関ヶ原で西軍を勝たせるには [399259198]
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大谷吉継とかそこにいる意味完全に無いじゃん
こいつらが裏に回って裏から奇襲仕掛ければよかった >>4
鶴翼は中央の一点突破に弱そうだから中央の後詰めに踏ん張りの効く奴置いといた方がよさそう 大垣城ベースにして無駄に動かず、立花他の合流を待つしかないだろ
無駄に戦線拡大してたのもあるし
なんで1日で決するような会戦にしたのかね 毛利が徳川本陣の裏突いたら終わりそうだけどなんで動かなかった?吉川に至っては裏切るし 寝返りと傍観の確約が取れた上での布陣だからこの時点でもう西軍の勝ちは無い 吉川が家康の本陣つけば東軍の前線を後退させなきゃいけなくなるから余裕やろ 戦争というのは開戦した時点で勝敗は決まってる
開戦までに根回しやら士気をあげるやらを怠らないこと >>21
立花その他は関が原に向かってる最中だったんだってば
大坂からの援軍を待たずに決戦しちゃう三成ってなんなの? ゲームでは絶対に合戦に出さない武将がいるよな
安国寺とか織田有楽とか 武田信玄のコスプレして「オラァ!」って凸ったらウンコ漏らして撤退するのでは🤔 秀頼来てたら終わってたのと霧が凄くて徳川側がよ見えなかった。
それと一日でケリがつくとおもつてなかったろ。
とにかく時の流れだよ。 毛利が大軍を動員できるのに分散させたのは駄目だな
むしろ中央突破組だろ 対戦車ヘリを100機用意して、徳川の本陣にロケットを打ち込み、機銃掃射する。家康を討ち取れば完全勝利だ。
なろう小説はそんなんだろ。 西軍大名の切り崩しに成功してたから家康はあの場所に陣取ったんだろ?
小早川と吉川の籠絡に失敗してたら違う陣の張り方してたっしょ >>12
立花隊間に合ってたらそれこそ歴史かわっただろうな 毛利の配置が悪すぎる
こいつらも既に裏切ってるんだろ? 三成は大谷刑部と島左近くらいしか友達がいなかったし無理 そもそもなんで秀頼はともかく輝元出てこなかったの?
輝元がいれば小早川とか吉川だってまともに働いてたろ 関ケ原さえ勝ってたら今頃大阪が首都だったと思うと悔しくて仕方ない子供の頃からずっと 正面決戦を避けて小部隊での局地的勝利を積み重ねながら近江南部まで撤退して瀬田の唐橋落として対峙してたら状況変わってワンチャンあるかもねって
幸村のとーちゃんが言ってたらしいが沿道にある大名の城全部落ちちゃうし 首謀者である三成の佐和山城も落ちちゃうから採択されんだろね >>36
国許へ帰った後に鍋島から完膚なきまでにボコされてるのにか >>41
維新に支配される大阪人の低能さを見ると、世界にとって幸福だったと思う。家康は素晴らしい。 >>41
そうはならんやろ
西軍大将が毛利なんやぞ
どのみち豊臣政権は維持できず
毛利幕府ができて広島が首都になってしまうやろ
(毛利が大阪に首都移転する可能性はあるが) 戦国最強であり、実質無敗の上杉謙信だったらこの3分の1でも余裕で勝ってしまうんだろうな 関ヶ原って意外と有名どころいないのな
最上氏も伊達氏も上杉氏も不参加とか 淀を暗殺して秀頼ヲ出陣させる
これで100%勝てたのに三成はクソ雑魚 >>41
他責の塊みたいな言い分だな
これまでもこれからもいい人生送らなさそう 秀頼が来れば勝てたってよく見るけど言うほど勝てるか?
例えば安倍晋三(3歳)を岸信介の孫って理由だけで担ぎ上げて選挙勝つと思うか? 吉継も事前に小早川裏切るって分かっとったなら別動隊だけおいて放置しとくなよ
結局別動隊の奴らが動揺して総崩れになったやん >>12
城を囲まれたら身動きできなくなる
石田宇喜多らこそ騒乱の中心人物なのに
他の連中は日和見同然
徳川方が抑えの兵を残して西進したらどうする 実際松尾山の軍隊が形だけでいいから西軍のままだったら西軍が勝ってるし >>58
錦の御旗みたいなもんだからな
安倍晋三(3歳)は被選挙権ないが秀頼は家督相続してて豊臣家の当主なんだから行ける 三成は毛利に天下取らせたくないから本陣に入れなかったのか?
なんで山に配置したのか
どう考えても平井川下流に展開させて下から側面攻撃だろ
中山道に押し込めば展開できずに挟撃されて終わるだろ >>60
>西進したら
秀頼のいる大阪城を攻撃するのか? 西軍の総大将の毛利輝元と家康が内通してる時点でどうにもなんなくね
意味のない戦だよ 秀吉の遺言を無視する謀叛人の豊臣奉行衆を毛利輝元が即時打ち首すればよき 裏切らなきゃ西軍が有利だったんだがな
宇喜多だけで相手を押さえつけれたし 大谷の陣あたりから単騎駆けで家康の首を取れば楽勝よ 戦国板の「関ヶ原で家康が裏切ったらどうなったの?」ってスレ草生えた 唯一の親友の大谷吉継にも説得するまで無理だ諦めろって言われてたし
他の武将も東軍に参加しようとしてたのに無理矢理引っ張ってきたのもいるし
味方もやる気ないどころか裏切る予定だし最初からなるべくして負けたよな 昔からいわれてるけど輝元自体が出陣してくれば毛利が動くから勝ちだろ やはり秀頼が動くべきだった。
秀頼が関ヶ原に向かってる、と派手に喧伝しながら進軍すれば違ってたはず。 >>79
太閤の思し召しを守ったの
代わりの天下さまとして、てるもと・いえやすのどちらかは在城せよと 朝鮮出兵とか秀次一族皆殺しとかで求心力低下がやばかったろ
そりゃもう秀吉死んだら終わりよ >>40
輝元は火事場泥棒するのに忙しかったから
輝元からすれば、戦争後のことを見据えて、石田が勝っても家康が勝っても
自身の発言力を高めるために少しでも多くの領土をとって起きたかったから 前田利長とかいうクソに家を継がせない
これだけで西軍東軍逆転するよ 毛利が言ってる奴は南宮山の毛利勢と話がついてるからこそのあの布陣なので、毛利が参戦する前提なら東軍の対応も変わるから無意味な仮定だと気付くべき >>71
馬鹿をいえ
家康は秀頼の命令を受け朝廷からも宣旨を与えられ上杉討伐に出かけた
正義は家康にある
大坂に入って君側の奸を取り除くまでのこと >>53
そっちはそっちで秀忠とかと戦ってるんだよ
上杉も倒せずに関ヶ原に来れなくなったから
秀忠が無能呼ばわりされる所以となった出来事でもある >>86
結果として豊臣政権が潰えたから
西→東の内通などがのちに伝わってるだけ
実際には、福島正則などは衆目一致するほどにもっとも動揺していた。いつ西方についてもおかしくなかった
運良く残った(ほとんどは闇に葬られてる)三成の書状にも福島勢の向背について書かれてるし >>90
布陣が変わろうが輝元が出てくれば吉川には止める力がないから毛利参戦が確定するわけでそうなれば陣なんてどうでもまず西軍負けることはないだろ 内奥が確定してる時点で無理だわ
大将が大阪城いて来てねえししかもその軍自体が内応済みとかアホやん >>90
吉川とは完全に話ついちゃってるしな
というか、一見西軍有利に見えても浅野や山内みたいな予備軍が家康本陣の後ろにいるんだよな 秀忠がいたら…とか輝元が動座していたら…とかよりなにより、
西軍は大津に15000がいたろうが。しかも前日に勝利して士気の高い 別に輝元自体は家康と内応なんてしてないだろ。ナンバー2の吉川が完全に内応してて行手塞いで進めなかったけど毛利家全体はやる気あった >>98
なもん後付けだよ
勇み足で突出しちゃった爺は行軍隊形のまま西軍の陣地に突っ込んでる >>99
新幹線のない時代に大津から関ヶ原に移動は無理
ましてや前日に戦闘してるんだから休息が必要 関ヶ原で敗れた毛利家が400年経った今日本を支配してるって面白いよね 石田三成の人望のなさが全てだな
利家があと5,6年長生きしてたら
秀頼自ら大将として出てこれる年齢になってたし
そうなったら家康に味方するのは家康の直家臣だけになって秒殺よ >>108
それは、「なんで家康が自分から死ににいくような態勢で敵陣地に突っ込んでいったか」の理由としてのほうがわかりやすい
大津が持たなさそうなの知って(落城はおそらくギリギリまで知らなくて)死ぬほど焦ってた。小姓相手に野戦に自身ニキな自慢話してたけど、闇→濃霧であらゆるものが不確実な中を無謀につっこんだだけでも実はメンタル激弱なのがよくわかる 普通に毛利全体がやる気なら普通に勝ったよ
吉川広家が悪い >>110
それでも日本の半分を動かしたんだから立派だとは思う
家康も人物は認めてたみたいだしな >>4
小早川裏切るんじゃね?
って開戦前からバレてたからその抑え
抑えられるはずもないが 「その場で刺し殺しとけ」と親父に長政が言われた逸話が(作り話にせよ)流布するくらいの乱世だぜ?
広家程度の保険は他も多かれ少なかれ懸けてんだよ
南宮山が動かなかったのは結果だ結果 輝元が現場にいなければ吉川が邪魔して毛利は動けない。輝元出てくれば、吉川も抑えられないから、毛利が普通に戦う。で宇喜多が超強力だから少なくともあの場での現有兵力で戦闘なら間違いなくどう陣立てしようが西軍勝ち。 秀秋のとこに
あの有名な柳生の、それの兄ちゃんがいるよね 「裏切り」ではないんでは?
単に石田三成の謀反に巻き込まれてた人達が戦場で自分の立場示しただけ 吉川広家も悪いけど秀元なんかを責任者にして行かせた輝元も悪いよ
輝元自身が行けば吉川広家なんぞが妨害出来なかったからな
秀元を大阪城に残して自ら大将として行くべきだった 特に策など一切必要としない
毛利家一門である吉川と小早川を毛利が掌握できていればどんな陣形だろうが負けようがない >>119
そうすれば毛利政権か
となると明治維新は逆サイドで起きたんだな >>121
近年(でもないが)の研究では家康の違反行為の数々が嫌というほど挙がってるからな
穢土…もとい江戸での寺領横領は秀吉健在の頃からやってた。そのせいで1630年代ごろまで動静を表沙汰にできず、江戸市中の徳川時代初期の状態がブラックボックス化してしまってる 万が一、徳川家康が関ヶ原で死んでたら、その後の日本ってどうなってたの? >>132
世良田二郎三郎が家康のふりをするから全く変わらない 毛利が動いていて
小早川が裏切らなかったら
この戦いはしのげたかもしれんが
家康は秀忠のどの温存兵力があるから
まあその後どちらに転ぶかは展開次第だろうね 吉川広家って現実見た忠義者みたいになってるけどクソ無能だよな
そもそも普通に戦ってたら勝ってたわけで
小早川も毛利が普通に戦って優勢なの確認したら寝返ってないだろ
大将が動かさないとかとんでもないことやったのに黒田なんてゴミに内通相談して約束反故にされ
危うく主家が無くなって主家乗っ取りの大反逆者の汚名被りそうになったから
慌てて主家存続で動き回るクソバカ
こいつが1番の無能で戦犯 >>129
謀反を起こしたのは東軍だろ
政権を運営してたやつはだいたい西軍なんだから
それを豊臣古株の奴らがクーデターを起こしただけだ そもそも結果的に天下分け目の決戦になっただけで
戦い前はそんなつもりはなかっただろうに >>137
秀吉亡き後の豊臣政権を運営してたのは家康だよ >>137
上杉討伐の指示出したの豊臣だぞ?
軍資金と兵糧もらってる
反乱軍に軍資金わたすか? そもそも、家康は小早川が裏切らない展開や毛利が動く展開に
ならないように、根回していたから
それが期待出来ないのであれば、家康はここで戦わなかったよ
こういう展開になるという公算大だからこと戦った
だから西軍は勝てる見込みは実はなかった
家康の策略にハマった >>132
五人組は三成が広めたそうだし、性格からして大衆相互監視政策はそれほど変わらないかな
豊氏政権ではその成り立ちや創業者の権力基盤の都合で地域の大勢力を削ることが難しかった。ほかでもない徳川の傍若無人ぶりがそれを示してる…とはいえ家康のような突出した卑怯者を粛清できれば、それが強い抑止力となっただろう
三成にはそれがよく見えていて、クソアホの正則には見えていなかった。ために結局自身も取り潰された
秀頼個人は家康以降の将軍歴代の誰よりもおそらく秀でていたとみられる。ファンタジーでもなんでもなく歴史的にその可能性が高い
出版事業に自から関わったり、進取の気性があったことが知られてる 他戦場は引っ掻き回してたから関ヶ原で戦わないはアリやろ 西軍バカって
家康以後の江戸幕府による大名統制を見てそれが当たり前のことで
家康以前も普通だったって勘違いしてるだけだよなw
家康や秀忠の手柄を勝手に秀吉のものにしてる 考えれば考えるほど勝つのが当たり前に出来てるよなこの布陣図
司馬の創作だっけ?
どちらにしろ数年前から計画練らないと無理そう >>149
家康自身が国替えさせられてる
また吏僚を小規模領主とし、軍事的な功績のみに囚われない大局的な権力構造を企図している
ていうか、秀吉ってガチの天才だぜ?
俺らが考えるようなことはたいてい考え抜いてるとみるべき >>136
おまけに周防長門の小国に減封されるというアホっぷり そもそも西軍て誰が総大将なのかすら
曖昧だから寄せ集め集団で
まあ家康に負けたのは当然の結果かも 西軍が勝ったら、豊臣と上杉と毛利の権力闘争が始まるよな 上杉家が徳川化する、毛利はかつての細川家以上の権力者、宇喜多も独立勢力となる
内紛必至やろ >>152
あそこで動かない時点でちょっと減封くらいで済まされないと意味なさすぎるよな
あそこまで減らされるの分かってるなら尚更積極的に戦ってたし
大将の毛利を動かずに留めるなんてとんでもない裏切りさせて
その対価は危うく改易っていう
何の根回しすら出来てないクソバカ無能の裏切り者だよ吉川広家は 小早川て現実にいたらクズやな
勝ってる方に付くなんて考え方はエグイ >>156
そもそも家康一人が元凶なので
徳川の実権ある当主が早くから秀忠だったら秀忠はおそらく恭順してたろう
逆に前田の倅が親父程度に状況を深刻視していたら(利家は元気なら洛中で家康と戦うつもりだったらしい)、やはり親父のように徹底的に戦っていたろうな これで徳川本隊が居たらどんだけワンサイドゲームなんだよ
三成人望無さすぎて可哀想 >>34
半村 良というラノベ作家が似たようななろう系を既に書いてる >>162
結果的には加賀百万石安泰でよかったじゃん 西軍て今だと立憲民主党みたいなもんだよな
なんだか凄い寄せ集め集団だからすぐに裏切りが発生するあたり >>154
総大将は毛利だよ
改易逃れるために三成に全責任被せたけど >>160
それが幻想なんだよな
関ヶ原自体が家康側の致命的な認識不足による偶発だし
逆に三成はどんなに東海道の情勢が悪化しても(本来ならはるかに東で戦うつもりだった)
あらゆる準備を整えてた
松尾山も1ヶ月前に補強工事入れてる >>163
三成じゃなくて真田信繁だったら勝ってたかもな >>159
実は輝元含め毛利全軍西軍にぶっこんだとしても東軍に勝てない状況だったんじゃないの?
関が原が偶発的に起きず秀忠本隊も間に合っていれば勝てる見込みが少なかった(と当時の人は思っていた)んじゃなかろうか
まあだとしても毛利系の動きはバラバラだったけどな 淀を暗殺させて、家康のせいにする、三成は非情になりきれなかった。戦争向いてない 毛利が動けばいいだけじゃん
勝利して徳川本体来る前に撤退 総大将の毛利が徳川に調略されてるから親族の小早川も一緒に裏切るのは当然なんだわな 秀頼の出陣は無理でも総大将輝元の毛利本隊はさっさと出陣しないと駄目だった
そうすれば大津城攻略も速く済んで猛将立花宗茂や毛利秀包ら大津包囲軍を関ヶ原本戦に投入できた >>170
「秀忠本隊」なんてのも後付けでしょ
「倅【信康】が生きていたら…」と関ヶ原の家屋が嘆息したとまことしやかに言われてた時期もあったが、
最近の研究だと信長からの勘を受ける前から信康と家康が対立してたことを示す資料が注目されてるくらいだよ
大坂の陣では家康があからさまなデマを大規模にプロパガンダしてた
あれはそういう輩 後2、3日挙兵遅らせてれば福島白坂で上杉と会戦してぢろ 家康というと石橋を叩いても渡らないイメージおるけど、小牧長久手やるくらいだから、博打的な戦も辞さないよな 三成に人望が無く離反が起きるアレな団結具合だった
大規模寝返りの小早川、動かないよう話つけてた吉川毛利 上杉とガッツリ交戦して大津の兵士まで関ヶ原に動員出来てたら
小早川が裏切ってても分からんかっただろうな
しかも立花宗茂入りの15000人 >>116
日和見なんだから大谷が突っ込んで優勢になってる方がより裏切りにくい感じがする >>179
長久手の戦いて言えば
たった1日で西軍2500人死んでいるらしいけど
原爆もない時代に流石に数が多いし
昔の歴史て結構ガバガバな気はする
関ヶ原の家康本体3万人もそんなにいたの?て思うよ
関ヶ原の地形見ると20万人いてさらに戦闘する余白はないよ 戦国時代なんて栄養失調ホビットだらけなんやから
フィジカルエリートのプロ野球チーム1チーム送り込めば両軍諸共壊滅させられるやろ ,,ll, ,,,,,,lllll,
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東軍というか徳川家康はまさに嘘と裏切りと虚勢とメディア統制で
己の姿を捏造してる
ここは間違いなくそう >>13
関ケ原以前に毛利が徳川と和睦を結んでいたから
しかも「毛利勢以外の西軍には毛利・徳川の和睦を伝えない」
という毛利の畜生っぷり
最大兵力の毛利勢抜きの西軍では
東軍に勝ち目がないから「西軍敗北確定」が関ケ原 ま、官軍=西軍として
白河表(会津表。本来の決戦予定地)で東軍を叩きのめして徳川まるごと滅ぼしてくれたから、それなりに溜飲は下がる
この点は長州の忌み兒たる安倍らが持ち上げてるとはいえ明治政府の良いところ >>192
マジレスすると家康が戦国の世を最後まで勝ち抜いた一番の理由って朝廷工作の上手さだから、それは無理よ
戦国時代好きは皆、戦での戦力や商業の方には注目するけど
徳川幕府樹立の影のMVPは京に常駐して好きに生活させつつ完璧な朝廷工作を成した今川氏真だからな
アイツの人生を伝記や書物で追えば分かるが、信長の野望とかでの無能能力値何かとはかけ離れた
北条家から徳川に落ち延びる際の何故か早川殿が着いてきてくれた上に家康の元まで着いた時も全く金に困った様子は無かった身綺麗な描写とか
どう考えても理解に苦しむ謎が多すぎる人物だからね >>197
うちの先祖に家系図差し出させようとしたゴミクズなのに? 世界大戦の頃に比べたらどっちが勝ってもおかしくなかった >>58
関ケ原戦後に司馬遼太郎史観で
「豊臣恩顧」とされる大名が秀頼を見捨てた件だけで明確だろ
豊臣家の求心力は「秀吉の軍事手腕」に
あるのであって「血筋」にはない
秀頼が来た所で、徳川方が御所に向かって
砲撃した長州藩のようになるだけだし
毛利が徳川と和睦する方針も変わらんだろう みんな書いているが、秀頼参戦だろ。
関ヶ原の時点では、秀頼に刃を向けるのは徳川本体くらいだろ。 >>198
1度、ちゃんと研究してみろ
異常な金運と立ち回りで、調べれば調べるほど1人だけラッキーマンか何かが紛れ込んでるんじゃないかとしか思えないからな 西軍には統一した意思がないから
強力な天下取り思想か強力な家康への危機感で諸藩が一体化してないと全軍が軍隊として動かなく烏合の衆になるから 秀頼出陣て言うけどそのころの秀頼て今で言うと小学生1年ぐらいだろ?
結局、大阪城にいる本体て誰が指揮するんだろ >>137
家康は五大老の筆頭
秀頼の命令で上杉討伐してる 追討令が出ても西軍はまとまらないだろ
長き下準備で西軍の地が一体化する必要がある >>195
毛利・奉行方は当時としては官軍と見なされていない
朝廷の許可の元、上杉討伐に向かってる徳川方が官軍
毛利・奉行方の決起に朝廷は何のお墨付きも与えていないのも
それを裏付けている 秀頼自身はおられずとも、黄母衣衆は参戦してるんよね現場に
>>204
主君に代わっての御公儀による仕置とは本来そういうもの
徳川の強引な會津仕置がワンマンなだけかと 西軍と言ってはいるが軍隊のような結束力がない
烏合の衆だよ >>202
じゃあなんで大坂の陣では刃を向けるようになったの?
大坂の陣でできるならば関ケ原でもできるのでは? >>212
やらかしたから後々までそれが祟って
まさにその意趣返しで滅ぼされたんだよね松平さん…🥺 結局秀吉が馬鹿だったんだろ
豊臣家の結束力を強めなければいけないのに重要な人物を消してしまったんだから 天下分け目の関ヶ原ラッシュならヒデアキちゃん救ってハッピーエンドだったよ >>212
淀の方のヒステリー
関ヶ原までは石田と徳川の家臣同士の内紛だっが、石田派が居なくなり、豊臣恩顧の西国大名は全て徳川になびく形を作り上げて大阪を孤立させて面目を潰して淀の方ギャオォォォォ 流れで言っても織田家を立てずに豊臣で天下を取りに行ってるんだから
豊臣を立てずに家康が取るのも流れだわな >>218
三法師さまは西軍についてるんだよなあ
それも家臣の反対を押し切って ちょうどセンゴクがそろそろ関ヶ原に入るな
秀吉が死んで即関ヶ原に行くのが駆け足すぎるが 織田恩顧はどこいったん?🤔
恩顧とかいう豊臣にしかくっつかない単語に意味あるの? >>219
結局、秀頼が天下を受け継ぐ理由がないんだよ
そうでなければ織田が天下を受け継いでいないとおかしい >>177
秀忠本隊ってのは後付けじゃないでしょ
家康の率いた部隊は小身の家臣が多くて旗本衆中心だから防衛的な部隊で家康の直衛だが、
秀忠が率いた部隊は大身の家臣が多く攻撃的な部隊だった
徳川家の中ではやはり秀忠部隊が本隊だよ
家康は決戦で秀忠が率いた大身家臣を先鋒にしたかったが毛利輝元が秀頼と出陣してきたら家康が賊軍になるので決戦を急いで、
福島や黒田、藤堂、加藤、細川ら豊臣恩顧かつ中堅大名らを秀忠部隊の代わりに先鋒として使った >>222
秀吉は秀信を粛清するどころか信長台頭の根拠地(岐阜)に封じてるってことだよ
さらに当人がそれを受け入れてる
対して家康はどうか? 家康は頭はいいな
秀頼に権力譲渡に成功して、不満分子である豊臣家を排除して
この世を去ってるんだから 司令官を交代しなきゃ無理だわ
九州あげる約束して官兵衛連れてくれば勝ってた >>227
伊達に奥州全部上杉に関東全部やるで完璧だな
どのみち豊臣家は力失うとは思うが >>213
明治以後も徳川は滅んでないだろ?
まだ司馬遼太郎史観に毒されているの?
明治維新の倒幕方に徳川大名がついていて
明治維新が「薩長対徳川」ではなく
「薩長・徳川分家対徳川本家」だったことは
当時から指摘されている
『一外交官の見た明治維新 下』(1960)
128p
彼が越前と尾張の二候の行った勧告に従うことを拒む場合は、
薩摩、芸州、長州、土佐などが武力で
屈服させることに決したというのである。
道理で、慶喜は逸早く遁走したわけだ
168p
今では徳川の敵方になっている越前、備前、因州の
諸侯が、徳川家創建者(訳注 家康)の子孫であったことは
注目に値した。 織田を差し置いて秀頼が天下を受け継ぐなら家康にとっては自分が天下を受け継ぐのは当たり前のことだから
家康のほうが格上で実質的な権力なんだから
それは流れでしかない >>231
それ裏を返せば
恩顧どころか一族一門に裏切られて政権まるごと滅ぼされたんやで 家康から初めの頃の代は徳川家が安定するように配慮している
豊臣とは違うわ 西軍の将は裏で大体家康と話ついてたからな
正直無理ゲーやろ 赤座、朽木、脇坂、小川がファランクスで中央突破してたらいい勝負になる >>236
実はそうでもない
前半は西軍優勢だったし小早川次第で歴史は変わってた
秀忠の大遅刻が致命的な大誤算だったからな 小早川秀秋が自分の判断をどう感じていたかは、その後の短命がよく物語ってる でも、そもそも1の配置図も創作だし、
一番古い資料も10行程度しか書かれてない。
小早川も松尾山占拠した時点で裏切り行為だったし、
小早川に後ろを取られた事を危惧した石田が夜中に大垣城を出て、
更にそれを福島や黒田が追っかけた、くらいの情報なんだよね。
後世の脚色されっぷりは本能寺以上かも。 >>225
三法師・信雄は受け入れただけで
当時としては正しい行為とは見なされてなかったのは
以下の話で明らか
「フロイス日本史」より
>がぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことには
>なんら構わぬのみか、為し得ること万事において
>信長を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと
>不断の努力をした。
>彼は安土山にいた信長の孫にあたる少年(三法師)を
>同地から追い出し、地位も名誉もない一私人として
>ある田舎に留めしめるように命じ、彼が後に天下の主に
>取り立てられる希望をまったく断たしめた
…
>関白は信長の息子御本所(信雄)に対しても、
>国替えをして他の二ヵ国を与えたいと伝えた
>これにつき信雄は異議を唱え、従来の領国伊勢、尾張は
>父が残したものであって満足しているので、
>もとのままにしておいてもらいたい、と願い出た。
>関白はこの返答に激怒し…ただちにその領国を没収した。
>かつて関白は信長の家臣であり、
>その人物(信雄)はほかならぬ信長の息子であったこと…などを
>かんがみて、この出来事は
>日本中に言いようもない恐怖と驚愕を与えた >>242
たぶん陽動作戦だと思うよそれ
秀秋は先に家康の家臣を攻め殺してるんだよ
唐入りのときの総大将コンビ(秀家との)で
ただ、若くてバカだった >>234
鳥羽伏見以前…薩長が優勢に立つ前から
尾張・福井・備前などは倒幕型についてる
元々本家・分家の対立があって、それに薩長が便乗した感じ >>240
桶狭間なんて場所すら判明してないからな
なかったと考えるのは自然 前田利家
小早川隆景
豊臣秀長
この辺の関ヶ原起こさないで済ませられる人間が
秀頼元服まで生きてたらなんとかなった
秀吉も含めて連続で死んで家康だけ生き残って終わった まず有名な布陣図は全て後世の創作なので
豊臣正規軍たる徳川方が賊軍三成勢を鎧袖一触で殲滅したが正しい 毛利勢が全力出せばもうちょい変わってたよ
あと小早川秀秋の裏切りね >>248
家康が天下取るタイミングが来る前に家康が死ねばどうなったやろな >>249
とすると本陣で親指の爪噛みちぎってキレてたあの家康さんは一体…
伝令に槍振り回してたあの発狂ぶりは… 鶴翼って本陣真ん中に置くんじゃなかったっけ、なんで端っこなんだよ 関ヶ原の軍隊配置図自体が根拠なしってやばいよな
ジャップの歴史で一番有名な地図だろあれ、、
そんなもん大事にして歴史を語るとか
頭おかしいよジャップ 令和の軍師たる我が教えよう
おね様(高台院)を説得して味方につけるのだ >>254
いうて松尾山下の即席陣地跡まで調査されてるし
松尾山に向けての陣だったとさ
ただし秀秋が「突如として」松尾山城に着陣する一週間前には造ってたそうなので
つじつまがいろいろおかしいことになってる >>254
あれは兵棋演習のためにこしらえた創作なンだわ 関ケ原の初期配置から各ユニット勝手に判断して動くから命令できないんでしょ
初期配置を変えるか小早川をなんとかするか
それまでの流れをなんとかするかやん 秀頼秀頼言うけど
この段階じゃただの家臣同士の争いたから
豊臣家自体がどっちに着くなんて決めとらん 関ヶ原の話聞いてると西軍は一部除いて士気も低そうだし
味方にカウントしちゃいけない人を引くと兵力は互角以下だしで
どうやって前半攻勢に出てたんだろうかという気がする 誰か超軍師様いても各武将が命令や配置に従ってくれるとも思えんし士気も微妙だし
特定の有力な軍を率いて勝ちって周りの士気を上げてくしかないわ >>258
実は淀君とも仲良くて主戦派だった説がもちあがっているな 秀吉いたら裏切り見抜いてそもそも戦わずに済ませそう >>267
当日は濃霧でただの遭遇戦で、戦略も何もなかった
戦いの終わりが「関が原の戦い」と呼ばれてるだけでそれ以上でもそれ以下でもない 黒田がついたほうが勝つに決まってる
親父は裏で毛利によく考えろよと釘刺してるし息子の働きはご存知の通り
つまり開戦前にこいつら何とかしなきゃ無理 因みに三成挙兵を聞いた時に
淀殿は三奉行名義で家康と輝元に
三成討伐を指示してる
輝元が大阪城に入って来て
秀頼のお墨付きを求めた時も
頑として拒否している
嫌儲は司馬遼嫌いの癖に
関ヶ原に関しては司馬史観に囚われてんだな おねは宇喜多秀家や大谷刑部のおかんを初めとして西軍決起促してた説のほうが濃厚になってきたしな
淀殿や片桐且元等の大坂組はどうも家康に敵意を感じられない増田長盛もイマイチやる気がない前田玄以もそう
大坂組でやる気があったのは馬回り衆と奉行では長束正家だけでしょあとは堺奉行だった三成の兄か 徳川に勝てても次の人になるやつだぞ
朝鮮出兵で地力を削られた大名ばかりだろ、西軍は
一回目は旨味もあったかもだから総大将の宇喜多は良しかもだが、二度目の総大将の小早川とか旨くもなんでもねぇしな
西軍の多くが豊臣に信奉してはいないし、その丁稚の石田とかリーダーとか無理なのよな この布陣図って明治になって陸軍が想像で作った奴だろw
石田三成他大半は山中に布陣して開戦間もなく東軍にフルボッコされて終わった。
小早川は最初から敵軍だし、家康の問鉄砲も嘘。 実は毛利が首謀者だったんだろ?
だから石田一族に対しての処分も甘かった 家康が上杉討伐に行っている間に反徳川が挙兵するのを見越して伏見城に鳥居元忠を置いたというのもウソ? >>274
マジかよおねのために裏切った秀秋がアホみたいじゃん 裏切りがなく指揮系統が普通なら
ようが普通なら余裕で西軍
この戦場を作った奴の
統率力に情報力は普通に高いんだわ 朝鮮出兵で全く領土を獲得できなかったから当然恩賞もロクに払えなくて
どっちにしろ内戦と領地再分配は起こっていたんだろうな 15000もいる小早川軍に
あんな所に陣取られた時点で終わりだろ 佐和山=三成陣跡として観光地にしてるが、佐和山には陣城としての痕跡もないし、江戸時代の一級資料はおろか俗説資料にすら出てこないからな。
三成は山中の自害峰に陣を敷いたのは東軍参戦武将の戸田氏鉄書状にあるから。
小早川も松尾山の山麓に陣を敷いたのであって、山頂は中世の山城遺構があるだけで関ヶ原には関係ない。 >>187
元々松尾山にいた西軍追い出して布陣してるし、日和見じゃなくて最初から敵説もあるくらいだし何があってもおかしくないなら備えるんじゃない 濃霧による遭遇戦(少なくとも西軍にとっては)が最近の濃厚説? 嫌儲軍師様は関ヶ原の登場人物の一人になるとして誰になって何をやれば西軍が勝つんや? >>296
伊勢辺りに半国(20万石弱)あったら全力で調略仕掛けられるわ
福島正則揺さぶる為に全力で清須強襲案とか主張すると思う
美濃での決戦じゃなく三河付近での決戦を想定させる
知識持ってるならこれぐらいは頑張るんじゃない? 戦国時代はトップビューで画面見ながら各軍団動かせないし電話等の通信手段ももないからのう
そして武将は指示、命令なんてまともに従ってくれないし兵に至っては言わずもがな
そして兵士の練度は期待できない
やれることは限られてる >>115
毛利なんかより三成が日本を二分して天下取り寸前まで行った人物みたいに歴史に残れたからな >>119
毛利家を存続させた功臣扱いだけど、毛利家の伝説取りを阻止した極悪人よのう この時点の豊臣政権って問題点だらけだし
秀次切腹回避ぐらい遡らないと西軍が勝つのは無理かも 吉川広家は中途半端だからな
事前交渉が甘いせいで毛利家改易の危機になった
それなら毛利軍は戦わせた方がよかった
勝てば毛利政権、負けても武威を示して交渉を有利に進めればいい >>231
豊臣家だけが滅んだ
成り上がり者の悲劇 江戸時代はじめのことである。鹿児島城下の二才(にせ)たちが25里(約100キロ)の道を歩いて、
出水の中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)(1564−1635年、大蔵允〔おおくらのじょう〕重方(しげかた))を訪ねた。
慶長5(1600)年の関ケ原合戦からすでに2、30年たっていた。中馬もすでに還暦を越えていただろうが、
合戦従軍者のなかの数少ない生き残りだった。
二才たちは城下の咄合中(はなしあいじゅう)(のちの郷中教育の前身)に属し、関ケ原の合戦談を
中馬からじかに聞くために、はるばるやってきたのだ。
応対した大蔵は二才たちが麻上下の盛装をしているのを見て、自分も盛装し、威儀を正して二才たちと対座した。
二才たちが「後学のために、ぜひに関ケ原での武勇談をお伺いしたい」と頼んだ。
二才たちは中馬の口から出てくる言葉を一言も聞き漏らすまいと真剣なまなざしを向けている。
ところが、話を切り出そうとした中馬だったが、意外な成り行きになった。
「(中馬は)麻上下で床を背にして坐(すわ)り、『関ケ原と申すは…』と言い出したものの、
みるみるうちに感涙があふれ出て、それから先、一言も語ることができなかった。
二才衆も同様で、しばらく呆然(ぼうぜん)とするしかなかった。
二才たちは帰路の道すがら、関ケ原の話はこれまで何度も承ったが、
そのどれよりも優れていたと語り合い、言葉にできないほどの難儀を思いやったという」(「薩藩士風沿革」)
中馬の朴訥(ぼくとつ)で涙もろい性格が察せられる逸話である。
中馬は義弘のお気に入りの家来だったらしく、
「中馬大蔵殿は惟新(いしん)公(義弘)別して御秘蔵の人」といわれている(「薩藩旧伝集」)。 >>228
むりやろなぁ
小早川がいるからここは小早川に任せる感じだし 秀吉が采配する
これなら西軍大名もいうこと聞くだろ >>246
徳川本家というより紀州藩と見做してたからな 小早川が裏切るのわかってるなら小早川を布陣させないか遠めの所に布陣させるわ 尾張徳川なんて宗春が津軽氏経由で石田三成の子孫だし
尾張の民衆が織田政権時代からの政治を好んでて藩政も幕府の意向よりそっち優先しちゃう藩だったしな >>296
このルールなら小早川に転生してそのまま戦うのはどうなんだ? >>194
だとしたら戦後毛利の領地がごっそり削られあわや改易まで言ったのはなぜなんだ?
同じく戦前に恭順の意を示してた脇坂安治とあまりに処遇が違いすぎる >>51
ゆうても関ケ原から家康死ぬまで15年以上あるぞ
三成はすでに失脚してるし家康長生きするしもうどうにもならん >>12
近畿への出口で塞ぐよりは近畿への入り口で決戦ってこったろ
少なくともここでやると場所と時間を守る側がコントロール出来る >>3
小早川が翼の裏に配置してんだもん
あと吉川広家が毛利と安国寺を抑えてなかったら西楽勝
てか毛利を背後に置いて家康が桃配山まで進軍した時点で売り切りに気づけよ西は >>18
殆んど秀吉家臣なんだよな
秀忠、本多正信、榊原、大久保の家康本軍は真田に翻弄されて遅参
秀吉家臣と裏切り、他力本願の家康だわ 悪魔と契約してネクロマンシーの力を手に入れ
呂布と関羽と韓信とハンニバルとアレキサンダー大王を使う。 「こんばんは。徳川家康です。」
が変わっていたのか⁉︎ >>309
義弘なんざ島津を危うくしたボンクラ扱いされて冷や飯食わされたンだわ そのままやってたら勝てる戦いだったんだし
右の方でサボってるやつらと小早川交換するだけで済む話じゃん 秀秋って、三成のせいで15万石にされたのを家康様の尽力で関ヶ原前に60万石にして貰ったのか。
そりゃ家康に付くわなw 布陣図はじめ、全容が良くわかってない戦いだから、軍記物の創作話ありきで
考えても、と思ったが、そもそも西軍勝たせる、って話し自体ファンタジーだから別にいいのかw >>12
秀忠の本隊も合流するから、毛利輝元を戦場に引っ張りださんとキツい >>96
言うて指揮は石田だけど、トップ毛利
ても市民の目にはトップ宇喜多の徳川征伐だったそうだぞ そもそも毛利輝元に力も能力も度胸もなかったんだわ
歴史が証明してる 関ケ原って西から行くと山越えが面倒じゃん
滋賀側でやったらよかったんじゃね? 結局ターニングポイントが
・裏切り
・短期合戦で西の増援、戦力が機能不全
・茶々の大阪城戦力の出し渋り
・エクセトラ
上を潰して行かないと勝てないべ >>331
生き返りありなら謙信で十分だろ
野戦だし >>321
最初から家康は約束を守る気がなかっただけだろ
120万石の外様を徳川がそのままにすると思うか? >>334
でも兄貴の娘救出して薩摩まで帰ってきたっていう功績デカすぎない? 勝ってたら大阪が首都だったよな
大阪人は未だに悔しいのだろうか? 防衛ラインを下げるほうがいいと思うけど畿内って入られるとそこから防ぎようがないからなぁ
正直大阪も放棄して秀頼つれて周防あたりにひいたらと思うけど、平家っぽいななんか 関が原に布陣した時点で東軍の小早川に要所を締められてるから勝ち目がないよ
岐阜城が天王山だったと思うわ >>345
前田利長は関ケ原後に40万石加増されて120万石になっているが? >>354
前田は上杉討伐より前に母親を差し出して真っ先に恭順したじゃん
あと丹羽の改易はとばっちり >>3
明治18年(1885)、ドイツから陸軍大学校の教官として、クレメンス・メッケル少佐が来日した。
メッケルは関ヶ原合戦の軍勢配置図を見て、即座に「西軍が勝利した」と述べたという。その理由は、西軍が小高い山々を利用して敵の東軍を誘い込み、包囲して攻撃することが可能であったからであるという。
実は、この逸話はまったく根拠がなく、現在ではフィクションであることが明らかにされ、完全に否定されている。 >>350
あの時点で大阪城に立て籠もっても長期戦にはなってたな >>355
>>194は「関ケ原以前に毛利が徳川と和睦を結んでいた」という説だから利長と変わらんよね
他の例を見ても恭順が会津征伐以前以後だったかなんて影響してないし
脇坂は明らかに会津征伐以後の恭順だしね
そもそも君の意見は外様の120万石の大名をそのままにするわけが無いって話だろ?
外様の前田利長を40万石加増して120万石にしてそのまま存続させてる時点で破綻してるよ 家康が焦燥時の癖で親指の爪噛みちぎってた話からして、
霧が晴れた段階でも東軍はとても思い通りにいっていたとは思えないよ >>322
少なくとも関ヶ原の勝利さえなきゃ家康は征夷大将軍になれず
徳川家は形式上は関白職の豊臣家の補佐の内大臣というか大老のままなんだから
関ヶ原の合戦なんて起こさないのが正解だろ >>157
西軍が勝っても再び戦国時代に逆戻りするだけだよな
ムダに豊臣家が裕福なだけに下手すりゃ畿内が応仁の乱の状態にまで戻る 西軍って@三成周辺A裏切り組B毛利3つの部隊に大別できると思うけど、
街道の交点を抑えてないからAがピンチでも@がすぐには助けに行けないし、
Bなんか連絡路すらないから督戦もできない
ぜんぜん連携が取れない布陣 毛利がやる気なく小早川が風見鶏
そしてGoing myちぇすとの島津じゃあ西軍の勝機は薄い
なお、智将真田は信州で通せんぼ中 当時の朝廷を脅かそうとした大名がいないのと同じで
摂関家たる豊氏を脅かすという選択肢は存在しなくなってたよ
あれこれ語るのはいいが、基本的なところでの想像力がたりなさすぎるよあんたら >>221
当たり前だけど秀吉は織田の家臣も一族も自分の天下取りに反対したものは攻め滅ぼすか粛清したし
織田恩顧というか豊臣の重臣は元々織田家家臣が多いし
豊臣家の危機に積極的に助力しようと思うような人は少なかっただろうな
旗揚げ当初から一緒に居た浅野や蜂須賀ですら出世できて結果オーライとはいえ軒を貸したら母屋をとられたような感じだったろうし
権力は実力者が持つもんだよなってのが織田豊臣徳川の流れを見ての実感なんだろう >>41
大阪はあくまで隠居先であって政治中枢は伏見じゃん・・・ >>321
それ丹羽長重、呉三桂に言える?
恭順な武将だろうと有力者だったら
潰されるのはままあること
秀吉も毛利を朝鮮に移封しようとしたというし
決して信用されるような人柄ではなかったのだろう >>358
前田と毛利の違いは「信用」
前田と徳川は織田政権時代からの付き合いがあるが
毛利はその頃は敵だった
なんだかんだ言っても織田政権の重鎮が
天下を治める体制であることは
豊臣政権時代と変わっていない >>48
嫌儲コンボの負け犬バカサヨチョンモメン発狂w 丹羽は西軍側で前田と軍事衝突しちゃったのがまずかったんだろうな、処分しないとしめしが付かないし
結局なんやかんやで最終的には旧領より1万石加増だから家康は温情かけてるよ
毛利は事前に講和してたとしたら改易騒動の時にそれをもって抗弁した記録がないので疑問が残るね
講和して実際に軍は停止して交戦せずにいたんだとしたら少なくとも抗弁すると思うがなぁ
島津は実際に鳥居の件持ち出して抗弁してきたんだから >>34
そして東軍には米海兵隊が居て西軍を粉微塵にするんだろ >>372
丹羽を潰そうとしたのは秀吉の方だろ?
100万石以上あった丹羽家の領地を
大した理由もなく削りまくったではないか
恭順的だろうと有力者なら潰される
関ケ原後の毛利と同じ 吉川の行動が豊臣時代の毛利家のなかで冷遇されてた安芸新庄-米子出仕の山陰組のクーデターだと仮定すると毛利家存続の請願以前までは割と素直に解釈できるし
家康が吉川に防長2カ国、益田に石見1国を恩賞に出すと言ったという話とも釣り合いがとれるうえに
もっぱら吉川氏と戦ってきた亀井氏を鹿野、山名氏を出石と拠点から移動させなかったことについても吉川への警戒ってことで納得できるんだけど
肝心の吉川と益田のその後の行動が説明できなくなるんだよなあ
吉川広家は改ざんしたことが丸わかりというか改ざんしたと気付って感じで改ざんした文章を残してるし、本心がどうもわからん >>5
これなと言っても
この時点では豊臣政権下での政権闘争だから
秀頼に反旗翻したわけじゃないんだよな
福島とかは三成憎しで本当大局を見誤った >>376
そもそものはなし大局を見れたら三成も福島も関ヶ原の合戦なんてやらんだろ
西軍が勝ったところで豊臣にとってはろくな結果にならんはずだ
ホントに豊臣への忠誠心があるなら秀吉子飼いと言われた大名達は派閥争いなんかせず結束すべきだった
小説とかドラマやゲームなんかで美化されてるけど秀吉からすれば自分の死後のことを考えて作った体制をぶち壊した三成は大馬鹿野郎だろ >>331
個人で戦況ひっくり返す事のできるやつって誰かいないのかな >>374
家康と秀吉の方針を同じとみる根拠がね
どちらも天下人とはいえ別人格なわけだから 葵徳川三代みたら関ケ原の島津が強くてこの人たち本気で動かしてれば違ったんじゃね?て思った
実際あそこから逃げられたのすごくね >>377
そもそも家康に簒奪の野心があったのだから三成が悪いというよりはどこかで家康を倒さないと家康に豊臣家を滅ぼされるのは避けられない 仮に家康を討ち取って西軍が勝ったとしてもその後に上杉と毛利で天下分け目またやるだろ >>377
家康が先に浅野長政と前田利長に難癖つけて、
ついでに宇喜多秀家の御家騒動を滅茶苦茶に引っ掻き回して石田三成を七将襲撃を口実に蟄居させ、
さらに上杉景勝に喧嘩売って豊臣体制を完全にぶっ壊しにかかってたんだが
五大老五奉行の5/10だぜ?
三成や宇喜多、毛利輝元が挙兵したのは当然のこと 実質の総大将が石田三成では無理
三成では逆立ちしても家康に勝てるわけがない
飾り総大将も毛利輝元やしこれもあかん
もうちょっとマシな総大将がいればな そもそも伏見城の近くに家康は自分の城つくってたからな
その伏見城の各区画は治部少丸など奉行の名で呼ばれてた
つまり伏見城は家康のスタンドプレー(私利私欲)を抑制するための御公儀そのものだった、本来はね
まあ、いろいろ知ってると、松平くんたちの自政権崩壊の決定的な嚆矢が鳥羽・伏見の戦いだったこと、それも賊軍(反乱軍)のはずの毛利勢に[錦の御旗]が立ったのも、実に神君(笑)の過去の数しれぬ悪行への因果応報めいてて愉快ではある
二条城が賊軍→官軍の本営(賊軍(=徳川)殄滅の命令もここで発令)になったのも >>386
実質的な総大将も毛利でしょ
「毛利勢は関ケ原では戦わない」という戦略を立てた
毛利の意向通りに事が進んでいる >>386
実質総大将の毛利が「ボクたちは飾りです、本当の総大将は三成です」なんて日和ったのが敗因
そんなトップの下だから、吉川広家も忖度して家康と交渉してしまう >>1
毛利、吉川、長宗我部はこんな場所で何やってるんだ? >>365
せめて島津の本隊や北九州勢が来てればなぁ なんで家康はそんなに毛利を信用できたんだ
こんな配置なら気が変わって攻められたら東軍全滅だろ 立花宗茂がいれば小早川は裏切らなかったと言うてたらしい >>392
以下によると家康が来る前に
美濃で西軍8万対東軍3万になった時に
西軍側が攻撃しなかったそうだから
家康は「毛利がしっかり約束守ってる」と確信を持てたろう
『イエズス会日本報告集』より
>多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは
>軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、
>それを実行した。そこで八万人が集結したが、
>その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいた
>すべての軍勢が短時間で殲滅し根絶されうるものであった。
>しかし奉行たちの相互間の意見の一致はいかにも乏しく、
>全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、
>たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。 どちらかというと分からんのは毛利の意向だよな
徳川と和睦して何を得ようとしたのか?
徳川を勝たせるつもりなら、
どうして西軍挙兵に付き合ったのか?
徳川と和睦してるのに徳川方の
四国・九州勢を攻撃したのはなぜか? >>58
そもそもで言えば
秀頼なんぞ出てこれない(引っ張り出せない)からこうなったわけで
秀頼が来たら云々は意味がないわな あんまり言われないけど
九州北部で大暴れしてた黒田の影響は? 関が原に黄母衣衆(秀頼親衛)が来てたの知らないまま語るのってどうなん? どうも調べてみると以下の説があるらしい
「輝元は戦う気だったが
吉川が家康と単独で講和していたので
関ケ原では毛利軍の先陣の吉川が妨害して
戦闘に参加できなかった」説
↓
これだと関ケ原以外での毛利軍が
東軍を攻撃していたことの説明はつくが、
何日間にも渡って関ケ原毛利軍の大将の
毛利秀元をそんなに踏みとどまらせることができるかは疑問
「輝元は当初から戦い・和睦を並行して進めていて
吉川を交渉役にして和睦が成立した説」
↓
これだと関ケ原毛利軍が何日も攻撃しなかったことの説明はつくが
四国・九州の毛利軍が東軍と戦い続けたことの説明がつかない
(自領の領土拡大のためなら説明できる?) >>395
毛利に限ったことじゃなく豊臣傘下の大名以外は実際のところ東西対決の勝敗に興味は無くて
混乱に乗じて自分の勢力を拡大することが主目的だったんじゃないの
関ヶ原の短期決戦だけで結果が決まるなんての自体が予想外だろうしその後を見すえて領土拡大を目論んでたのが実際のところでは ケンモメンが関ヶ原参戦したら
長束長宗我部の位置で日和見って改易させられそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています