1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとの間で太平洋戦争に突入し、間もなくアメリカとの間にも戦いを開始した。マレー作戦と真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。
なお、開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。

この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。
しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった[28]。
同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。

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