【速報】上杉謙信「戦闘最強です。170万国の大大名です。京から近いです。関東管領の名門です」→こいつが天下統一できなかった理由 [661852521]
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京から近いかな…
当時は電車で何時間くらいかかってたの? みんながみんな天下統一とかしたかったわけじゃないっていう 家臣が言うこと聞かないから
景勝時代の家臣団はまとまりいいのに そもそも天下を取る気が無かったよね
足利の門弟止まりで満足 >>1
ニュー速のお前らに『戦国自衛隊』4Kデジタル修復 Ultra HD Blu-ray【HDR版】スタッフからのお知らせ
https://youtu.be/vpuAR4GcbIA 武田とかいうクソゴミバカうんちをいつまでたっても越えられなかったから 長尾景虎だったのが上杉家の名跡貰って関東管領を称するようになったけど、
実際は北条に跳ね返され続けて名ばかり関東管領www 自分の会社で見ても
仕事出来るけど出世欲がまるでない人
っておるから 信玄も謙信も早死にしたからな
まあ信長も40台か
秀吉と家康があの時代にしては長生きしすぎなんだよ 戦闘最強は信長の野望でしか知らない
武田信玄は山梨だったり治水だったり名君っぽいけど あいつ近衛とかに何度せびられても、逆方向の関東にいっちゃうし 好きじゃないからあんま知らんけど、戦国大名ってまず粛清祭りとかやって家中の権力を統合することが第一歩だけど謙信って結構家中でグダグダやり続けてなかったっけ
まだ大名としての一歩っすら踏み出せてなかったんだよ 早く死んだからでしょ
しつこく健康に気を使って長生きした徳川様 それにしても家来たちが精強最強すぎだろ しかも機動力に富んでいる 天下統一しようとしてないし関東管領に拘りすぎたからでしょ
ちょっと野心が出てきたころに脳梗塞で死んだ >>42
信玄父の信虎は80まで長生きしたけどね、信玄より後にしんでいるし。戦国大名って激務だから
体によくないのかもな 毎年のように北信や北関東に略奪しに来る山賊野郎なのに
何故か「正義の人」みたいな扱いになっとる謎の人 あの山脈を超えて長距離移動をしつつ戦闘まで勝利する上杉軍団すげえ 関東管領の名門ってうーん・・・
そもそも天下統一しようとしていたのは信長とか一部で他は自領が大事なだけだろ 細川政元
管領です、聡明です、女色にふけりません、超能力者です
←こいつが天下取れなかった理由 170万石って言っても謙信自身が好きにできる禄なんてそのうち何割あることやら 信玄や謙信の名を見ると山本正之の川中島ブルースが浮かんで笑えてくる 朝倉もだったけど12月前に帰らないといけないってのはすげえハンデよな >>56
信虎は調べると面白い軌跡辿ってるよね
ドラマを作れるレベルだよ
>>30
んなわなけねぇ
東京は江戸の時代から人口100万超だ >>27
近衛前久と組んで関東平定後にその大兵力で上洛して乱世を終わらせる計画だった
最初で躓いて終わったけど 家臣が言うこと聞かずに嫌気指して家出までしたのが取れるわけないやん >>63
政権はとってるじゃん
むしろこいつが女いなかったせいで政権崩壊した 戦国大名って別に天下統一が目的じゃなくて
自分とこが食っていけるようにするのが目的
その為に隣国と戦争して領地は奪うが >>69
本当に強くて勝てるんなら帰らなくていいだろ
本拠地移転しまくってる信長・秀吉・家康を見習えよ
結局関東が欲しかったけど関東を平定するのが生涯できなかった負け続けの人
戦績が最高とかただの捏造。しょうもない戦をカウントした亀田みたいな人 謙信って、いつから武力100みたいな人になったんだ?
昔はそうじゃなかったよな? 生真面目な人だったんだな 武田信玄の様に狡猾さが必要だった 謙信の上杉家と言うか長尾家は、鎌倉府足利家の家臣として関東管領を交代で務めていた片割れである山内上杉家に仕える守護代の1家でしかない
はっきりいって上杉家でもない下克上の典型 そもそも天下を取る気がなかった
謙信は相手に自分へのトラウマを植え付けるのが
戦争目的だから
信玄も謙信を見るだけでぶるぶる震えるようになったしまった >>83
そら光栄のせいやろ
呂布武力100と一緒 群馬と新潟が山で絶たれてたせいでうまく関東攻められなかったんだろよく知らんけど >>32
謙信死んでから御館の乱に新発田重家の乱と佐渡の本間討伐と内乱続きだったろ
反対派粛清したらそりゃあ大人しくなるだろう 武田今川北条同盟って武田が一方的に損する盟の組み方よな
おれが武田家なら絶対やらん
今川アシストして、今川幕府の家老の地位狙ってたならまぁ分かるが >>72
ない
室町幕府再興の野望はあったけど
晩年に信長に影響されたのか知らないが関東管領あきらめて別の動きしだしてからは
何かほかの目的があったのかもしれないが >>70
10代前半で家つぐも四面楚歌の状況で、ただ全て武力で屈服させてってかんじで
割りと初めからハードモードで面白いよね。。史実じゃなかったら、んな若造が勝てるかよと思いそうだけど 行軍範囲がキチガイ過ぎる
富山に攻めて込んだと思ったら茨城まで遠征してやがるし >>88
いやだからコーエーのゲームでも昔は武力100じゃなかっただろ
いつからこんな流れになったんだろう >>84
武田信玄は立派な人って扱いだけど勝頼時代のボロボロ具合見ると言うほど慕われてたわけじゃないんだろなと思う
強いからみんなついてきただけ
信玄が本当に慕われてたなら勝頼がどういう人間だったのであれ信玄が残した武田家を守りたいって人がもっと出てきても良かったはず >>82
信長が凄いのはそこよね
ゲームじゃあるまいし合理的な場所に移転移転とか 信長の野望って地方の大した事ない奴らがどんどん過大評価されていってるよな >>93
その三者だと武田が圧倒的に弱いから武田が一番得だろ
今川や北条が本気で潰しに来たら国力的に武田にはどうしようもない
信玄がつよいとかそういうレベルじゃない 謙信は軍事に強くても
越後国内の統治はガタガタだったからな
北部は独立志向の高い揚北衆の問題もあったし
関東に出兵しすぎて台所はいつも火の車
>>90
>>103
新潟すごかったんやな
さすが米どころ 戦にしか興味なかったから領地奪おうとしなくて部下の不満タラタラ 信玄や氏康が死んだから信長という新たな敵を求めたというバトルジャンキー説も好き そもそも武田家の家臣って一般的な主君と臣下というより
寄り合い所帯に近い感じとかじゃなかったっけ
だから元から結束的な部分には問題があったのかもしれん 北条がなんで秀吉に服従しなかったかがわからん
早めにご機嫌伺いに行ってたら多少領地削られるくらいで済んだだろ いやお前犬懸でも山内でも扇谷でもなくの庶流もいいとこの越後家の家宰の越後長尾家じゃん 群馬の人の養子になったから関東管領になったんだろ
本当に名門なのは群馬の人や 天下統一を目標にしてた戦国大名が当時何人いたんだ
毛利元就とかとんでもない大大名に成り上がったが最後まで一地方の守護的な性格から抜け出てないぞ
>>93
甲府は一番貧乏で人口少なくて伸び代皆無なクソ土地だから仕方ない 関東甲信越は有力大名が多すぎて牽制しあってたし
その間に今川を破った信長にいいように動かれたよな >>101
勝頼は元々正当後継者じゃない上に軍制改革的なことやろうとして家臣の反発食っただけ
老臣達からすると勝頼に対する反感が増すごとに「信玄様はよかった」っていう回顧的錯覚もあったろうけど >>106
死んだ頃はかなり金残してる
それを押さえた景勝は武田との和睦を金で買った >>108
勘違いしてるけれど新潟の人口が増えたのは新津に石油が出たからだよ。
米どころという理由からではない。 異常に機動力が高いんは現地調達で兵站補っていたからやろ
言うたれば略奪しながら暴れまわる一団や >>109
あれ、群雄伝のころから100か
俺の記憶違いか >>116
島津も北条も織田には臣従の準備あるみたいなこと伝えてたらしいから完全に秀吉の才覚を見誤ったんだと思う
棚ぼた幸運野郎とでも思ってしまったのかもな
下層出身の秀吉に頭下げたくなかった説はさすがに実力が物を言うあの時代それはないとおもう >>46
戦国時代って中央集権的な仕組みで偉い人が命令すれば皆が従ってたと思われがちだけど実際は全くそんなことなかったからなあ 「兵農分離はなかった」とか「坂本龍馬は大したことなかった」とかいう説は知ってる(と思ってる)くせに
謙信をまだ戦闘最強だと思ってる嫌儲民なんなの
>>127
新潟で石油取れたの?
知らんかった
意外にこのスレ参考になります 領土拡張だけ考えててビジョンが無かった
東側の完無視決めた信長と対照的 >>93
あれあったから後ろ気にせず上杉とやれたんやろ 謙信は死ぬ直前も謎行動してるよな
なぜか引き返してるし 関東管領なんて引き受けずに
西に向かってたら機内を抑えられたかもな
北条と武田相手に時間を使いすぎた なんでわざわざダサい名前に改名してんだ?このアホw >>135
今も取ってる
でも>>103は明治初頭の石油関係ない頃の図だね 光栄以外でも謙信は最強評価だったな
天下統一シリーズでも理不尽に強かった ただ、秀吉もさすがに後北条家滅ぼすつもり無かったんじゃないか、結局氏直を除名しているし。
全部滅ぼすと後釜の大名で困るし、やるとしたら家康だろうけどそれだと家康強くなりすぎるしで。
武蔵と相模くらいに削って後は他の大名に任せるくらいの感じだった気もする。 >>140
いうても武田は日本海狙うから衝突避けられないぞ
北条も上野押さえる >>82
早よ帰らんと本国で反乱か外敵に攻められるやろ >>137
凡人だったら桶狭間後の今川混乱期に松平(三河)吸収しにいきそうなもんだよな
信長はすごいわ まあ家康も上洛は相当渋ったし
北条親子も上洛して頭下げるってのはハードル高かったのだろう
長宗我部も島津も結局は許されてるってのもあったかもね
小田原攻め自体北条側が積極的に始めたわけじゃないし >>94
関東管領名乗って関東公方擁する後北条と敵対してるから、どっちかっていうと鎌倉府を探題みたいな形で再興しようぐらいしか考えてないんじゃないかなぁ
上杉を名乗った時点で、畿内への野心はないでしょ多分
そんなことしてるうちに、中央の方の公方がやらかしてどうすりゃいいかわからない内に死んだ感じ 京から近くないでしょ
越前、越後、
関東もいちぶとってたけど
富山、福井、加賀ルートでもかなり遠いぞ 徳川時代初期に信濃川流域治水開発する迄
ただの水浸しの荒地だし 三河の王じゃないからだろう
日本を支配する絶対条件が三河の王
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>3
覇権を求めなかったから
闘いで勝ったわりには他国の領地をほとんど分捕ったりしてない
源頼朝や足利高氏のようなスタイルでの王道を求めたんだろうね
それは戦国時代の政治力学とは合わなかった >>137
まあ信長も義昭が接触してくるっていう棚ぼたあってこそでしょ
比較できるのは同じように上洛要請されながらスルーしてた朝倉よりは先見の明があった、くらい
他の大名だったらどうなってたかはわからん >>152
実際川中島で対峙してる
それ無視して日本海側西進するのか?
冬になったらしばらく帰られないぞ >>153
単純に、ビビって逃げただけだろう
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 >>95
ぶっちゃけこれが全て
長尾家は親父の代に多額の献金したおかげで後奈良天皇と正親町天皇と太いパイプ持ってて
それに目を付けた関白の近衛前久が下向してきて謙信と関東平定後に上洛する密約を交わしてたんだが
武田北条相手に苦戦しまくりでその間に前久は何度か北条に身柄囚われそうになったり
関東公方の足利藤氏と険悪な関係になったりで段々関東にいるのが苦痛になったりで
そうした中で関東管領についた謙信が関東平定にこだわるマシーン化して
こりゃダメだってなって前久は約束を反故にして帰京するんだけど
勝手に帰った前久にキレつつさらに親密だった足利義輝も死んだのにその後もひたすら越山を繰り返しては北条武田に追い払われるマシーンになった
結論言えば幕府朝廷から期待されお墨付きももらいながら北条武田程度に勝てなかったのが悪い 自分を正義側というか大義名分を得るのが上手かった
政略家としては優れてるが、あの乱世ではむしろ邪魔な才能かもしれない >>57
お上に従順だし同盟大事にしてるし裏切らないし
助け求められる度に何度も応援出すからだよ というか、信長の上洛後も信玄が急死したりとか結構運が良かったから成功したという面が強いし
上洛自体普通に考えてしないほうがいいと思うけどね。 >>116
北条というか関東の武士団が上方の政権に反抗するのは関東の風土病だからしゃーない
将門、頼朝、鎌倉北条、鎌倉公方、後北条、家康、みんなこれ 自分のことじゃなく自分の国のことを考えてたからだろうな >>153
桶狭間後も独立した松平と衝突しとったんやが >>151
それこそ移転したから旧領で反乱起こされましたとか無能の証明だろ
信長が岐阜に移転したら尾張で反乱起こされたとか、安土に移転したら岐阜で反乱起こされたとか
そんなことは無いから天下人なわけで >>74
まさかこのジャガイモ江戸時代と戦国時代を混同してる? コーエーのゲーム的評価はそれはそれでいいけど
まあフィクションではある 武田や上杉みたいな田舎もんが単独で上洛したところで木曽義仲みたいになるだけだよ >>163
上杉が関東に出兵しなけりゃ
武田はそう簡単に北信濃にはこれなかったよ 新潟が米所になったのって戦後からじゃない?
品種改良もあったし
戦国時代とかの石高、検知だと領土がひろいわりに、そんなに国力ないはず >>106
あの時代って今の新潟市を含めた越後平野が油断できない状態だったんじゃの
春日山城は今の上越市だしそら川中島で何度も戦争するわな >>171
こだわって泥沼になってないでしょ
美濃平定にかなりの年数かけたことを考えろよ
三河に何年もかけたか? >>162
ノッブは美濃伊勢抑えた時点で石高的に全国トップクラスやろ >>1
場所が悪かった
あとはそもそも野心が低かった >>130
エポック戦国大名(1986)でも謙信が最強武将だからこの概念は昔からのお約束なんだろ >>165
正親町、おうぎまちって
日本史やってる人ならよめるの?
中古、中世の文学やってると
正親町文庫本、がどうとか異同についてあったけど >>103
この時代は越後平野が湿地帯で
石高と人口が爆増したのは江戸時代になってから
越後は青苧座や鳴海金山による利益が莫大だった 新潟は明治維新の時も結構強かった記憶
東側最強じゃなかったか?長岡藩のガトリング砲 なんで関東管領になってしまったのか
やっぱ関東荒らす名分が欲しかったってことなのかな 立地と本人は天下に対してそこまで積極的ではなかったから >>187
濃尾抑えた時点でほぼ勝確だな
もう奇策は必要なしで「普通に」戦えば勝てる 謙信本なら義の武将、激情と苦悩がいいよ
一般な謙信本に載ってなかった文献も載ってる
妻的な女性もいたんじゃないかって資料もあった >>172
と言っても派閥や既得権益の問題あって普通は移転すると反乱の危険が付きまとうんだよね
よく大ごとにならなかったもんだよ 新潟は遠いだろ
朝廷や将軍にたてついてまで天下取る気ないからに尽きる >>83
史実で謙信の戦遍歴調べたら武力100なのも頷けるぞ とりあえず当時からもの凄く信用され期待されてた人
朝廷や幕府、関東から頼りにされてた まあ東進したら確実に信玄と揉めることになるし
松平・今川をそう簡単に滅ぼせるかわかんないし
家康と利害が一致しただけの話なのだろう >>203
ノッブも本拠地移転は少しづつやからな
急に離れたとこに移転するんはリスクあるやろ 朝廷へのわいろ、献金って戦国時代は一般的だったらしいね
ゲームの創造PKでも朝廷への献金すると官位がもらえるけど
ガチで史実でもこんなのだったらしい
佐渡の金山とかでお金があるのでできる >>1
上杉は戦国時代の中では穏健だったしな
武田の家臣になったら使えないヤツは斬られたし >>210
天ちゃん金ないねん状態だから仕方ないw >>197
なったっていうか譲られてうけのったのでは?
関東管領の山内上杉の上杉憲政が川越夜戦で大敗して、
長尾に逃げ込んだだけ >>210
それ以外にも割と商売しててそのまんま東みたいに京にトップセールスをしてた 新潟産のものを 北条だけはとにかく嫌いで、武田と北条が手切れになった時に北条に乞われて形だけ同盟は結んだが
同盟国らしいことは何もせずむしろ武田に塩を売って大儲けしたからな まあキチンと後継者決めてなくてコロッと死んだから内戦になりボロボロになってしまうあたりその辺は無能 >>216
上杉言うか長尾の本拠地は直江津やろ
当時の北日本最大の貿易港やで 家臣が定期的に離反と臣従を繰り返せるくらい支持基盤が弱く統制が取りきれていない 強けりゃいいってもんじゃない
信長は今でいう統一教会とか創価学会を懐柔してた
自民党みたいなモン >>210
当時の朝廷はめっちゃ貧乏で公家の中でも公卿クラスはともかく貴族レベルだと平民以下の暮らししてて
天皇もあまりの財政難に詩歌作ってはそれを売って生計立ててる状態だったからね
幕府の守護や守護代みたいな役職が形骸化し出してた時代に朝廷の官位に目をつけた人らが官位目当てに献金する様になって
それに目をつけた朝廷側も各地の有力大名に官位を売るようになった 山梨県だっけ?
京都に近いか?
兵庫の毛利のほうが近いじゃん >>217
北条から人質は後継者候補になっ>>218になるという 大内なんかもやる気あれば天下狙えたんじゃねえかな
少なくとも謙信よりは遥かに天下に近かったと思う >>220
直江津ってどこへんかよくわからないよな
春日山城とか富山のとなり? 神保とか畠山とか最初から雑魚大名攻めてりゃ良かったのに
武田とか北条とか強すぎるんだよ 戦国大名なんて全部ゴミだろ
クソ狭い日本の地方の1領主にしかなれなかった無能 >>228
後ろに武藤、大友抱えて前には尼子がいんだからあれ以上京に止まるのは無理だろ >>230
一時的な上洛はしてるよ義輝時代
3千人くらいの兵士連れて >>230
上洛はした。謙信が
三好に挨拶して帰った(笑) 寿命もう5年あったら信長ボコボコにしてだろうけど
上洛してそこ止まりで終わりそう >>238
東京めっちゃ人多いじゃん
沼地で人が住めないんじゃなこったのかよ 新潟のグーグルマップを確認したけど
新潟市は当時の上杉の拠点ではなさそう
直江津、春日山城
新潟って意外と平野部がすくないね柏崎、長岡、新潟、燕、直江津あたり そもそも毎年関東荒らして満足してたから全国治める気とか最初からなかったちゃうん >>228
自称将軍を擁して上洛し官位を受けて堺を返してしまった大内義興の失敗は
自称将軍を擁して上洛し堺を貰って官位を辞退した信長の成功とよく比較されるね >>238
陸奥が意外と人多いな
使えない土地だらけと思ってた >>217
北条が嫌いというか関東平定にめちゃくちゃ拘ってたんだよ
義輝や近衛前久の密約が反故になってもアスペの如く関東出兵に拘ってる内に信長が台頭して京を抑えた所で幕府や朝廷に見限られた
その後足利義昭の上洛要請に応える形でやっと加賀や能登方面に本格的に目を向けるようになったけども 信玄もそうだけど郷土愛のせい
越後捨てて美濃なり関東なりに本拠地を移しながら戦わなかったから >>242
武田の方は美濃に織田が来た時点で国境接してたから、容赦なくボコボコにするタイミングは存在しただろうけど
上杉は武田・朝倉とか緩衝材があったから隣接した時点で織田はほぼ天下人の状態だから相手にならんよ
死ぬ直前とか方面軍(柴田勝家)だけで十分って扱いだからねw 武田がいる間は敵に囲まれてあっぷあっぷしてたから徳川通して織田に助けを求めた
武田が消えて安定的な体制を築けたのでポッと出の軍門に降りたくなかった >>243
室町時代は朝鮮からの移民がかなり多かった
江戸以前は朝鮮地名も多かった 夢のない話だけど信長でさえ最初から全国統一する気なんてなかっわけだし >>46
上杉謙信は有力国人を圧迫して子飼いの側近を跡目に送り込んで乗っ取りまくってる
叛乱は謙信の側からの挑発で起きているパターンもあって
その場合も討伐した国人の跡目に自分の側近を送り込んで乗っ取ってる
義理堅いというのは対外的なイメージ戦略 辺境の中の辺境だろ
当時は京都北部や越前国ですら島流しの感覚だったんだから 領地ガチャで一番ハズレを引いてるのが甲斐武田じゃね
血筋だけはいい扱いだけど
小氷河期真っ只中の狭い盆地洪水だらけで米取れないし田んぼ作ろうと開墾したら寄生虫に殺されるし 冬場は雪で動けません
武田北条と仲悪いです
京から遠いです
むしろ天下を獲れる要素がない 良い人ぶってたから、将軍から天下を奪おうなんて蛮行はできないだろうな >>1
新潟はド辺境だぞ
あの時代にグンマーの山脈超えは困難すぎる
現代のように高速道路も新幹線もある時代の常識で考えるな
当時の首都の京都にも遠すぎる 正義の味方警察気取りで恩賞が少なく部下がついてこない
反乱だらけ >>258
加えて変な病気が蔓延ってる上に回りが上杉北条今川徳川織田だからな
完全にハズレ 戦国時代みたいな乱世の傾向として中央で椅子取りゲームするより地方で兵と徴税権を実際に掌握する方が強い
本拠地の掌握が不十分なまま上洛しても大内みたいに何もなし得ないばかりか没落の原因になったりする
上洛は貧乏くじ扱いで織田が正しい手順を示してやっと意味を持つようになった
三好長慶が長生きしてたらまた違ったのかもしれんが 上杉はなんで武田に固執したん?
無視して織田信長行けば統一いけたんちゃう? >>254
信長の思い描いてた天下なんてせいぜい5畿内を抑えるところまでだよ
それ以降は明確に諸大名を下の扱いにしてるし
明確な天下統一というヴィジョン持ってたのは秀吉の方 俺「ああ…すごく気持ちいいよ、謙信」
謙信が俺のものを、そのごわごわとした手で優しく包み込む。程良い締め付けと心地良い温もりで、思わず口元が緩んでしまう。
謙信「バカ野郎が……こういうのはどうだ?チロチロ…」
俺「うぁ…くっ…!!」 上杉景虎ってイケメンだったらしいな
そりゃ謙信も優しくするわ
そのせいで謙信死んだ後国力激減するんだけど 織田が越前の朝倉倒す前に越中能登加賀を併合して越前まで行ってたらあっちゅう間に天下統一してそうではあるね >>262
近衛なんだっけ
当時関白だった奴はめっちゃ期待してたっぽいけどな >>258
ゲームだとまだ甲斐は躑躅ヶ崎、新府城、富士吉田とかはそれなりに米とれるけど、
史実だときびしいね、狭いし
金山はあった
ただ、塩がとれないのって問題だよね
戦国時代でも塩を販売しない、ってなるとかなり深刻らしい
日本って岩塩とれないの?山で
モンゴルとか岩塩めちゃくちゃあるよ >>266
京方面で上杉が隣接してたのは朝倉。1573まで
その後、織田と越前一向宗がやり合い始めるので触るに触れない
柴田勝家が一向宗平定して、さあ織田対上杉だってなったらすくに謙信ポックリ逝っちゃった >>266
固執してたのは北条の方で武田には別に固執してない
信濃を平定されると本拠の越後が危険になるからやむなく戦ってただけで 酒と塩分のとりすぎでうんこしてる最中に脳卒中で死んだ 北関東を中心に藤原氏が集積した広大な荘園があって
藤原氏の長者だった近衛前久がその本所としてまだ大きな影響力を保持していたので
長尾景虎の武勇と財力、山内上杉家の残党、反北条勢力を糾合して
関東公方となって東国の主となろうと企んだのが
上杉謙信の関東攻めの発端らしい
小田原を包囲された北条が少しでも弱気になってたら
滅亡させられてた可能性もあったようです 長尾の名跡捨てて上杉として関東管領に注力するで!一本足打法や! ←こんなんやったら頭安倍やろ
関東管領や言うてたけどやっぱ関東超えてワンチャン天下狙うわ! ←こうなるともうマシマシの安倍や >>272
近衛前久な
期待とかレベルじゃなく義輝とも前久とも関東平定後に上洛する密約を結んでた
義輝が殺されて前久にも見限られるくらい関東平定がうまくいかなかった 将軍の家来だったし
出家して煩悩を断ってたし
上杉家の家長も一時的と言う約束だったし >>258
農民が寄生虫にやられて反抗する力を失うのは権力者の支配力という点ではプラス
灌漑農法のアジアが天水農法のヨーロッパより権力者の支配力が強いのもこの影響 信玄とのズリ合戦が楽し過ぎた6尺アニキ説と信玄との刃のセックスに堕ちたメスガキ説 今でさえ新潟から関西に出てくるの面倒くさいのに戦国時代とかこの比じゃないだろ 謙信が強かった要因ってなんなの?
なんで上杉軍が強かった変わらん >>238
宮崎の短さと大分が下の方まで行ってるのが気になる 足利義昭に織田と戦うために北条武田と同盟しろと言われて武田は別にいいが北条は嫌だと言ったそうだな ちょっと痔持ちのガチホモだっただけなのに、それを根拠に後世の心無い人たちに「実は女の子だったのでは?」説を流されてる人
まあ本人的にはそれもむしろ本望かもしれんが 国内対立が多くて、外にはあんまり興味なかったイメージだが 信長の鉄砲3段うちブチ破るくらい強いけど背後に武田北条がいたせいで動けなかったというかしょっちゅう東西往復w >>285
日本住血吸虫症は平民だけじゃなく重臣の小幡昌盛もやられてるんだよなあ >>287
上越妙高から北陸新幹線乗っても金沢で在来線に乗り換え
敦賀までもうすぐ完成するけどそこで乗り換え
その先はまだ着工もされてない >>292
木曽義仲みたいに勢いあれば
行けることもある >>298
国内で良いんじゃない?もしくは家中か
藩は江戸時代の用語な上に江戸時代では使われず明治以降になってから江戸を振り返る時に使うものだから >>266
織田に付いた加賀畠山攻めでかなり時間かかった >>289
豊後は伊予と繋がってたし大友宗麟の頃は栄えてたんじゃないの
日向は何もないでしょ >>30
厳密にいえば
新潟府(越後府(・柏崎県・佐渡県(相川県)
それぞれが単独ではやっていけないから統廃合されて新潟県になった
統合なしだと福山県を含まない広島県(現在の広島県の西側)が最大
次点が山口県(現在と同じ) >>238
三好長慶ってイメージ以上に凄かったんだな… >>303
一応大分と伊予、はつながってるけど
そんなに簡単に出兵できるようなものではないよ
水路だし
西土佐の一条は大友と関係があった >>291
かなりの癇癪持ちだったからヒステリックに見えたんだろうな
ガチホモになった理由が若い頃の失恋で極度の女嫌いになったからで、機嫌悪い時に目の前の女斬り殺したり馬で死ぬまで引き摺ったりしてる >>292
むしろ日本海側が内日本と呼ばれていて
太平洋側が外日本と呼ばれていた時代
潮流が弱い日本海側は海運が発達していて
明治になるまで太平洋側よりも物流が盛んだった まわりに大きな力を持っているものがあれば
防衛に人を割いたり対策対抗を考えたり他のまわりと同盟組んだり策を巡らせたり生き残り策を考えるのは必定
したたかでないと生き残れなかった >>306
三好一門は最盛期の堺を本拠地にして
瀬戸内と南海交易の利権を握っていたので
一門が握っていた経済力は織田政権と同等以上だったかと >>238
細川氏ってどの時代も無能よな
戦国時代も無能
江戸時代も九州最大の人口を持つ熊本を貰っといて発展させることが出来ず九州のリーダーを福岡に奪われ、維新でも特に活躍できず
現代では総理になるもバブル崩壊後何もできず日本を衰退へと導く コイツが治める気もなくただ単に関東荒らし回ってたせいで関東の発展が大分遅れたよな
歴史的には糞だと思ってるよコイツのこと 他国の領土切り取って臣下に与えて信頼を勝ち取らないといけないのに
正義の戦いとかでチョッカイ出すだけで侵略せず臣下に戦費ばかり負担させたせいで裏切りが続出した >>313
木曽は中世まで美濃国だったから
義仲の時代は岐阜であってたりするけど >>116
氏康なら従っていたかもしれんけど氏政からはろくに苦労をしないで育ったからな
天正壬午の乱の対応見ればわかるよ 豪族や一門がそれぞれ独力で地域を守れてある程度食える状況だとてんでバラバラに行動して纏まらない
越後は山側の国人と海側の国人で気性も産業も何もかもが違う
つーわけで将軍の権威を背景にして長尾氏の武力上杉氏の権威だけで押さえ込んでた(抑え込めなくて反乱やら一門の相剋が酷い)
そんな地域を少し基地外で神がかりになった頭首が自分の名前と肩書きと戦での強さだけで無理矢理まとめてる
それが上杉だからだろ
徳川に追い詰められて始めてちゃんと結束したんじゃないか?上杉家って >>304
あいつはどっちかというと近江の息長氏な >>304
継体は尾張氏とか後ろ盾がしっかりしてた 1493~1507 細川政元
1508~1518 大内義興
1553~1564 三好長慶
1568~1582 織田信長
1583~1598 豊臣秀吉
大内と三好の間って何やってたの? 上杉謙信のやり方は割と信長に近いところがあったんだけどな
上杉は関東管領の地位に拘って
室町幕府自体をどうこうしようという気がなかったのが
信長との大きな差だと思う 戦闘ガイキチだから
内政能力も高いがいかんせん部下の掌握が決定的に出来ない
正論ばっか言うからすぐ反乱起こされる 畿内に比べれば鉄砲もなければ人間の供給も弱すぎじゃん 実際越前から京都に進撃寸前で死んでしまったって話じゃなかったっけ
それともそんな計画じたい史料的にはあやしいの? 能登半島が無ければ海から京都に攻め込んで終わりなのにな 越後留守にするのはまずかったのか?
関東に攻めてきて埼玉あたりに本拠移転してしまえばよかったんじゃないか
武田が越後にちょっかい出してくるかな >>70
山梨出身の俳優陣で信虎って映画作ってるよ >>122
それどころか秀吉自身すら自分の死後は統一政権ではなく
「東西は家・輝両人、北国は前田、五畿内は五人の奉行」
(慶長三年八月十九日付内藤隆春書状)と分割して統治するように述べていて
「自分の死後は統一政権は維持できない」と考えていた
おそらく毛利輝元も同様に考えていたので天下を狙わなかったんだろうな
やっぱり統一政権が数百年なかったのに統一政権が維持できるようには
考えられなかったんだろう 決断力が無く民の人望がないイメージ
外交は直江に丸投げ >>165
青苧座の経済力もあったのにな。
関東の泥沼に引き込まれすぎた >>343
関ヶ原以降辛酸を舐め続けたからこそ
260年後にようやく天下を取ったけどな 自分に鉄砲の玉が当たるわけがないとガチで信じてた狂信者 >>340
家臣が纏めれなくて若い頃に越後を放り投げて国から出てってる
慌てて家臣が家に従う事を誓ってようやく戻った
そこまでしないと一門も家臣も纏められなかった 本拠地上越が武田と隣接してるのが致命的よね
川中島の合戦で負けてたら天下統一どころか滅びていたんじゃないかと思う 上杉も武田も酷いもんだが上杉のがマシ
勝頼は信玄の残したツケがでかすぎた 雪花の虎は完結した?
途中で読む止めたから終わってるなら読んでみようかな 関東平定して荘園本所に税金はいるように秩序回復するための関東管領就任なのに、結局関東は泥沼になり目的達成できず。
織田信長が出てくる前は上杉謙信を駒に使おうとしてたんだろ。
近衛は。 >>351
関東ほっといて武田攻めてたら天下取れたかも
まあ、立場上関東攻めるしか無かったんだろうけど 謙信が最後に計画した総動員は何のためだったのだろう
北条を一気に叩く気だったのだろうか >>357
立場上言うても
山内上杉「長尾さん助けて!上杉名乗って良いから!」
長尾景虎「よっしゃ任せろ。関東は俺のもの」
この程度の底の浅さやぞ
立場に縛られたじゃなくて「そうしたかったんだね」レベルの話 >>332
応仁の乱という馬鹿の馬鹿による馬鹿さ加減極まる意味わからん争い 上杉謙信も武田信玄も後継への権力継承まともにせずに後継者まわりに問題残してるの面白いよな
家という観点だと後継者への完全な権力移行って最重要問題なのに
信長も家康もここらへんはちゃんとやろうとしてた >>363
近衛
「武田や北条が好き放題してるから、荘園から京に税金こねーよ。
信州と関東どうにかしろよ」 >>332
将軍家と細川管領家がそれぞれ両統に分かれて
西国の山名、尼子、大内、六角、畠山、三好、赤松らの有力大名を巻き込みながら
一向一揆や法華一揆に国一揆まで入り乱れて
戦国時代の最盛期の有様でした
その最終勝者として天下を平定したのが三好長慶 >>319
柿崎って武官と、甘粕ってのがいるよ
指揮官タイプじゃない武人だと小島弥太郎とか >>366
家を二分しちゃうからだろ
徳川もそれで石川数正が出奔して西三河衆がガタガタになってるし 景勝が謙信最強伝説を広めたからな
本当に義の人は相模の獅子だったのに >>364
ありがとう
近所のツタヤのレンタルコミックで探してみる 天下統一とか考えていなかったから
そんなものを思考していたのは信長位だった >>371
三好の暴走抑えるのに長尾時代の上杉謙信が京都に武力進駐したりしてたよな 応仁の乱前後のことあんま知らんからドラマでも漫画でもいいから取り扱ってくれよ
ぱっと見、源平の合戦や関ケ原の戦いに勝るとも劣らないど派手な戦いっぽく見えるけどなんでこの時代扱うメディア少ないんやろ >>379
大河ドラマ花の乱
登場人物が全員ゴミ過ぎてドラマにしてもシュッとせーへんねん >>377
そもそも一円支配という概念がようやくでてきた段階だからな
それまでは一つの土地をいろんな勢力が多重支配してる感じだったから天下統一どころかその土地の権力一本化すら大変だった >>379
新九郎奔るでも読めば良いのではないかと >>332
細川高国が10年くらい
1531年その高国倒した細川晴元が政権樹立
1532年内部抗争で三好長慶の父を殺すのに晴元加担 室町幕府の話って最初から最後まで無能多すぎに見えるからか人気ないよな >>332
細川高国や晴元、晴元の父の澄元のwiki見ると面白いぞ >>332
1523年に寧波の乱で出禁くらって京兆家と大内の日明貿易の利権争いが終わったけど
大内は倭寇のスポンサーをやりつつ明には「倭寇取り締まるから利権認めろ」と自作自演の要求してなぜかこれが認められた
大内は畿内に興味を失い、京兆家は高国と晴元の争いや三好一族の関係でゴタゴタが続いた >>380
最初の方は面白いよ
細川勝元とかたせ梨乃の相克の争いが面白かった
松たか子が三田佳子に変わる前までな >>376
北条無駄に本拠固いし攻める方向として機内の逆だから北条とは戦わない方が良かったのに
まあ、たらればだが >>379
登場人物全員ザ・ジャップを極めたような無能とクズしかいないけどいい? >>337
越前まで行ってないよ
加賀まで、そこで引き返した 天下統一したのは徳川家康だけだけど
上杉はべつにそんな野心を抱かなかったから >>390
つっても京いくのに北陸道横断しないとだめで北陸道にもいろいろな勢力いるからな
越中とか越前、若狭が無人の道路なら京行くのもありだが
信長も岐阜から京に行くのに浅井やら六角やらと話しなきゃならなかった >>372
柿崎って普通に外交や内政に渡って役人みたいな仕事してない?
ノブヤボだと脳筋上官だけど 地図見ると新潟方面から京都行くのも守るのに適した地形で難しいんよね
織田信長も上洛するには関ヶ原と大津市あたりと守るのに適した地形を通らないといけなかったけど
信長の時は関ヶ原は全く問題になってなかった気が
関ヶ原は美濃国だったと思うけど
美濃国を併合した時に関ヶ原も手に入れたのなら
美濃平定の時点で信長は天下統一にほぼ王手だったと言える感じか 戦国時代ってみんな好き勝手やってるようでそうでもない
京都に安部みたいなやつが居ってそいつの口利きがあると天コロから官位とか勅令がもらえて地方で横暴ができる
いまいち成績がパッとしない奴は安部フレランク上げする努力を怠ってる 新潟から富山に大軍を出すって困難なんだよな。
海ぞいがすぐ断崖になってて退路を断たれやすい 江戸幕府が長子相続を制度化するまで
日本の武家社会は分治相続が普通だったから当主が死ぬ度に内乱が絶えなかった 謙信に人徳があっただけで上杉家に忠義を誓ってた家臣はあんまいなかったんだろうな
死んだらすぐに内部分裂しちゃったくらいだし >>397
加賀は一向宗の国だから、共通の敵が現れるまで話がつかん >>407
力こそパワーだからみんなついてきただけのような 毎年冬になると暖かい地域まで下ってきて人里荒らすとかこれもう獣だろ 謙信が死んだ後にあれだけバトってきた北条一門の養子を跡継ぎにみたいな話になるのがもう終わってる感 >>414
その当時は毛利に身を寄せてた足利義昭のお手紙攻撃で信長包囲網が出来てた
都落ちしたとはいえ将軍の方が名目は上だからな >>415
景勝の父、上田長尾も謙信と対立してたからねかつて
与党の他の長尾は気に入らない >>411
いまググったら不破関と関ヶ原は美濃(織田信長)の領地で
浅井長政の最大版図に含まれてなかった
っていうか浅井長政の最大版図やべえな >>378
その時に畿内の優秀な人材をヘッドハンティングしてきて
自身の家臣団の中核に据えてますね
厚く帰依した禅宗も信仰だけでなく越後と堺の交易利権のコネ目的があったし
公家との交わりも京都の交易利権を持ってたから >>379
応仁の乱と第一次世界大戦はカオス過ぎて中々メディア化は難しいんだろうな 雪
北条武田
システム上家臣団の統率が取りにくい
関東管領に拘ったから
地方豪族で天下という概念が薄い >>357
上杉は武田とも戦ってるけど現在の長野市にある
川中島で戦線が膠着状態になったので
結局、そっちも無理でしょ
>>366
「軍事的手腕がある」ということで家臣がついてきてくれたんだから
後継者に軍事的手腕がなければ即座に離れるやろ
豊臣政権も秀頼になって弱体化したのはそういうことだしな
上記のように秀吉生前から統一政権は諦める方向だった 春になったら北から攻めてきて秋に帰るとか匈奴みたいな古代中国の遊牧騎馬民族みたいな感がある 戦国時代で重要なイベント
↓
墾田永年私財法以来の土地の重層的な支配を名実ともに終了させた太閤検地
以上
だもんなあ 実は2回も上洛してんのよな。天下統一と関係ないやん上洛って。 >>19
新潟って明治初期は東京都より人口多かったんだけど。金沢市もそう。コメの力だね。
裏日本は今だとてんでだめだけど。 本当に織田家って信長死んでも長男が生きてたら秀吉も家康も恭順したの?
豊臣は幼いとはいえ秀頼いたのに豊臣五大老の家康が堂々と戦争して滅ぼしてるし
そして周りは何も言わないしさあ >>432
家督ついで尾張統一するまでの間に行ったんだっけ? 関東管領だから関東をほったらかしには出来ないし隙あらば揚北衆が謀叛起こすし重臣がころっと調略されちゃうし一向宗を敵にしちゃったし 品種改良や農業技術が進歩した現代と違って北国はまじで米なんかろくに取れねえよ 麒麟が来るで桶狭間より前に信長が上洛して足利義輝に今川義元を何とかしてくれと
お願いしてたな たとえ北条下して関東平定しても天下は取れなかったと思うわ >>437
日本海ルートの交易路だったんだよなハンザ同盟みたいに
ただ信長みたいな銭や金融経済ほど拡大しなかったから天下統一の商売圏まで作れなかった感じなのかと妄想しちゃうわ 不摂生だった時点で大組織のトップとしては失格なんだよね
まあいくら手取川で勝ったとはいえ、あの状況から巻き返せてたかは分からんが >>434
信忠は30ぐらいで武田征伐の総大将も務めてて既に家督も相続済み
弟達も他家に養子に行ったり織田支族の名跡を継いでてもう跡目争いも起きえない
京から無事に脱出してすぐに弔い合戦の為に織田家勢力結集を出した時に大物家臣団がそれに従って実際に集まるかどうかは怪しい
明智と信忠の戦いが長期化すれば漁夫の利を狙える秀吉、勝家、家康の3者は特に 信長vs武田で武田が勝つ
だから武田倒せば上杉の天下
これくらいは考えてたかも 関東と戦争にしか興味なかったしあんな京から遠い雪国のど田舎じゃな 北条氏康「3公7民です、目安箱置きました、上水道整備しました」
クッソ名君なのに北から毎年攻めてくる蛮族さあ >>445
そうなれば勝家が担いで隙が無いと思うが
清須会議ミスったのが痛いな >>445
勝家とか家康みたいな出自が武士は自領が安寧そうなら従うんだろうけど
秀吉はどうするのか分かんないな 大雪で冬は何も出来なくなるし当時はまだ湿地だらけで米も全然取れないぶっちゃけハズレ立地だろ
京都に近いってのは海運を活かせば間違っちゃないがそれで全軍を輸送できるかと言ったら当時そんな船舶ねーし 手取川まで来てたって普通にヤバいよな
武田なんて比較するレベルじゃない >>405
だからこそ港湾都市である七尾を落とす必要があった >>455
歴戦の勝家が成す術もなく完全敗北した戦だしな メンヘラ男の娘だから家臣くらいしか振り回せなかった >>457
強国はみんな大なり小なり経済的に成功したから強国なんだよ
采配が上手いとか兵が強いとかそんな事ではない
上杉も交易や鉱山経営で稼いでるし >>191
まあ天皇号はいくら特殊訓みでも流石にわかると思う
戦国から安土桃山時代2よく出てくる人名でもあるし >>441
まず北条下すのが無理だろ
騎馬隊の数も国の豊かさも全然違うぞ >>437
あの頃の越後平野は信濃川(千曲川)や阿賀野川の氾濫で土砂が流れてきて肥沃だったけど
低湿地で水捌けが悪かった。米どころになれたのは品種改良に加えて治水・河川改修の影響も大きいね >>468
北条を引きこもりにするくらいには強かった >>468
戦歴だと8~9割勝ってるはずだからべらぼうに強いのは間違いない 謙信時代は82万石くらいだろ
佐渡金山があったようだから実入りはよかったろうが
それでも謙信が大名として越後の国を全てを掌握していた訳じゃない
よく領土拡大に興味がなかったような美談がでてくるけど
豪族達が謙信に忠誠心があった訳でもないから
打ってでるとか、遠征するとかという事が
国内事情的に出来なかっただけ
この髭をはやしたオナゴ >>441
安定的な商圏や経済圏確立するの無理だろうしな
信長や秀吉でさえ全国規模の金回り安定させられてなかったし 信長の野望だと一揆ばっかり起こってめんどくせえところだよな >>468
こいつの帽子みたいな兜ダサくね?
つうか何故か前田利家みたいな兜だな >>468
戦国ランスの上杉勢はバランスよくて使い勝手良かったな
虎勝捕まえるのが大変だったけど >>373
だって信康ヌッコロしたやんけ
そら西三河衆は面白くないわ もともと坊主
ひょんな事から兄から長尾家の家督を継ぎ
さらに関東管領職上杉の名をもらっただけ
一部の家臣いがいの豪族達は
仕方無しに管領職上杉に従っていたにらすぎない
謙信直属の兵力財力直轄領は知れてる
宇佐美ら有力側近が優秀だった
謙信の寝首はいつでも取れた 常備軍がないからな
春になったら田植え秋になったら稲刈り冬は雪で行軍できない
兵がこんなのだから実質動けるのが夏だけっていう >>468
こいつ人気あったけど、キャラが良かったんじゃなく新鮮なランスの反応が面白かったってだけだよな 天下獲る気なんてサラサラ無いからな
勝っても勝っても粛正して領地化するわけじゃない
服従しますと言えば満足して帰っていく
だから家臣も信用しなかった信玄でさえ
「自分の死後は謙信を頼れ」と勝頼に遺言したんだ
「謙信は頼まれたたら嫌と言わない男だから」と
実際に謙信は喜んで「父親を目標に励め」と引き受けたんだしな
信長以下その他の戦国武将とは全く異質の存在だろ 宇佐美が優秀って小説以外にソースあんの?
柴田恭兵謙信のときに宇津井健がやってたのは直江だっけ宇佐美だっけ 団結力と勝算があれば
柴田勝家らをやっつけたとき
勢いに乗じてもっと南下してるって ジャップの歴史において日本海側(除く福岡)の地域が栄えた事は一度もない
無理ゲー そもそも当時の大名で各国滅ぼしてでも日本統一してやるぜなんてやつそんないたのか
信長とかが頭おかしかっただけじゃないの? 関東管領職の威光に逆らってまで謙信に挑んでくるのは武田と織田のみ
しかも夏場しか攻められる事がない越後で
12000人の兵力を使い
専守防衛してりゃいーんだから
そら負けんわ 上越モメンだけど義理人情いうてる武将が天下統一出来るわけないと思う 基本、越後勢は血気盛んで荒くれ者しかいなかったから
国を治めること自体 奇跡のワザだった
他国に外征なんて謙信以外の誰もできっこないレベル まあ領地が増えると厄介事も増えるからな
人間一人で面倒みられる範囲も人数も限られている
だから官僚団や軍団長レベルの頭数を揃えるところまで考えないと全国統一なんて無理
しかしそれを支えるだけのお財布の心配までしないといけないので大抵は妄想レベルと言われちゃう
実行できる奴はすげーよ お忍びで京都の寺まで修行しには行くくせに
軍では上京しないんだから
答えでてる そもそも謙信は「武力で天下を統一するのは間違い」だと思ってたフシがあるからな
あんなに強いのに 寒さが厳しい地域と
山岳地帯
その住民は強いと思うわ >>417
ゆうきまさみもなんかだんだん絵に力が無くなってきてるな 信長の野望やると意外と勢力小さいから
ほんとに世渡りうまくやって勢力維持してたんやろなあと思う >>497
美化しすぎなんだよ
現実的に考えれば謙信では何もできん >>229
直江津は海沿い、糸魚川の隣
ちょっと海沿いに東行くと柏崎
春日山のすぐ上で合ってる >>490
敵国の領地や利権潰し回して自分たちの商圏広げて
天下統一して経済成長していこうとか頭おかしいからな >>103
面積が違いすぎるな
これで新潟の人間が東京より多いとか言い張るのは情けなさすぎる 信長と謙信が生まれた国がテレコになって、たら
謙信も天下布武いうてるわ 戦闘最強ってのが間違いなんだろ
最強なら戦って負けないんだから
どこにでも攻め込むだろ? 味噌は天下人3人出してる味噌最強とか言うけど位置でもう勝ったようなもんじゃないの 東北とか九州から天下統一は無理だよな >>505
それは見当違いだな
信長が越後に生まれてたら無欲な関東管領やってたわけない
領地納めきれてたどうかも怪しい 逆に北条って武田上杉に比べて評価低すぎない?
関八州抑えて民政も達者だったのにさ
ただそんだけ実力あったのに天下狙わなかったのは謎だな >>417
全体的に展開が遅いのは仕方ないけど
いくらなんでも今川家の御家騒動は引っ張りすぎな気がする >>506
強いつうのは格ゲーが強いとかそんなんやろ
2対1とかだと流石に負ける 京から近いわけねーだろ
日本海側通るなら親不知で引っかかるわ
大軍を率いて上洛なんてムリじゃ >>509
無んでお前にそんな事わかんねん
思い上がりさんな
しかも謙信の話をしてんのに
信長で答えるチンチクリンに用ない
しっしっ >>492
小田原の戦いも11万人で城を囲んで冷やかしただけだからな
北条氏康の首を取る気などないだろ
その直後に起きた第4次川中島の戦いは
信玄の首を取る気でやりあっている 謙信は戦国大名が全員心を入れ替えて
足利幕府にもう一度忠誠を尽くす世の中にしたかったんだぞ
絶対に無理ゲーぽいが自分が生真面目にやってりゃ
世の中には見てる人間もいると思ってたんだろ >>505
そもそも天下布武にしろ天下統一にしろ
それは手段であって目的じゃないのに
いつの間に戦国大名の目的は皆天下統一を争ってたみたいになるの
ノブヤボのせいだと思うわ 武田北条と3すくみで動けないんで織田がガンガン西に攻め込んでいけた >>510
つか京都から離れた地で天下狙うって発想が当時でも珍しいから
自国中心に領土拡大ならあるけど >>445
秀吉が信忠裏切るとは思えんわ
あの時点だと秀吉子供いないからそこまでリスク背負ってトップ目指す意味もない
信忠と秀吉の関係悪かったわけでもなさそうだしな
家康もわざわざ大勢力に敵対する意味ないだろう
独自色は強めるかもしれんが
勝家は一度信長と敵対した前科があるからわからん 武田信玄は長生きしてたら天下人人なってたけどな
実際、大軍勢で京に向かう途中病死したし >>510
今川と全面戦争しないと上洛の道が開けないから 謙信がなぜ戦に強かったかって具体的にはわかってないんだよな
越後兵の精強さと謙信自体の統率力といわれているが、具体的な戦いの資料がなく結果だけあるという 武田:斉藤を落とせない雑魚
上杉:その武田と互角の雑魚
史実だけで雑魚だと証明できる 武田信玄って病死って事になってるけど
毒殺じゃねえかなって前から勝手に思ってる >>524
偶然ではない戦での勝つ秘訣なら情報収集能力での優越なんでねーの?
具体的な手段は分からんけど >>488
今川義元って最近再評価されてるけどぶっちゃけ太原雪斎がすごかっただけな気がするわ >>282
みたいなやつマジで尊敬するわ
俺も偏差値上位の高校大学出てるけどこんなの習った記憶が無い
なんですぐでてくんの >>522
それは無い
武田も上杉も今川も室町幕府の延命が目的だから >>524
川中島は互いの陣備えから移動まで資料あるだろ? >>516
あれ見て初めて謙信は本当にスゴいんだと思ったな
真田幸隆はじめ綺羅星の如き武田の軍勢が
完全に背景でしかない独壇場としか言いようがない 信長は石高的に尾張統一が大きかったってのはよく言われるけど
地図見ると美濃をとって不破関と関ヶ原を手に入れて
畿内への通路を確保出来たのも大きいと思うわ
尾張というか東国から上洛を目指す場合
関ヶ原は必ず通らないといけない要衝の地で
壬申の乱と関ヶ原の戦いの2度も決戦の地になってる場所だから >>445
佐久間が残ってれば信忠盤石だったろうけどな
信長が悪い 真田家とかは地図見れば抜くのが大変ってのはわかる
地図見ると武田はよく信濃を制圧できたと思うし
その無駄な労力をかけないといけないとこが土地ガチャ失敗してたとも思う 信忠が生きてれば信忠の元で織田家がまとまったんじゃねえかな
でも九州征伐や小田原遠征など
頭おかしいレベルの人員を動員出来たのは秀吉だからこそで
信忠が当主になった場合であっても全国統一はかなり遅れてた可能性は高いと思う 信玄の対信長との戦いで朝倉義景が日和ったからな
せっかく浅井長政と義景で織田軍を近江にひきつけてたのに
義景が兵疲れてるんで~って勝手に近江から越前に帰った
信玄余命幾ばくもないのに義景のせいで足止めさせられて詰んだ >>542
あれほど大規模勢力になると凡でいいし派手なことやる必要なくなるから凡になる
秀吉の三木城とか鳥取城みたらわかるけど経済的食料的に絞れば終わりだからな
甲州征伐もお膳立て十分の状態だったしな >>538
斎藤義龍の頃は何もできなかったのにハンセン病で急死したからな
代わりに愚将龍興
そして半兵衛や美濃三人衆調略して攻め落とした
信玄や謙信の死といい信長は運がいい >>424
関東に力集中してたから武田に兵力で負けてただけでは? >>534
一次資料であるなら教えてほしい
甲陽軍鑑とか言わんでくれよ >>315
肥後細川氏は室町管領の細川氏とは直接関係ない(名前を借りた将軍の近習の家で、養子とかそういうのですらないはず)
管領家の細川氏は南北町から戦国を通して重要な位置に常にいて、頼之や政元、高国といった癖の強い政治家が多いからあまり無能なイメージはないなぁ >>545
義龍長く生きてたら美濃攻略遅くなっただろうしそもそもできなかったかもしれんからな
その点は信長は運が良かった 北条武田織田っていう戦国最強クラス全部に喧嘩うってなぜか領土拡大してるのが謎
しかも現代まで家系が残ってるし クズだったからだろ
北条攻めの顛末みれば人を纏める力に決定的に欠けていて天下を取る器では無いわ
仮に上洛して一時的に三好や六角追い出したにしても京の足利、朝廷と派閥だらけ権謀術数の暗闘に振り回されて自滅するのが目に浮かぶ >>510
その完全に掌握したのが氏政の頃だし
上杉くん攻めてくるし
一つの国家である関東掌握してたら
そもそも出ていく必要性無い時代でしょ 海音寺潮五郎の天と地とは名作 途中で終わるのもまた良かった
第四次川中島の合戦の引き上げ途中で乃美の死を知り、己の人生の虚しさを知る だから北条も武田も上杉も腹いっぱいなんだよ
現状で困ってないのに世の中変えようとはならない よく言われるのは領土的野心が無かったから
関東管領家の上杉家を継ぐくらいなんだから室町体制を維持することに心血注ぐのを生き甲斐にしてたとかなんとか >>560
それ以前に雪でそんな遠征できないんじゃあ >>560
冬になったら道が雪で埋もれて動けないんだから継戦もへったくれもない >>332
いわゆる畿内の覇者は細川高国、細川晴元の流れががメインで、段々とそこから三好元長、木沢長政、遊佐長教といった将軍・管領家の筆頭家臣に実権が移って行った感じ
三好長慶・織田信長はその集大成で、最後に将軍の排除になんか成功しちゃった織田が畿内の覇者から全国平定までステップアップした感じだな >>556
笛の音で信玄呼び寄せて射殺だろ?
いかにも作り話臭い
信玄は不治の病結核で死んだろ なんのビジョンも持ってなかったからな
野盗と変わらん >>173
名古屋じゃない、三河
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 >>530
南北朝の了俊の頃から今川歴代当主は武功を挙げて優秀な人が多い
義忠だけは微妙かもしれないけどそれでも足利成氏の鎌倉府の討伐には成功したとされている >>566
腹にしこりがあってくるしんでたのでおそらく胃がん >>569
戦国ランス
ガチで歴史考証とかしっかりしてるんだっけ? 難攻不落の天然の要害に囲まれた長野県の国々を落とさないとルートが取れなかった
言わずとしれた糸魚川市と黒部市の間は絶対障壁として都へのルートとして使えなかった
街道はあったが波打ち際の単なる岩場で波が引いたら進むという無理ゲーで波にさらわれて死ぬ商人が多かったから使えなかった
たとえ黒部にたどり着いても更に難関の飛騨山脈を超えなければならずコレも無理ゲー
西に進む事がほぼ不可能な立地だったりする >>549
肥後細川氏は三淵氏だけど
俗説のいわゆる細川和泉上守護家の細川元常の養子かどうかはわからないらしいね
足利義輝(義藤)や織田信長から偏位されて死ぬまで「長」岡「藤」孝(幽斎)を名乗っていたらしい >>528
信玄も謙信もやられてるよな
タイミング良すぎ >>73
謙信は謙信尾根を通ってません
現在の17号三国峠ルートを越えてました そういえば上越から富山って今でこそ海沿いの道なんだよなあ >>573
川中島の戦いの陣地と時系列経過の図だった
探したけど見つからないね
でも 幾らでもあるんじゃないの
長野県かなんかが作ったサイトだった気がする そもそも、上杉自体が東国の地方権力だしな。
上杉にとっての天下は坂東の事だろ >>538
関ヶ原経由の中山道でも良いけど、
畿内に行くのは東海道(伊勢-伊賀経由)もあるよ >>165
そもそも、北条、武田は公家本所領を一円化して強大化してたから強かったんだろうな。
統治構造が違う 上杉はともかく武田が動くのが遅すぎたな
包囲網形成してるタイミングなら織田打てたろ 武田信玄は駿河取った後にまた上杉攻め再開で良かったと思う >>586
第二次包囲網に参加してその中で信玄病死しちゃったからそれで遅いと言われると
第一次に参加するしかないけどその時点だと信長と義昭はまだ対立してないし
信玄が参加する大義名分が弱い
第一次は三好政権を復権させようみたいな包囲網のメンツ 軍事力は武田と互角でしょ
中東戦争ばりにあんだけやって決着ついてないし
まぁ冬近づいたら両軍とも冬支度あるからって退いてたのが原因なんだけどな >>460
覇道による天下ではなく
王道によって天下の秩序の回復を考えていたんだよ
源頼朝や足利高氏だって自分の領土を拡大して天下を治めたんじゃないだろ
ちょうど時代を動かす歴史の転換点で謙信は古いエポックの方に属していた
そして過去のものとなったということ >>445
勝家ら北陸衆も池田恒興も摂津衆も美濃衆尾張衆も細川も弟の信雄、信孝も従うよ 大軍で長野から岐阜に抜けるのもムリだし親不知もムリ
武田北条今川をぜんぶ抜いていくのもムリ
完全にムリゲー 長野って山に囲まれてて天然の要塞になってんのに何で天下取れなかったの? 普通に入京したけど特にやることなく帰った
関東管領は信玄が信濃守護代になったから金で買った地位じゃなかったっけ? どうせ冬に家にいたって雪かきするかわらじ作るかするだけの豪雪地帯大名
その間は家を出て南の方に略奪しに行くのが経済的だよね >>601
あの時点で三好と対立する選択肢はなかったんかなと思う >>586
朝倉アホ景が包囲網から離脱したんだよ
信玄死んだら一瞬で滅ぼされたし頭の悪さに腹が立つ >>595
古い鎌倉以来の価値観でも謙信が武力で持って京を抑えればいいんだけどな
京を抑えて大義名分で全国に号令をかけるのが鎌倉-室町のスタイル
それをする実力が無かったのが現実 >>496
軍で上京してるぞ
3千名ぽっちだから戦はできないが >>605
義輝がもっと上杉の名前を前に出してたら三好と対立したかもしれないけどね
妙にあっさり帰ったよね >>601
上杉憲政が北条氏康に攻められ領土失って越後に逃げ延びた
そこで関東管領上杉家の家督を長尾景虎に譲った 戦に出れば快勝
酒うめぇ~
大義じゃい!!
武田😅 北条😅 米中の国力が逆転する未来は確実
この前提を否定する馬鹿と夢想家は無視する
ここで3つの選択肢がある
1 もやは中国の力には抗し得ない属国あるいは中国人となって生きる
2 世界を敵に回しても核武装して生き残る
3 アメリカやオーストラリアとスクラムを組んで中国と対抗する
日頃は傍観者で手を汚さないくせに
都合がいい時だけ助けを求めてくるような奴に背中を任せられるわけ無いだろ
3番目を選ぶなら綺麗事を言うなお花畑 逆に信長の評価こそコーエーキッズが持ち上げた結果だろ
その昔は戦国マニアに尋ねても「信玄と謙信が早死して当たらずに済んだラッキー武将。
無理した結果、部下に殺られた」ぐらいの講釈されてたわ >>600
出ていく方角も決まっていて
出口には強力な大名が居たから
北は上杉
東は北条
南は今川(武田家併合前なら武田家も) 木曽義仲や武田信玄って越中や飛騨に行ってるが、どこ通って行ったんだろう
国道158号線あたりを通ったのかね >>591
朝倉宗滴が死ぬ→朝倉家が滅びる
太源雪斎が死ぬ→今川家が滅びる
北条幻庵が死ぬ→北条家が滅びる
立花道雪が死ぬ→大友家が滅びる 上杉は関東にこだわりすぎた
結局、関東も取れてないし 実際に謙信が生きてた頃は信長は“お館さま”って
貢ぎ物バンバン贈りながらご機嫌取りの書状したためてたわけだし
謙信は手取川で勝って「噂の織田も存外に弱い、天下統一も不可能ではないのでは」
って初めて欲を出した訳だからな
まあ そしたら死んだから やっぱ仏罰とかあるんかもな >>379
応仁の乱は専門家ですら理解不能なレベルだから
脚本家じゃ尚更説明出来ない
入試に絶対出て来ないのが応仁の乱 >>621
武田信玄の子孫とシンポジウムに出たりしている >>621
上杉神社の宮司やってる
米沢の上杉神社は結構見どころあってよかったぞ >>600
善光寺創建時には中部地方の天下取ってたらしい >>616
歴史ヲタが増えたせいでここ20~30年で一気に研究が進んだんだよ
それまでは軍関係者の研究ばっかだったから実態と乖離してた >>576
謙信の親父も越中に救援に行ってるんだけどね
まあ結果は 信玄は戦だけなら優秀だが外交とかマジで酷いからな
勝頼が尻拭いに追われたけど結局それも間に合わず滅亡 >>526
何でお前は相手に『見当違い』だと言い切ってんた?
いちいちジャッジしてんじゃねえ >>518
いや、戦を無くすための天下布武だと信長は自覚してるやろ
始皇帝の真似だし >>597
木曽義仲はどこ通ったんだ
>>600
木曽義仲は群馬や長野にも遠征して、富山から上洛もしてる >>634
そのときは将軍の命令で経路上の問題が解決した >>625
雪斎が生きてたら桶狭間の戦いなんて無かった
普通に織田滅ぼして終わり >>631
勝頼も外交酷いだろ
御館の乱で北条家と交戦状態になってしまった
上杉景勝なんて織田に一方的に押されて滅亡する運命だったのに >>639
大変だなあ
特に木曽は何回超えたんだろう >>471
謙信の経済力は金ではなくて
海運業の運上金
青苧という繊維の売買
がメイン。特にこの青苧というのは木綿がまだ高級品だった当時は服に使われる主力繊維でこれを畿内で売りまくって利益出してた。その青苧の座を主宰してるのが近衛家で上杉謙信と近衛前久の絡みはこれ >>641
野麦峠も超えてるんだろ。佐々成政も安房峠ルートが有力 天下統一を目指してる人物自体が信長くらいしかいない >>631
なんで謙信と無駄に戦ったんだろ?北信濃なんて謙信にくれてやって南信濃経由で美濃に出て上洛狙えばよかったのに >>513
補給が続かない。手取川の戦いで織田軍破ってそのまま近江になだれ込むと思ったら福井に来て引き換えした。補給線続かない >>647
都をとったら天下だって時代に天下布武とかとんでもないこと言って領土拡張戦争やらかす宣言してたのがノッブだしな >>1
そら、統一と関係持たなかったからに決まっとるわ ww >>649
無駄に海に固執して駿河や越後相手に時間かけた。
美濃抑えてしまえば得られる利益のほうが大きかった。当時の日本の大都会は山口と美濃の井ノ口だったから経済力半端ない >>622
謙信は家督継承を景勝には長尾家、政虎には管領と家を分けるつもりだった模様 >>648
北信濃を捨てると上田の辺りの豪族、真田とか離反してどのみち不安定になる >>656
たしか真田は武田の重臣なのに上杉謙信にも通じてたな。武田信玄もそれを承知で重用していた >>623
その辺はぶっちゃけ筆まめな信長のリップサービスだぞ
つか武田も信長に武田を見捨てないでねとか謙信も頼れるのは信長だけとか送ってる
仲良かった時はお互いそんなやり取りしてて信長だけ下手に出てた訳ではない >>648
同盟している北条の敵だから頼まれた面も大きい
但し、後年勝頼が同様に北条から頼まれて介入した御館の乱で大失敗して命取りになるが >>653
井ノ口ってそんなに凄かったの?
あんなとこに人が集まる理由ってなんだ >>659
つか実際信長のメンタルってかなり女っぽい
自分裏切った奴に悪い所があったら謝るし直すから教えてって手紙出したり
ねねは有名だけど部下の奥方に下手に出た手紙出したり 上杉謙信とか長尾なのにさも上杉ですみたいな顔したまま現在に至ってるのが解せない >>663
謙信に子はいないし、甥の子孫も途絶えて、吉良上野介の息子が養子に入る >>653
当時の山口市は国内有数の大都市で
西都とという異名だな。瑠璃光寺は素晴らしい
今は県庁所在地で最も小さい都市だが
>>644
「越後の縮緬問屋のご隠居」
水戸黄門の全国行脚はフィクションだが
当時の越後の特産品といえば米ではなく繊維だな
越後上布は最高級品だった >>657
真田幸綱のおかげで厄介な村上義清に勝てたしな
信綱は勇猛
昌幸は幸綱譲りの智謀
幸村は日本一の兵
信之は真田家を幕末まで残す礎を築いた
真田家優秀すぎ >>668
あれは越後オリジナルというよりは中国大陸→博多織→西陣織→丹後縮緬の流れで伝搬した技術 直江兼続が主人公になった2009年大河ドラマ『天地人』 信玄:男3人三角関係の謝罪文が今も残ってるホモ
謙信:女性を憎み村を襲って奴隷商売するホモ
信長:女装して後ろから掘られるのが好きなホモ >>673
家康もお気に入り小姓の元服時期ずらしまくったホモだよ もう正史でも信長謙信関羽あたりは女でいいんじゃないかな >>673
謙信はともかく信玄と信長はホモじゃなくてバイだろ >>673
秀吉は「あ、自分若い女にしか興味ないので…」という変態だったらしいな 雪で半年の間に終わらせるくらい行ききらないと勝てないと播磨灘物語に書いてあった 秀吉は唯一噂のある男色相手が信忠なのでさすが秀吉あざとい 海道一の弓取りとかふかしながらあっさり首取られた人よりはましだろ
広大かつ交通の要衝抑えといてあれだからな 越後は40万石やし北陸に領土を広げたのは最晩年
一瞬でも170万石なんてないよ >>683
米所面してるのに40万石しかないって雑魚じゃねえか
やっぱ近江最強だな・・・ >>685
新潟が米どころになったのは第二次大戦後やで >>670
えーまじか
三国志ばっかやってて知らなかった 総大将自ら陣頭指揮してたってほんとなんか?
集中砲火くらって沖田畷みたいになるやろ 進軍速度が速いのは荷駄部隊を最小限にして現地で略奪を行っていたから
そうなると当然進攻後に恨みを買い領土を維持するのは困難になる
関東に電撃的に進攻したのに全部北条に寝返られてしまったのはそのせい
北条の善政に上杉はかなわなかった 上杉軍そのものはレギオンみたいな7-8000人の行動の早い独立グループみたいなモンで、それに遠征先の関東の諸豪族国人が寄り集まって軍勢になってるから基本的に烏合の衆で戦が厳しくなればなる程弱くなってくタイプの軍勢だからね
本気になって戦うのはその時の当事者的な勢力だけであとはもう後ろからついて行くとか火事場で側面や要地を切り取りに行くだけってのが上杉の関東侵攻勢だわな 冬は戦闘行動できない。
兵農分離もできてない。
常備軍も無いのに天下統一できるわけない。 >>694
そもそも謙信は【天下】に興味が無かったように見えるわ >>605
三好長慶は畿内で善政をしいてて
一向宗や法華宗を擁護したので町衆や百姓に人気があって
朝廷とも親密な関係で
逆に義輝は人気がなかった 謙信は美貌の河田長親・鯵坂長実などの近習を重臣に抜擢するなど
衆道を好んだとされることから
越後では武士のみならず庶民にも同性愛が流行したということです 未来人が織田のところにばかり来るんだから天下取れるわけ無いじゃん >>689
鉄砲たくさん持った勢力が関東甲信越にはいない 170万石って、経済力を石高換算した数字だろ?
やっぱ正味の農業生産高が無いと駄目だと思うわ
東北や北陸の大名はそこが弱い 今川の家康成敗失敗したあとを受けて三河成敗
今川と共同で尾張征伐→単独で美濃北伊勢征伐ってコースで進めば天下人の可能性もあったのに 塩っぱいものと酒の摂り杉でポックリって本能寺が燃えるんじゃがのコメント欄で読んだ 武田と戦ってたのが悪い。
武田上杉と連合してれば都は取れてた。 >>704
まず当時、日本最強の三河に勝てるわけ無い
尚且つ、三河出自の足利一族たる今川には臣従するが、尾張の田舎者に臣従するわけない
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 日本の中心にあって平野も近畿より広かった愛知の連中が勝っただけ
勝負は最初から決まってた 事実と剥離された事言われてもな
三河は作物が取れる平野が狭く、熟国でもないのに勝ち続けているんだが
そして尾張は勝った事ない
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>694
どの大名も常備軍を持っていて一年中戦っているし
兵農分離なんて信長も出来てないよ >>711
三河くん来たね
頼朝軍の主力は坂東武者でしょ
ドラマ見てなかったの? >>713
残念でした
頼朝「坂東の奴らは文字が読めない」
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 北条時政の母方祖父は伊豆伴氏と伝えるが
その伊豆伴氏は三河伴氏と同じく祖を伴善男と伝える
東三河出自の安達盛長が、頼朝に政子を紹介した逸話は、その縁故と考えられる
そして義家郎党で有名な伴助兼は、三河伴氏なのである >>714
軍の話をしてるのにどうして関係ないコピペ貼っちゃったの?
ちゃんと自分の言葉で話そうね >>716
精査すれば
主力は三河の母方縁故者だったよな、と言ってんだよ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>716
主力が三河でなければ
跡取り息子の正室に三河武士の娘を選ばないつーの
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 NGワードを三河に設定の上引き続きスレをお楽しみください 170万石のわけねーだろ
せいぜい10万石の雑魚だよ >なんで上洛しないといけないの?
幕府の権威・後ろ盾って天皇なので
上洛して天皇囲っちまわないと正式な日本の統治者になれない
なので明治維新の際も維新軍は躍起になって天皇囲いに行って
天皇取った時点で官軍になった 攻めっけが無いヘタレ
金持ちだったから現状維持を選んだ
ハングリー精神が足りない 当時は今とは比べ物にならないくらい栄えていて落ちぶれていたけど天皇と仲が良くて遊びに行き来する間柄だったんでしょ?
周りに最上・武田・北条・本願寺と面倒臭い連中が集結していたのに勝率が高くて領土を守り抜いただけでも立派 信玄が一向一揆を後ろ押しして
謙信をずっと抑え込んでた、って漫画で見た >>251
その方面軍に大勝して、謙信は織田は意外に弱いと言ったのですが、、、σ(^_^;)💦
謙信が病で急死して跡目争いで弱体化したあとのことと勘違いしているのかな、、、σ(^_^;)💦 170万石もあったのか
景勝30万まで減らされたんだっけ >>255
織田家オールスターに勝ったんだよな
それで信長は弱いって発言
うろ覚えだが負けて秀吉が勝手に帰還しちゃったからgdって終わり >>732
いや秀吉が独断で勝手に撤退してその後に合戦があった >>602
なんでも勝ち負けだと思っちゃうのはコンプレックスがある人なのかねえ 秀吉は播磨の国主になった辺りから
信長の命令を無視したり
独断で宇喜多直家を傘下に収めたり
半独立大名みたいになってくんだよね
信長は激怒しながらも秀吉の権力が大きくなりすぎて押さえられなくなってた
光秀に至っては隙を見せた瞬間に襲いかかるぐらい織田家の内実もガタガタで
謙信が死なずに関東をまとめてたら
信長の天下統一も頓挫してた可能性も結構高い >>735
主従関係があると思い込んでる人が多いが
戦国時代なんてやるかやられるかで繋がってるだけやからな
下克上なんてみんな狙ってるし、隙あらばってのは全員同じ
会社の縦割りみたいな関係ではなく
外注先が繋がってるだけで、個人個人自己の利益を最大限に考えて信長を使ってるだけの関係 >>730
しょーもない戦いで勝った勝った言ってるだけで
勝家本拠の北ノ庄を落としたりとか戦略的に意味のある勝利は何もしてないだろ
謙信ってだいたいそんなんばっか。ハリボテの軍神 武田とか上杉とか山ばっかの土地は結局今も昔も経済発展しないんだよな 北陸進出すれば京なんて目の前なのに、武田北条とドンパチして機を逃すw 親不知ずあるけど北陸経由で行けないことはないんだよな
結局やる気がなかっただけではという話に >>32
「家臣」って織豊末期ぐらいからの概念じゃないの
それまではごく一部の大名除いて良くて「協力会社」ぐらいな気がする 三河は塩と街道を持っていたから金がたくさん集まった 上杉は日本海交易抑えてたろ
本当は敦賀を抑えたかったんだろうなぁ >>739
織田北陸方面軍は総崩れになったんだけど
、、、σ(^_^;)💦
雪のせいで冬には越後に帰らなければならないから織田は命拾いしただけで、謙信が病死するまで、少なくとも北陸では織田は支配権を失ったよ、、、σ(^_^;)💦 >>658
実際お互い立て合いながらやり取りしてたんだろうけど謙信に対して信長は完全に下からとしか思えないやん 山形の人は自分たちの地域が上杉謙信ゆかりの地だと信じて疑わないらしい どこかの世界線では大陸と貿易しまくって
新潟が首都だったりするのかな >>702
足し蟹🦀
ガソリン失くなって直ぐにアウトだったけどなーw >>739
能登守護の畠山は名門にして北陸に強固な大名領国を築いた戦国大名
神保だって元々長尾家とは同クラスの勢力を誇った守護代家
マイナーだけど全然雑魚じゃないし
短期間で滅ぼした上杉は普通に強い >>727
武田と一向宗は左大臣・三条公頼の娘を通じてつながっていた
長女が細川晴元の嫁 次女が武田信玄の嫁 三女が本願寺顕如の嫁
三条公頼本人は大寧寺の変に巻き込まれて亡くなっているけど >>745
吉良の領地でも製塩をするために日本一の産地の赤穂に教えてもらおうとしたが
赤穂に断られたので嫌がらせをして赤穂事件に発展したという話を聞いたことがあるけど
どうも赤穂事件の後に作られた逸話らしいね 信長の必殺!柵つき鉄砲三段うちを破るんだからビビるだろ… >>738
つまり戦国時代の家臣って傭兵みたいなもんか >>760
それを言ったら信長も秀吉も曹操もみんな女にされとるが・・・
謙信だけ女にしようとかは戦国ランスとかその辺の時代 >>738
そんなことないよ
普通に殉死とかあるし 謙信は仕事が嫌になって家出とか最高にまんさんっぽい >>251
>>739
返事はナシと、、、σ(^_^;)💦 >>764
それは個人への忠義
基本的に家への忠義はない >>730
手取川の戦いはなかった説があるからな
謙信公の話て後で景勝が神話化して話を盛っているのがな
謙信の軍才は凄いけど死なないで生きていたとしても織田軍を倒せなかったと思うよ
あの当時の織田が本気出せば軽く10万を超える兵力を集める事ができるし謙信が上洛するために集められる兵力がせいぜい2万くらいでさらに攻めなければ行けない上に進行ルートもバレバレで勝ち目は一切なし
調略も下手だしさ >>768
合戦の規模が言われてるほど大きくはないというのはあるかもしれんけど、合戦がなかったはないやろ、、、σ(^_^;)💦
その当時は本願寺も北陸豪族も謙信側についていたから、数が足りないから織田に歯が立たないというのは無理があるやろ、、、σ(^_^;)💦 >>768
手取川の戦いの前に七尾城を調略で落としているのですが、、、σ(^_^;)💦
たとえ謙信個人が調略が下手でも調略に長けた家臣がいるのですが、、、σ(^_^;)💦 関東管領という肩書きを山内上杉から引き継いだからその範囲に縛られた
足利義秋が終わったから謙信も西を目指したけど時すでにおすし >>768
多分謙信上洛となると人が集まって相当な兵力になると思うけど >>769
近年の研究でそういうのがあるんだよ
実際手取川の戦いで上杉軍はどれくらいいたのか?正式にはわからんが少なくとも柴田北陸軍の方が兵力は上だった
のは間違いないし
柴田軍の目的は戦いが始まる前に終了しており撤退するしかなかったからな >>738
実際これなんだよな
信長も松永久秀や荒木村重に裏切られているしまさかの浅井にも裏切られていたし最後は光秀にも裏切られて終わっているし
実際信長もいい場所は親族たちで固めていたしな
秀吉みたいに賢明に働く家臣なんて少なかったんだろうよ
佐久間さんなんかは追放されたし >>1
上杉謙信、武田信玄、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉
この5人は、朝鮮人が朝鮮人認定してた 武士の奉公先への忠義の精神ができたのは江戸時代からよね
戦国までは土地や安全を保障をしてくれるなら従うのがほとんどやろ のぼうの城の城主が
馬上から謙信に謁見して
謙信の家臣らに咎められた上に
嫁を謙信に持ってかれた城主なんだろ?
大河ドラマ風林火山で見た >>709
甲斐武田にコテンパンにやられてただろ三河
関ヶ原の時期だって上田の真田家に酒井榊󠄀原ら三河四天王が2人いてもダメだったし >>783
そう商業で金を稼いだ。青苧も海で若狭まで運んでそこから鯖街道通り京都へ。また堅田へもっていけば琵琶湖の舟運で堺までもっていけた。 >>785
成田さんは藤原秀郷の子孫の家で、源義家にも馬上から挨拶することを許された関東屈指の名門だからそれを知らんかった謙信側がダメだ。 >>634
敦賀か小浜まで船でいきそこから朽木谷や鯖街道通れば行ける。朝倉とは伝統的に対加賀の一向宗で関係良好だったのと青苧交易でお互いウィンウィンな関係なので通行OK、近江の六角とも関係良好だったのでこれまた通行問題なし
>>609
越後兵となると三千人でも馬鹿にできない。
>>781
大義名分があると強い。信長も義昭の御教書に加えて正親町天皇の命令というカタチで上洛してる。 >>790
名門でも他家の庇護を頼るクソ雑魚がそんなことで憤怒してる場合じゃないだろ最後は結局没落するし
戦国は「名門」の無能だらけだわ >>792
その名門がブランドだからバカに出来ない。
古河公方ってのをずっと崇めてたでしょう関東は。
北条さえそれを維持した 成田長泰が下馬しなかったエピソードは限りなく創作(一次資料がない)に近い
そもそも戦国のエピソードのほとんどが確証がない 甲斐も越後も家臣団がまとまってない
ついでに言うと寄大名制の佐竹もそう そもそもサイタマのあそこらの城と領主達は玄関マットみたいなモンで強い奴に靡く事の繰り返しなんで下馬し忘れもあるだろうてw 自分なんか関東管領に並ぶ役職につけてないし
あの時代にいても同じ業績残せたとは思えない >>798
春になったら謙信が略奪しに来る地域って普通に地獄だわ >>800
簒奪だろ関東管領職なんてさ
そんな器量も無いだろお前w 憎たらしい北条を滅ぼせなかった時点で天下統一を目指してなかったは言い訳にしかならないからなぁ 京都住んでるんだが
一度は新潟行きたいと思ってはいるんだが
旅の計画立てる度に遠すぎて他のところにしてしまって
まだ行ったことないわ
今回の旅行支援でも結局行かなかった まあただの上洛競争と守護大名にのし上がりたいってのが戦国中盤までのトピックだから
管領になったら目標達成だわな
上洛行動は知らんが結構消極的だったね >>801
だから一門と家中に管領派と後北条派の二つの派閥を作って両天秤で生き残りを計るんだろうな
太田氏なんかモロソレだわな >>810
上杉自体が北条派の上杉景虎入れたのはなんなんだろうな >>811
おそらく関東管領を上杉景虎に継がせる予定だったんじゃ無いの?
古河公方の流れで北条氏康も関東管領みたいな感じだったから
景勝はそのまま長尾氏のままで
憲政と謙信みたいな関係に まあまず上杉景虎を越後に入れたのは北条側からの外交要請だから仕方ないことだけど
その後も北条派を温存したのは上杉謙信の意向のようだな
で御館の乱で上杉景勝派と北条派で分断して最悪の形になったのは事故のような形のようだ
ちょうど今記事見て学習した >>811
御館の乱で景虎についたのが古志長尾など古参のことから、上田長尾出身の景勝に対して思うところあったんでは >>808
鉄砲が普及して戦がああも変わるとは思わなかったんだろう
東国は遅れて普及したし
日本で鉄砲で大きな戦おこったのは三好長慶の晩年の頃だし >>815
謙信は飛び道具として弓を重視したけど鉄砲もイメージより使っているよ
ID:ofm6lhTy0
ID:+INaOOHN0NIKU
など有識者に聞いたら詳細を知ってるのではないかな >>108
戦前の新潟米はクソ不味い米の代名詞
新潟が米どころになったのはコシヒカリができてから >>1
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。 ●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。 ●井沢元彦『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも織田信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、畿内の比叡山の荘園(山門料)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図りこれを朝廷に訴え、朝廷は山門領の返還を求める。しかし信長側はこれを無視し占領を続ける。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本は物流の要衝として商業が盛んで僧侶以外の町民も多く住んでいたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、元は信長による大坂への侵略が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の軍事費(矢銭)も支払い平和を望んでいた。(ちなみに同様の矢銭を拒否した尼崎の街は織田軍に焼き討ちされている)
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。 ●織田信長の生前に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
これは生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと見られ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に「贋作」であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画を基にイメージしたモンタージュの類いだろう。 鉄砲隊の率はさほど差が無いといわれている
武田は早くから鉄砲隊の導入をしている
鉄砲の運用に関しては弾薬の物量差で海外貿易の恩恵に預かれる国が有利になっている そもそも残ってる記録がないのもあるが織田家も含めほとんどの戦国大名は兵種別の動員なんてかけてないからな
織田陣営で細かい兵種の指定や陣形に対する指示が書かれた最初の陣立書が出てくるのは小牧長久手の秀吉から
それまでは陣形なんて概念も兵種別に効率よく運営するなんて発想はなく家臣の各家毎に適当に動員してバラバラに戦ってた
ただそんな時代に上杉家軍役帳と甲州軍艦と小田原衆所領役帳にははっきりと兵種の指定があって
この3家だけは兵種ごとに明確に役割を定めて運営してて他の大名家がまだ各家ごとにバラバラでやってた合戦を
一つの軍勢としてまとめてた可能性が高いのがわかってる
槍衾なんてのも村上義清が初めてやって武田を撃退したんだけどその後上杉家に亡命して重臣になってるので
その村上義清のノウハウを取り入れたのが謙信って乃至先生は言ってるな
まあ確実に当時の時代に先進性があったのが上杉家と北条家と武田家で
後にそれを参考にした陣立書が日本中に広まったのでこの3家が当時他より合戦に強かった根拠はある
徳川家康なんて石川数正出奔後に軍制を武田流に改めてるくらいだしな >>824
軍制に関しては東国が当時の最先端だったってのは最近の新書なんかでもちょいちょい見掛けるな
だから甲越相の三国が突出して強くなり結果的に東国三国志の主役になったという
先進的なイメージで語られがちの織田家はむしろ万事において保守的で
だからこそ三方ヶ原や手取川では武田上杉にそれぞれボコられたと… >>825
信長はあくまで義昭から天下を委任されたって形式に拘ってて
義昭も殺すでもなく征夷大将軍から下ろすわけでもなく追放して
その後義昭は鞆幕府なんて呼ばれるくらい備後で将軍権力使った反織田活動されてたのに
ほとんど何も手を打ってないしこの辺りかなり詰めも甘いんだよな 畿内を中心とした西国なんかは
流動人口が多く経済も発展していて
村落共同体を統制して百姓を動員するよりも
雑兵を雇う方が安価で容易だったという事情があって
それが織田家の兵農分離という誤解に繋がったんやろね 支配地域の石高では70万石程度だった三好一門が5万を超える軍勢を動員できたのは
畿内と瀬戸内の流通を支配して莫大な収入があったのと
全国からの物資が集積する堺を実質的に支配して
兵糧も武器も潤沢に調達することができたから
石高は戦国大名の実力の指標にはならない 信長って正義というか大義みたいなもんに拘る人だからそういう事するのは自分の中の正義に反したんだろうな 鉄砲に関しては硝石の保有量とか購買力(銭)もあるから何とも
市場である堺をその手の内に入れてる織田と、そこから何人かの商人を介して入手しなけりゃならない東国大名だと価格も全然違うだろうし
織田の経済力が桁外れなのにさらに織田より高い硝石仕入れなきゃならんとか嫌になるだろう多分 あと一般的に兵士としての質が高いのは食い詰めもの雑兵よりも村落からの動員兵
雑兵は派遣枠で村落からの動員兵は正社員枠みたいなもん
織田の軍勢が数の割に弱いってのはこういう事情もある
織田信長なんかはゲリラ狩り専門の殺し屋集団を雇ってたので
これも兵農分離と勘違いされたかも >>830
鉄砲については
>>824参照。織田が鉄砲を特別うまく運用していたわけではない。
あと熟練者なら鉄砲より弓矢のほうが威力は強い。 関東ばっかに拘ってたっていうけど
越後から軍隊が移動できるルートがあって現実的に侵攻出来て行く価値があるエリアとなると
上杉謙信から見ると関東くらいしかなかったってのが正解だと思うよ
上杉謙信側から見ると蓋されてるんだから 上杉軍の鉄砲保有数は500丁と言う話があるからな
ライバルの武田の方が鉄砲保有数では圧倒的に上だったみたいよ
東国で鉄砲の普及が遅れたのは間違いないが北条氏政の辺りでは長篠の戦いとほぼ同数の鉄砲の動員がされているから意外と普及されたからはかなり積極的だったと思われるよ
長篠の戦いも武田の鉄砲隊が先鋒隊だったみたいだし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています