉とは伝統的に対加賀の一向宗で関係良好だったのと青苧交易でお互いウィンウィンな関係なので通行OK、近江の六角とも関係良好だったのでこれまた通行問題なし
>>609
越後兵となると三千人でも馬鹿にできない。
>>781
大義名分があると強い。信長も義昭の御教書に加えて正親町天皇の命令というカタチで上洛してる。 0792番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウー Sa71-ahWI)2022/12/30(金) 18:25:30.82ID:D6HkavUka
>>790
名門でも他家の庇護を頼るクソ雑魚がそんなことで憤怒してる場合じゃないだろ最後は結局没落するし
戦国は「名門」の無能だらけだわ >>792
その名門がブランドだからバカに出来ない。
古河公方ってのをずっと崇めてたでしょう関東は。
北条さえそれを維持した 成田長泰が下馬しなかったエピソードは限りなく創作(一次資料がない)に近い
そもそも戦国のエピソードのほとんどが確証がない
0795番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 2b97-i9BF)2022/12/30(金) 19:44:14.18ID:w+YfvBu90
甲斐も越後も家臣団がまとまってない
ついでに言うと寄大名制の佐竹もそう
0796番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スッップ Sdaf-l/zF)2022/12/30(金) 19:46:25.33ID:87eUZpAUd
そもそも天下を取るという考え方が出来ない雑魚だよ
0798番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW e98f-p7sv)2022/12/30(金) 19:52:37.45ID:B8wFrrMd0
そもそもサイタマのあそこらの城と領主達は玄関マットみたいなモンで強い奴に靡く事の繰り返しなんで下馬し忘れもあるだろうてw
自分なんか関東管領に並ぶ役職につけてないし
あの時代にいても同じ業績残せたとは思えない
>>798
春になったら謙信が略奪しに来る地域って普通に地獄だわ 0802番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW af8f-1o4y)2022/12/30(金) 20:49:23.53ID:bIYrlvEo0
>>800
簒奪だろ関東管領職なんてさ
そんな器量も無いだろお前w 0803番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 7314-dxp0)2022/12/30(金) 20:53:11.14ID:kaCXym350
憎たらしい北条を滅ぼせなかった時点で天下統一を目指してなかったは言い訳にしかならないからなぁ
0805番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ブーイモ MMb3-/5Bn)2022/12/30(金) 22:19:04.60ID:rFGHRDgEM
京都住んでるんだが
一度は新潟行きたいと思ってはいるんだが
旅の計画立てる度に遠すぎて他のところにしてしまって
まだ行ったことないわ
今回の旅行支援でも結局行かなかった
0807番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ササクッテロロ Spbb-BXcI)2022/12/31(土) 06:56:28.79ID:WFaADjZ4p
そんな思想が無かっただろ
0808番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 63af-m/Cz)2022/12/31(土) 07:23:58.67ID:DtFZ9jIt0
まあただの上洛競争と守護大名にのし上がりたいってのが戦国中盤までのトピックだから
管領になったら目標達成だわな
上洛行動は知らんが結構消極的だったね
0810番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スッププ Sdba-hTMT)2022/12/31(土) 09:36:57.86ID:2osJ5LKYd
>>801
だから一門と家中に管領派と後北条派の二つの派閥を作って両天秤で生き残りを計るんだろうな
太田氏なんかモロソレだわな >>810
上杉自体が北条派の上杉景虎入れたのはなんなんだろうな >>811
おそらく関東管領を上杉景虎に継がせる予定だったんじゃ無いの?
古河公方の流れで北条氏康も関東管領みたいな感じだったから
景勝はそのまま長尾氏のままで
憲政と謙信みたいな関係に まあまず上杉景虎を越後に入れたのは北条側からの外交要請だから仕方ないことだけど
その後も北条派を温存したのは上杉謙信の意向のようだな
で御館の乱で上杉景勝派と北条派で分断して最悪の形になったのは事故のような形のようだ
ちょうど今記事見て学習した
>>811
御館の乱で景虎についたのが古志長尾など古参のことから、上田長尾出身の景勝に対して思うところあったんでは >>808
鉄砲が普及して戦がああも変わるとは思わなかったんだろう
東国は遅れて普及したし
日本で鉄砲で大きな戦おこったのは三好長慶の晩年の頃だし >>815
謙信は飛び道具として弓を重視したけど鉄砲もイメージより使っているよ
ID:ofm6lhTy0
ID:+INaOOHN0NIKU
など有識者に聞いたら詳細を知ってるのではないかな >>108
戦前の新潟米はクソ不味い米の代名詞
新潟が米どころになったのはコシヒカリができてから >>1
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。
●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。 ●井沢元彦『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも織田信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、畿内の比叡山の荘園(山門料)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図りこれを朝廷に訴え、朝廷は山門領の返還を求める。しかし信長側はこれを無視し占領を続ける。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本は物流の要衝として商業が盛んで僧侶以外の町民も多く住んでいたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、元は信長による大坂への侵略が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の軍事費(矢銭)も支払い平和を望んでいた。(ちなみに同様の矢銭を拒否した尼崎の街は織田軍に焼き討ちされている)
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。
0823番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウー Sac7-V2Tn)2022/12/31(土) 11:04:09.06ID:e4KbX7xha
鉄砲隊の率はさほど差が無いといわれている
武田は早くから鉄砲隊の導入をしている
鉄砲の運用に関しては弾薬の物量差で海外貿易の恩恵に預かれる国が有利になっている
0824番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 338f-IITA)2022/12/31(土) 12:54:19.40ID:xGS5YAHM0
そもそも残ってる記録がないのもあるが織田家も含めほとんどの戦国大名は兵種別の動員なんてかけてないからな
織田陣営で細かい兵種の指定や陣形に対する指示が書かれた最初の陣立書が出てくるのは小牧長久手の秀吉から
それまでは陣形なんて概念も兵種別に効率よく運営するなんて発想はなく家臣の各家毎に適当に動員してバラバラに戦ってた
ただそんな時代に上杉家軍役帳と甲州軍艦と小田原衆所領役帳にははっきりと兵種の指定があって
この3家だけは兵種ごとに明確に役割を定めて運営してて他の大名家がまだ各家ごとにバラバラでやってた合戦を
一つの軍勢としてまとめてた可能性が高いのがわかってる
槍衾なんてのも村上義清が初めてやって武田を撃退したんだけどその後上杉家に亡命して重臣になってるので
その村上義清のノウハウを取り入れたのが謙信って乃至先生は言ってるな
まあ確実に当時の時代に先進性があったのが上杉家と北条家と武田家で
後にそれを参考にした陣立書が日本中に広まったのでこの3家が当時他より合戦に強かった根拠はある
徳川家康なんて石川数正出奔後に軍制を武田流に改めてるくらいだしな
>>824
軍制に関しては東国が当時の最先端だったってのは最近の新書なんかでもちょいちょい見掛けるな
だから甲越相の三国が突出して強くなり結果的に東国三国志の主役になったという
先進的なイメージで語られがちの織田家はむしろ万事において保守的で
だからこそ三方ヶ原や手取川では武田上杉にそれぞれボコられたと… 0826番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 338f-IITA)2022/12/31(土) 13:15:34.99ID:xGS5YAHM0
>>825
信長はあくまで義昭から天下を委任されたって形式に拘ってて
義昭も殺すでもなく征夷大将軍から下ろすわけでもなく追放して
その後義昭は鞆幕府なんて呼ばれるくらい備後で将軍権力使った反織田活動されてたのに
ほとんど何も手を打ってないしこの辺りかなり詰めも甘いんだよな 畿内を中心とした西国なんかは
流動人口が多く経済も発展していて
村落共同体を統制して百姓を動員するよりも
雑兵を雇う方が安価で容易だったという事情があって
それが織田家の兵農分離という誤解に繋がったんやろね
支配地域の石高では70万石程度だった三好一門が5万を超える軍勢を動員できたのは
畿内と瀬戸内の流通を支配して莫大な収入があったのと
全国からの物資が集積する堺を実質的に支配して
兵糧も武器も潤沢に調達することができたから
石高は戦国大名の実力の指標にはならない
信長って正義というか大義みたいなもんに拘る人だからそういう事するのは自分の中の正義に反したんだろうな
0830番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スッププ Sdba-hTMT)2022/12/31(土) 14:05:29.25ID:CVMMzmbEd
鉄砲に関しては硝石の保有量とか購買力(銭)もあるから何とも
市場である堺をその手の内に入れてる織田と、そこから何人かの商人を介して入手しなけりゃならない東国大名だと価格も全然違うだろうし
織田の経済力が桁外れなのにさらに織田より高い硝石仕入れなきゃならんとか嫌になるだろう多分
あと一般的に兵士としての質が高いのは食い詰めもの雑兵よりも村落からの動員兵
雑兵は派遣枠で村落からの動員兵は正社員枠みたいなもん
織田の軍勢が数の割に弱いってのはこういう事情もある
織田信長なんかはゲリラ狩り専門の殺し屋集団を雇ってたので
これも兵農分離と勘違いされたかも
>>830
鉄砲については
>>824参照。織田が鉄砲を特別うまく運用していたわけではない。
あと熟練者なら鉄砲より弓矢のほうが威力は強い。 0833番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 1a8c-PJ+3)2022/12/31(土) 15:08:43.90ID:MbHswVDJ0
関東ばっかに拘ってたっていうけど
越後から軍隊が移動できるルートがあって現実的に侵攻出来て行く価値があるエリアとなると
上杉謙信から見ると関東くらいしかなかったってのが正解だと思うよ
上杉謙信側から見ると蓋されてるんだから
上杉軍の鉄砲保有数は500丁と言う話があるからな
ライバルの武田の方が鉄砲保有数では圧倒的に上だったみたいよ
東国で鉄砲の普及が遅れたのは間違いないが北条氏政の辺りでは長篠の戦いとほぼ同数の鉄砲の動員がされているから意外と普及されたからはかなり積極的だったと思われるよ
長篠の戦いも武田の鉄砲隊が先鋒隊だったみたいだし