姉妹は福岡県出身。普通のサラリーマン家庭で育ち、被告は地元の高校を卒業して化粧品関連の仕事をしていた。約60年前、「喫茶店を開きたい」という姉とともに上京。同居生活を始めた。

結局、姉は会社勤めを選択。被告は家事を担った。ともに未婚で、姉の退職後は、2カ月に一度支給される計約20万円の年金を支えに、つつましく生活した。2人で旅行することもあり「(北海道の)層雲峡が一番楽しかった」という。

だが、事件現場となった北区内のマンションに引っ越した平成28年ごろから、姉は体調を崩しがちになった。親はもちろん、他のきょうだいもすでに他界。周囲に頼れる親族はおらず、被告は一人で介護を始めた。

翌29年からは週1回の訪問看護とケアマネジャーの助けを受けるようになったが、姉は31年に排泄(はいせつ)や入浴、衣服の着脱に全面的な介助が必要な「要介護4」の判定を受け、令和元年5月には自宅で転倒し、寝たきりに。ケアマネジャーは何度も特別養護老人施設への入所や生活保護の受給を勧めたが、被告は「入所費用を払うと生活できない。生活保護は絶対に受けたくない」と拒否し続けた。

理由は、幼い頃から両親に言われていた「人様に迷惑をかけるな」という教えだった。おむつの交換や身体を拭く方法を看護師から学び、一人でこなした。証人尋問で出廷したケアマネジャーは「訪問看護が来る前に仕事が終わっていた。普通なら音を上げて、介護サービスを使っている」と証言した。

被告は公判で「姉との生活は楽しかった」とも語った。介護中は二人で他愛のない話をし、姉が満足にしゃべれなくなってからはホワイトボードを使い筆談したという。だが、2年1月には最も重い「要介護5」に。貯金も尽き、事件直前には訪問看護をやめ、家賃も滞納するようになった。

そして事件当日。姉が発熱し、被告自身の体調も悪化。「これ以上介護できない。殺すしかない」と決意した。「首を絞めるのは残酷でできない」。ウエットティッシュで姉の口と鼻を2〜3分ふさぎ、謝りながら手を握った。抵抗されることはなかった。その後、姉の後を追おうと自らの首を手で絞めたが苦しくてできず、110番通報した。

「姉が一番好きだった。姉に申し訳ない」。逮捕後、取り調べでこう供述した被告。耳は遠くなり、公判には補聴器を着けて臨んだ。患っていた軽度の認知症が進行し、会話がかみ合わないこともあった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ad7950e4d91f462e675a4955fbf7f4d53dcd2d97