あの人は“勝ち組”だ──と言ったら、どんな人のことを思い浮かべるだろうか?

きっと何かしらの成功者、多くの場合は経済的な成功者のことをイメージするだろう。逆に何かしらがうまくいっていない人のことを“負け組”と呼んだりもする。

しかしこれは比較的最近定着した言葉の使い方だ。かつてこの“勝ち組”そして“負け組”という言葉が、現在とはまったく違った(そしてかなり物騒な)意味で使われていたことは意外と知られていない。

1945年の太平洋戦争終結時、「日本は戦争に勝った!」というフェイクニュースを信じてまった人々がいた。彼らを“勝ち組”、逆に敗戦を正しく認識した人々を“負け組”と呼ぶのだ。両者は激しく対立し、ついには殺人テロまで起き20人以上の死者が出る事態にまで発展した。そんなことあったの? と、驚く向きも少なくないだろうが、あったのだ。ただし日本ではなく、ブラジルで。

戦前の日本は近代化に伴う人口爆発への対策として国民の海外移住を推進しており、ブラジルにも20万人以上もの日本人が移民していた。そのほとんどは農業移民。当時のイエ制度では家督を継げなかった農家の次男坊や三男坊が、移民会社の「ブラジルなら自分の土地を持って稼げる」といった誘い文句を受けて移住を決意するというのが典型である。

言ってしまえば国家的な「口減らし」なのだが、当のブラジル日本移民たちは戦前の大日本帝国イデオロギーを強く内面化しており、自分たちはアジアの一等国からやってきたというプライドを抱いていた。移民とは言ってもブラジルに定住する気はなく、いずれ祖国に凱旋することを夢見る「出稼ぎ」としての移民だったのだ。

そんな日本移民の大半は、サンパウロ州の奥地で「殖民地」と呼ばれる農村を形成し、日本人だけで暮らしていた。そこでは日本語で日常生活が送れるので、日本移民の多くがブラジルの公用語であるポルトガル語をさほど覚えなかった。子弟にも日本語教育を施し、天長節(天皇誕生日)をはじめ日本の暦に合わせた行事を行っていた。日本移民の間だけで流通する邦字新聞も発行されるようになった。

政治学者ベネディクト・アンダーソンは祖国から離れた土地で祖国を想像しその一員としてのアイデンティティを強く抱く「遠隔地ナショナリズム」について論じているが、日本移民たちはブラジルに同化することなく、あくまで大日本帝国の臣民として生きようとしていたのだ。

ところが太平洋戦争が始まるとブラジルは連合国陣営に加わり、日本とブラジルの国交は断絶してしまう。戦争が始まる直前、邦字語新聞の発行も禁止され、ポルトガル語がわからない日本移民にとってブラジルは情報の隔絶地になってしまった。

その上、ブラジル当局は「敵性国人」となった日本移民に弾圧を加えた。多くの日本移民が資産を凍結され、日本人街には立ち退き命令が出され、家財道具一式を官憲に奪われるというようなことも頻繁に起きた。

そんな日本移民たちにとって祖国の戦況を知る唯一の手段が、日本から辛うじて届く短波ラジオ、日本放送協会(のちのNHK)の海外放送「ラジオ・トウキョウ」だった。この放送は日本軍を優勢とするいわゆる「大本営発表」を伝えていたが、多くの日本移民はこれを信じた。「今は弾圧を受けていても、いずれ戦勝国民として祖国に凱旋できる」という希望を抱いていたのだ。

その一方で、開戦後、一部の日本移民が生産する薄荷と生糸の価格が高騰すると「薄荷と生糸はアメリカで軍事物資になるから『敵性産業』だ」いう根拠不明の噂が流れた。これらの生産者が「国賊」と非難され、焼き討ちを受けるといった事件も起きた。根底にあるのは大きく儲けた者への嫉妬心と考えられるが、気にくわない同胞に「国賊」のレッテルを貼り攻撃するというナショナリズムの歪みは終戦前から顕れていたのだ。

そのような状況で、1945年8月15日を迎えた。

日本時間の正午、ブラジルは日付が変わった真夜中、ラジオ・トウキョウがほぼリアルタイムで玉音放送を流した。その後もラジオ・トウキョウは敗戦の報を流す。しかし大半の日本移民は、これをそのまま受け止めることはできなかった。

文語調でわかりにくく、音もよくなかった玉音放送を「勝利宣言だ!」と真逆に解釈する者が続出したのだ。それはまさに日本移民が待ち望んでいたものでもあり、日本勝利のフェイクニュースは瞬く間に広まった。

1945年時点では、日本移民のおよそ9割が日本が勝ったと思い込む“勝ち組”となった。しかもただ日本が勝ったというだけではなく、「日本が新型兵器で米艦隊を殲滅した」「戦勝使節団が迎えに来てくれる」など、フェイクに様々な尾ひれがついていった。

https://president.jp/articles/-/52069
続く