7000年前エジプト「働いたら定時で帰るぞ」3000年前中国「法で国を治めるぞ」 [272851654]
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その頃の日本「どんぐりうまっ…貝うまっ…」
土人やん… 3000年後中国「法の上に共産党を置くことで人民を完璧に統制する」
7000年後エジプト「幼女のまんこ切るぞ!」 20万年前人類「助け合って生きていこう!」
現代ジャップ「弱者は死ね!」 7000年前のエジプトですら「働いたら定時で帰るぞ」を実践できているのに、それが出来ない今の日本ときたら・・・。
一体何なんだろうねえ? スクリプトで言論弾圧してるケンモカスが焚書坑儒の秦カスを礼賛してもねえ >>15
市民革命なしに近代化したから、国民に主権意識が根付いてないのが原因 日本は2680年前に神武天皇の古代文明が栄えてたんだぞ
これを否定するやつは売国左翼だから日本から出ていけ
あと支那の歴史は50年だからな
日本を愛する普通の日本人なら常識 今
コミュ力文系「理系隠キャは僻地で定額裁量労働制で働かせ放題や」
⇒ジャップ崩壊 現代日本
「働いたら定時で帰るぞ」←できてない
「法で国を治めるぞ」←できてない スレ開いたら現代日本と比べる方がオチになったのにホントセンスねえな>>1 でもジャップには外国の文化を自分たちに合わせて改良発展させるなんとかがあるから(自称) なんでドングリの食文化は守ろうとしなかったのかね
クジラなんかよりよほど重要な伝統文化なのに誰も顧みない 古代エジプト壁画にもピラミッドにもシュメール人の石版にも神殿にもバビロンにもヒエログラフにもポンペイにも
「最近の若者は」なんて書いてないんだが、誰が探しても見つからないんだが、
どうしてもあると言うならエジプトのどこのなんと言う壁画なのか明示してくれ
そんなに有名なら写真がネットに1枚くらい上がっててもいいはずだ
『これが「最近の若者は」と書いてある部分です』ってのを見せてくれ
世界のジョーク集に出てくる「現地ガイドの持ちネタ」以外の、できれば学術資料が信憑性は高い
考古学者にも知らせよう
本当に見つかったら 大ニュースになるぞ
大ニュースだぞ >>31
ドングリの人達は鬼界カルデラで絶滅したんだろ チョンコはYouTuberになってリアルまじぇまじぇご飯のやり方アップしてよ >>22
神武天皇の皇紀2680年
建国記念の日も
中国の辛酉大革命の影響で
明治時代に作られた嘘の伝統
日本に「建国記念日」が存在しない本当の理由
プレジデントオンライン 2020年2月11日 9時15分
https://president.jp/articles/-/32523
2月11日は「建国記念の日」であり、「建国記念日」ではない。
東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は「明治政府は初代・神武天皇の『即位日』を建国記念日に決めたが、史料的な裏付けはなく、戦後廃止された。
復活を望む保守派は、みんなを納得させる苦肉の策として『の』を挿入した。いわば『配慮の結晶』なのです」という——。
※本稿は、本郷和人『空白の日本史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■「の」から紐解く“空白の日本史”
2月11日の「建国記念の日」。この日は、日本の建国を祝う祭日として、明治6年の1873年に定められました。
当時は「紀元節」といっていました。世界各国で「建国記念日」は存在しますが、なぜ現在の日本では「建国記念“の”日」と称されるのか。
その背景にある「皇紀の虚偽」を紐(ひも)解くことで、新たな「歴史史料の空白」を検証してみたいと思います。
まず、この「建国記念の日」ができた当時、明治政府は日本が万世一系(ばんせいいっけい)の天皇を頂点にした統治国家であることを、強烈にアピ―ルをしようと考えていました。
当時の日本は、近代国家として誕生したばかり。
そのため、明治政府は、国内外に向けて、海外にはない日本のオリジナリティや存在感を示すため、
日本という国が、長年に渡って天皇家というひとつの系譜に連なる血筋が治めていることを、最大限利用しようとしたのです。
■「エンペラー」の称号を得た明治政府の猛アピール
こうした明治政府の活動が功を奏し、現在でも日本の天皇は、海外では「皇帝(Emperor)」という称号を得ています。
たとえば、英国王室のエリザベス女王の称号でさえも「女王(Queen)」であって、「皇后(Empress)」ではない。
世界有数の伝統を誇る王室でさえも、「King/Queen」と呼ばれるなか、日本の皇室は「Emperor/Empress」という特別な称号を使用することが認められています。
明治時代には、エチオピア王室も「Emperor/Empress」の呼称が使われていたそうですが、現時点では世界中でこの呼称が使われているのは、日本の皇室だけ。
これは、明治政府が世界中に「日本の天皇家は万世一系である」と訴えた主張が、見事に影響していると言えるのでしょう。
諸説ありますが、少なくとも26代の継体天皇(450?-531年)以降は、天皇家は一つの血筋でつながっているのだと考えられています。
それだけとってみても、世界一古い王家であることは、間違いありません。英国王室以外のヨーロッパ王室の血統は、古くとも18〜19世紀前後のナポレオン戦争くらいから始まったものが大半です。
■国内外で利用された皇室の“伝統”
欧州の王室は、1800年代ごろに外国から来た人が、王となるケースが多い。そう考えると、日本の皇室がいかに古く、歴史と伝統を持っているかという話は、外国に向けて発信してもたいへんに誇らしいものです。
また、この主張は、国外だけではなく、国内に向けても、明治政府が中央集権国家を作る上での大きな武器になりました。
「天皇家は世界でも類を見ないほどに、古く、伝統がある。長い間、日本を見守ってきた天皇のために、国民が力を集めて頑張ろう」
こうした、非常にわかりやすいスローガンがうまく作用し、明治政府によって、日本という国はひとつの国へとまとめられていきました。
この例を見てもわかるように、「我が国には長い歴史がある」と主張することは、国内外に強い影響力をもたらします。 >>38
>>22
■紀元前660年が「元年」になったワケ
現在の日本では、元号や西暦が使われていますが、明治時代に正式に採用されたのが、「皇紀」という暦(こよみ)でした。
「皇紀」とは、神武天皇が最初に即位した年を元年とした暦のこと。紀元前660年を元年として数えられており、東京五輪が開催される2020年は皇紀2680年にあたります。
なぜ、紀元前660年が神武天皇即位の年になったのかというと、そこには少し複雑な経緯があります。
まず、古来から日本の暦は「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)」を表す十干(じっかん)、「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)」
を表す十二支を組み合わせた、十干十二支で表していました。
そして、両者を組み合わせた数字である60(10×12÷2)が、一つの周期になります。60歳を「還暦」と称するのは、60年という周期が一度巡ることで、また「暦が還る」から。
そして、還暦の人に真っ赤なちゃんちゃんこを贈るのは、「赤子に戻って、もう一度人生を生まれ直すから」だと言われています。
■中国由来の「十干十二支」
さて、十干十二支には様々な組み合わせがありますが、その中の58番目の組み合わせである「辛酉(かのととり)」は革命の年とされています。
これは、中国由来の考え方で、漢の時代に生まれた儒教の考え方をまとめた書物『緯書(いしょ)』で唱えられた予言「讖緯(しんい)説」に由来するものです。
「讖緯説」によれば、60年に1回の辛酉の年には、何かしら革命が起こる。
さらに、60年が21回続いたときの辛酉の年には、ただの革命ではなく、とてつもない大革命が起こると言われていた。
60年×21回ということは、1260年に1回のペースで大革命が起こるという計算になります。
その説に基づき、明治初頭の歴史学者たちは「前回、大革命が起こった辛酉の年はいつだったのか」を検証します。
そして、「聖徳太子がいた頃に起きた辛酉が、大革命の年だろう」と結論づけたのです。
なぜ、聖徳太子がいた頃に、大革命が起きたとされたのか。
その理由は、当時の日本では、日本の基礎を作ったのは聖徳太子だと考えられていたからです。
近年の研究では「聖徳太子は本当にいたのか?」という論争もある上、日本という国の基礎ができたのは、天智天皇や天武天皇の時代だと考えられています。
ただ、明治当初、彼は、十七カ条の憲法や官位十二階の制定、遣隋使の派遣、仏教の普及などに貢献し、日本の基礎を作った人物として、非常に重要視されていました。
■「皇紀」を生んだ辛酉大革命という思想
だからこそ、「聖徳太子がいた時代こそ、日本という国ができた年である。
日本ができた年こそ、辛酉の大革命が起こった年である。
では、そのもう一つ前の辛酉の大革命の年とは何だ?
聖徳太子クラスの人物の関与ということであれば、こここそが、神武天皇が即位した年次であるに違いない」と、明治の歴史学者たちは考えた。
わかりやすく言うと、1回目の辛酉の大革命では神武天皇の即位があり、その1260年後となる2回目の辛酉の大革命で、聖徳太子が国を作った。
そう当時の研究者たちが結論づけた結果、神武天皇即位を原点とした「皇紀」が誕生しました。
逆に言えば、この辛酉大革命という思想を受け入れていなかったら、皇紀というものは生まれなかったとも言えます。
その結果、紀元前660年1月1日こそが日本建国の日になりました。
ただ、これは太陰暦の日付なので、太陽暦に直すと2月11日です。
そこで、明治6年となる1873年に、2月11日を「紀元節」とし、日本の建国記念日として定めました。 >>39
>>22
■「この日を本当に日本の建国記念日としてよいのか」
戦前は紀元節に盛大なお祝いをしていたのですが、戦後になると、より冷静な考えが広まり、「この日を本当に日本の建国記念日としてよいのか」という疑問が浮かんできます。
先に挙げたように、文献史料は何もないので、当然立証できない。
GHQの意向もあり、戦後しばらくの間、建国記念日は日本から消えました。
ところが、1950年代初頭、日本の国力が勢いを増したことで、日本に再び建国記念日を復活させようという動きが始まります。
アメリカの独立記念日(7月4日)や、韓国が日本の統治から離脱した日を祝う光復節(8月15日)のように、世界各国にその国の誕生日があり、それなりにお祝いをしている。
ならば、日本にも国の誕生日があっていいだろう、と。
ただ、いざ日にちを決めるとなると、右派と左派の間で、かなり大きな論争が繰り広げられることになります。
右派としては、「紀元節」に則(のっと)って、以前と同じ2月11日を推薦する。
でも、左派側は、「2月11日が建国記念日である科学的根拠がない」として猛反対する。
たしかに、紀元前660年に神武天皇が存在したという話自体が、まったくの神話世界の中の話であるため、何の根拠もない。
こうした主張については、右派側も認めざるを得ません。
■「の」は大人の配慮の結晶だった
神話の世界の話を「これぞ、日本の歴史」だと主張することは、さすがに近代国家では通用しません。
そこで、苦肉の策として生まれたのが「建国記念の日」です。
つまり、「建国記念日」とは言わず、「建国記念“の”日」とすることで、日本の建国をお祝いする日にしよう。
それならみんなが納得できるのではないか。
そんな事情で、「建国記念日」の間に、「の」という一文字が入ります。この「の」はいわば、大人の配慮の結晶だったと言えるでしょう。
そして、こうした苦心の末、1966年、安倍晋三首相の祖父・岸信介の弟である佐藤栄作内閣の下で、「建国記念の日」が制定されました。
時に「日本は神の国だ」と言い出す政治家がいますが、日本の皇室が、神の子孫だというのはあくまで神話の中のお話で、科学的根拠はまったくありません。
ただ、26代の継体天皇以降は、現代に至るまで血がつながっていることは、間違いない。
紀元前660年ではないにせよ、それでも世界的に見たら群を抜いて古い王家であることは、きちんと僕たち日本人は踏まえておいたほうがよいのではないでしょうか。
もちろん「古いものが優れているわけではない」という議論も当然上がってきますが、長ければ長いほど伝統は育まれますし、時の積み重ねは重いものです。
皇室に関する新たな議論が出るたびに、そこは冷静に話し合っていくべきではないかと僕は考えます。
本郷 和人 東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。専門は、日本中世政治史、古文書学。
『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。
監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人) >>38
明治政府の外交は
独立国の国家元首は平等に全て皇帝と呼んでた
日本の天皇も日本国皇帝と称して
対等な外交してる
ルクセンブルク大公国も
モナコ公国も
元首は明治政府は皇帝と呼んでる >>22
サンフランシスコ講話条約 1952年 まで戦争をしていた設定だから東條英機らA級戦犯が靖国神社に合祀されている
東京裁判での死刑は 戦死扱いだから
1945年からGHQが統治しており昭和天皇と政府はアメリカ政府の傀儡君主 傀儡政権になる
中華人民共和国の建国は1949年10月1日
日本の建国はサンフランシスコ講話条約が発効し 戦争が終わった 1952年(昭和27年)4月28日 >>43
(1)1945年、GHQ(連合国軍総司令部)は神道指令を通達、国家神道が廃止され靖国神社は一宗教法人となる。
(5)1952年〜1955年、衆参両院の本会議で戦犯釈放・赦免を要請する決議が5度にわたり行なわれた。冷戦を背景に連合国は徐々に押し切られ、A級戦犯は1956年までに釈放され、重光葵(まもる)元外相らは閣僚も務めた。
(6)1956年、旧厚生省引揚援護局長が「なし得る限り好意的な配慮をもって、靖国神社合祀事務の推進に協力する」と各都道府県に通達。
靖国神社の照会を受けた都道府県は、旧陸軍関係の情報を調査し神社側が用意した祭神名票に結果を記入、これを引揚援護局が取りまとめて神社側に送った。
援護法の対象となる戦死者のリストを祭神名票として靖国神社に送付したのは、旧厚生省引揚援護局長だったのである。
A級戦犯は1966年に送付された。
(7)1959年、一宗教法人である靖国神社は名票を元にして戦犯の合祀をBC級戦犯から始めた。
しかし、A級戦犯14人の合祀は長年にわたり筑波藤麿宮司が預かり実施しなかった。
(9)1969〜1973年、自民党は5回にわたって靖国神社の国家管理を求める「靖国神社法」を提出したが世論の反発が大きくすべて廃案となった。
(10)1978年、松平永芳宮司が「国家機関の決定」と強調してA級戦犯を密かに合祀した。
公になったのは翌1979年の報道によってである。
合祀された14人の東京裁判での判決は、絞首刑7名(東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅)、終身禁固刑4名(平沼麒一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、梅津美治郎)、禁固20年(東郷茂徳)、公判中に死亡2名(松岡洋右、永野修身)である。 >>44
昭和天皇が靖国神社A級戦犯合祀への怒りを詠んだ未発表の歌が...それでも参拝する安倍内閣は"逆賊の集団"か!?
2015年8月15日 19:30
終戦記念日の8月15日、またぞろ恒例の閣僚による靖国参拝が実施された。予想通り、高市早苗総務相に有村治子少子化担当相、次期総理説も出ている稲田朋美自民党政調会長も参拝した。安倍首相も本人の参拝こそ見送ったが、例の言論弾圧の先兵・萩生田光一首相特別補佐を名代にたてて、玉串料をおさめた。
しかし、この底の浅い歴史修正主義者たちは、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀を嘆いたこんな歌を詠んだことを知っているのだろうか。
〈靖国の名にそむきまつれる神々を思へばうれひのふかくもあるか〉
「靖国の名にそむきまつれる」というのはかなり激烈な表現だが、実はこの歌は正式には発表されていない。その存在を明らかにしたのは、朝日新聞の元宮内庁担当記者・岩井克己氏だ。
周知のように、1978年、靖国神社が松平永芳宮司の手でA級戦犯合祀を行って以来、昭和天皇は靖国参拝を取りやめ、亡くなるまで一度も行っていない。
そして、2006年、日経新聞が元宮内庁長官・富田朝彦が遺した1988年4月28日のメモに、昭和天皇のこんな言葉が記されていることをスクープした。
〈私は或る時に、A級が合祀されその上松岡、白取までもが筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに親の心子知らずと思っているだから私あれ以来参拝していないそれが私の心だ〉
昭和天皇は、明らかに靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感をもっており、それが参拝拒否の原因だった。 >>45
また、昭和天皇には、発表された御製(天皇の短歌や詩作)のなかにも、靖国神社のA級戦犯合祀を憂えた歌がある。1986年8月15日に詠まれたもので、1990年に出版された御製集『おほうなばら』(読売新聞社)に採録された歌だ。
〈この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし〉
この歌については、天皇の歌の相談役をつとめていた歌人・岡野弘彦が『昭和天皇御製四季の歌』(同朋舎メディアプラン)の解説のなかで、当時、徳川からこんな説明を受けたことを紹介している。
「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ、後年、その人達の魂を靖国神社に合祀せよという意見が起こってきたとき、お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つあって、一つは国のために戦に臨んで、戦死した人々のみ魂を鎮める神社であるのに、その性格が変るとお思いになっていること。もう一つはあの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては、さしつかえがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」
つまり、冒頭で紹介した未発表の〈靖国の名にそむき...〉という歌は、1990年に発表され、徳川が「婉曲にしていただいた」と語った御製〈この年のこの日にも...〉の元歌だった可能性が非常に高いのだ。発表された御製でも不快感は十分伝わってくるが、昭和天皇のA級戦犯合祀への怒りはもっと激しかったといえるだろう。
徳川は岩井氏による聞き書き『侍従長の遺言』でも、〈合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものに整えさせていただいた。(中略)それなのに合祀賛成派の人たちは都合のよいように曲解した〉と批判していた。つまり、徳川は昭和天皇の真意をねじ曲げるA級戦犯擁護派を牽制するために、元歌をあえて岩井氏に託した、ということなのかもしれない。 >>22
>>46
しかし、これだけの事実があっても、安倍政権の歴史修正主義者たちは今も、昭和天皇がA級戦犯合祀に怒っていたという事実から目を背け、靖国参拝を続けている。
そして、安倍政権をバックアップする右派メディアは昭和天皇の不快感を示した富田メモをでっちあげだと言い張り、発表された御製についても、A級参拝でなく、靖国参拝反対の動きへの不快感を示されたものだなどという嘘をふりまいている。
とにかくA級戦犯を擁護したくてたまらないのだ。
だが、彼らはA級戦犯合祀を肯定することがイコール天皇否定につながることをわかっているのだろうか。
この倒錯を指摘したのは、昨日も本サイトで紹介した保阪正康氏の『安倍首相の「歴史観」を問う』(講談社)だ。
保阪氏によると、松平永芳宮司(当時)がA級戦犯の靖国神社合祀を押し切った背景にあるのは、太平洋戦争が終わったのは軍事的には1945(昭和20)年8月15日だが、政治的に終わったのは1952(昭和27)年4月28日、つまりサンフランシスコ講和条約発効の日であるという認識だ。
つまり、松平は占領期の6年8カ月を太平洋戦争の「政治の戦争」であり、東京裁判で絞首刑になったA級戦犯を「政治の戦争」による戦死だと見なす。だから、靖国神社に合祀したという理屈なのだ。
しかし、占領期をアメリカ中心の連合国との政治的戦争だったとすると、GHQを受け入れた吉田茂元首相は"敵国アメリカ"の傀儡政権であり、昭和天皇も戦勝国に屈服した"傀儡天皇"として、糾弾される存在になってしまう。
まったく現実が見えていない妄想的な歴史認識だが、しかし、靖国参拝にこだわり、日本国憲法を「占領憲法」「押しつけ憲法」とする安倍首相たちの姿勢は、この松平宮司の歴史観の延長線上にある。
彼らは、占領期を屈辱と感じ、それを受け入れた昭和天皇を心の底では傀儡とみなしているということだろう。
これで、「天皇中心の国家をつくる」などと標榜しているのだから唖然とするが、ようは連中の考え方は、自分たちの戦争推進、侵略肯定、国民の人権制限への欲望を天皇という存在を借りて正当化しようとしているだけなのである。
だから、自分たちの欲望を否定する天皇の存在などは平気で無視することができる──。
そういう意味では、安倍政権に群がる連中はまさに戦前の軍部と同じ、もはや「保守」ですらないのかもしれない。 7000年前って松明くらいしかないんじゃないの?
そりゃ帰るだろ 当時の国はどっちもとっくに滅びてるけどな 善政が施されれば悪が蔓延る 悪政が布かれれば善行が滾って来る その繰り返しさあね 150年前アメリカ「奴隷制度は廃止しよう」
現在ジャップ「国民自ら奴隷になって上級に尽くそう」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています