ナポレオンはロシアの「冬将軍」に負けた…は嘘だった。フランスのたくみなプロパガンダによって作られた伝説 [764714981]
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1812年のナポレオンのロシア遠征において、冬季に入ると、彼の「大陸軍」も、追うロシア軍も厳寒に苛まれた。しかし、ナポレオン軍を決定的に壊滅させたのは、実は、「冬将軍」ではなかった。冬将軍の猛威は、さまざまな文献、資料に恐ろし気に描かれてはいるが…。
1812年のナポレオンの敗北は、まさに壊滅的なものだった。当時、ロシア軍に勤務し戦ったスイス出身の軍人、アントワーヌ・アンリ・ジョミニは、著書『ナポレオン政治的軍事的生涯』の中で、ナポレオンは、ロシア侵攻に直接30万人を超える軍隊を送り込んだと書いている(大陸軍の総数は60万人以上におよんだ)。
ベレジナ河畔の戦い(1812年11月26〜29日)で、大陸軍の残軍が、どうにか渡河してロシアから逃れたが、その数はわずか2〜3万になっていた。つまり、この時点までに大陸軍の約90%が、ロシア遠征中に戦死、負傷、落伍して失われたことになる。
しかし、ヨーロッパの新聞各紙では、この敗北は主に、ロシア軍によるものではなく、フランス軍が遭遇した厳寒のせいだとされていた。
新聞『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』は、ナポレオンの主な宣伝手段だった。1812年のロシア遠征中に、同紙は、戦況の広報をフランスで速報している。公報は、しばしばナポレオン自身が執筆した。
ナポレオンは、自軍の将兵も公報を読むことを承知していたので、遠征中に彼らを鼓舞しなければならぬと感じていた。ロシアの研究者アナスタシア・ニキフォロワによれば、広報は、ナポレオンの兵士の偉業を強調し、ロシア軍の勝利については沈黙を守っていた。
さて、この広報は定期的に天候についても報じており、10月26日、第24公報は、次のように書いている。「天候は良好。昨日、初雪が降った。20日後には冬営の必要が生じよう」
ところが、最後となった第29広報には、大陸軍の壊滅、そして全遠征の最悪の悪夢としての悪天候について、悲憤が吐露されていた!
「11月14日、15日、16日、体温計は、マイナス16〜18度まで下がった。道路は氷で覆われていた。騎兵、砲兵隊、輜重隊の馬は毎晩、数百頭ではなく数千頭単位で死んでいった。とくにドイツとフランスの軍馬だ。わが騎兵隊は、馬、大砲、装備、食糧なしで取り残された。我々は、銃砲、弾薬、食糧をほぼすべて放棄、破壊することを余儀なくされた。6日にはまだ秩序だっていた軍隊は、14日には様相が一変していた。こうして騎兵、砲兵、車両をほぼ完全に失った」。公報はこう結んでいる。
フランス軍の騎兵や砲兵を奪い、彼らを完敗させたのは、ロシア軍ではなく、寒さだけであるように読める。だが、フランス軍将兵は、これより前に冬の厳しさに遭ったことはなかったか?もちろん、そんなことはない。
1795年、フランス軍は、厳冬期にオランダで戦っている。アイラウの戦い(1807年2月7〜8日)で露仏両軍が激突したとき、気温は氷点下だったが、フランス軍は吹雪のさなかに凍結した湖や川で巧妙に行動した。だから、彼らにとって冬の厳しさは別に目新しいものではなかった。
https://jp.rbth.com/history/85955-1812nen-napoleon-dairikugun-kaimetsu-omona-genin-fuyushogun-de-ha-nakatta
しかし、ナポレオンがつくり出した「致命的な寒さ」の伝説は、フランス国民だけでなく、イギリスのマスコミや国民にもすんなり受け入れられた。英国は依然として、国際舞台におけるロシアの主なライバルの1つだったから、ロシアの将軍や将校の軍事的、戦略的技能を称賛することは彼らの利益にならなかった。
だから、フランス軍が寒さのせいで負けたと主張するほうがはるかに好都合だったわけだ。そう言えば、ロシアはそんなに強い脅威には思えないから。
ちなみに、「冬将軍」という言葉は、英国の漫画家ウィリアム・エルメスが、自作の漫画「小さいボニーちゃんのヒゲを剃る冬将軍」で考えついた。
1812年に、ロシアのパルチザン部隊を率いたデニース・ダヴィドフ中将は、ナポレオン軍が寒さだけで壊滅したという説に猛反対した。このテーマを扱った著作の中で彼は、フランスのジョルジュ・シャンブレ大将の言葉を引用している。シャンブレは砲兵隊を指揮してロシア遠征に参加し、ベレジナ河畔でロシア軍に捕らえられた。
「モスクワを出てから初雪が降るまでは、フランス軍はずっと、寒くはあったが、乾燥した穏やかな天候の中にあり、(軍にとっては)致命的どころか、むしろ好適な条件だった。10月27日でもマイナス5度、11月9日にはマイナス15度、11月12日、13日はマイナス21度だった」。シャンブレはこう述べている。
実際のところ、この2日間が最も寒く、その後は寒さが緩み、フランス軍のベレジナ渡河を妨げた。川は凍結しておらず、数千人が水中で死んだ(架橋はされたが、渡れなかった者、戦死、負傷した者、捕虜になった者が多数出た)。
ジョミニもまた、ナポレオンの主な敗因が冬だという説に真っ向から反対している。
「ナポレオンのロシア遠征が失敗した主な理由は、冬がいつもより早く到来し、寒さも厳しかったからである――。この意見の信奉者はみな、うんざりするほどそれを繰り返してきた。だが、これは完全な誤りだ。ロシアに毎年訪れる現象の時期について、どうして知らなかったと彼らは思うのだろうか…!あの年、冬の到来はいつもより早くはなかった。それどころか、最初に厳しい寒波が来たのは11月7日で、時期的に例年より遅かった」。ジョミニはこう書いている。
「このときの寒さは、アイラウの戦いにおける以上ではなかった。しかし、アイラウでは、軍は豊かな土地にあり、その必要を満たすことができたので、動揺しなかった。1812年には逆のことが起きた。食糧その他の必需品の不足で、軍は分散した」
では実際の敗因は?
我々が既に知っていることだが、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフは、ナポレオンをモスクワに誘い込み、そこで足踏みさせた。そして、ナポレオン軍を疲弊、消耗させて壊滅させる、この戦略は、実は陸軍大臣(兼第1軍司令官)バルクライ・ド・トーリが考案したことも、我々は承知している。だから、ナポレオンの主な敗因は、天候や寒さとは関係なく、純粋に軍事的なものだった。
実際、ナポレオンの大軍は、分散し混乱しており、補給路は伸び切っていたから、適切な補給を受けられなかった。さらに、パルチザンも敗北の一因となった。ロシアの農民は、フランス軍将兵に遭遇するや、いつでもどこでも殺害したようだ。
「近隣の村々の農民は、60人のコサックからなる、ロシア帝国陸軍のテプチャリ・コサック連隊を全滅させた」。ダヴィドフは回想録で振り返る。
「農民たちは、コサックらのロシア語になまりがあったために、敵と誤認した」。テプチャリ・コサック連隊は、バシキール人からなり、ロシア語があまりうまくなかった。それで農民は彼らを誤って殺したわけで、それほど侵略者への憎しみは大きかった。フランス軍はこんな状況に陥っていたのである。撤退に際しても、ロシア軍に追撃されたから、フランス軍の命運は定まっていた。
同時代のスコットランドの作家、ウォルター・スコットは、その著書『ナポレオン・ボナパルトの生涯』の中で、次のように疑問を投げかけている。
「ロシアの寒さと雪がそのように乗り越え難い災厄であり、軍全体を壊滅させるほど強力なものであるならば、どうしてそうした状況が、(ナポレオンのような)勇名を馳せた将軍の計算に組み込まれなかったはずがあろうか。ナポレオン自身がこの大遠征を発案したのである。ロシアでは雪が降らず、11月の寒波が珍しいとでもいうのか?」
「もちろん、ナポレオンは予見していた」とスコットは結論付ける。「10月には寒波がやって来るだろうことを予想していた。7月には既に、軍に十分な食糧を集めねばならないことも予想していた。だが、しかし、いずれの時も、焦燥感に流されて、予見していた飢餓と寒さを克服するための措置を講じなかった」 独ソ戦もそうだよな
たしかに寒さは厳しいがナポレオンもナチスもロシアに力負けしてる 逃げ回るロシア軍を捕らえられたずにいたら
冬が来て撤退したって話だからな
ロシアの戦力を低く見積もったナポレオンの采配ミスだったのは否めない
国民党政府を倒しきれなかった旧日本軍と同じ >>2
>テプチャリ・コサック連隊は、バシキール人からなり、ロシア語があまりうまくなかった。それで農民は彼らを誤って殺したわけで、それほど侵略者への憎しみは大きかった。
農民たちは静かに農奴として搾取され続けることを望んだというわけか
今でもプーチンによる専制が変わらないのはロシア人の奴隷根性が原因かw >>8
国民党は大陸打通作戦の成功もあり、ほぼ壊滅状態だったただろ >>9
そりゃフランス軍なんてロシア人から見たらただの略奪レイパーなんだから
排除するのは当たり前
アメリカを解放軍と呼び熾烈な民族紛争を経験したことのない
ジャップには理解できんのだろ >>12
敵軍の壊滅だけに集中し農民の命を蔑ろにした結果だな
国民党とそっくりだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
黄河決壊による被害は「堅壁清野」という焦土作戦とともに、中国民衆をさらに苦しめることになった。農作物にも大きな被害を与え、さらに国民党側による食料調達(徴発)の為、農民は厳しい搾取を受けることとなった。
堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる[9]。
編集
作家の劉震雲によれば、1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、旱魃、イナゴの発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した[31](オドリック・ウーによれば死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があったことも指摘している[32])。この状態が続けば河南省は全滅していたが[33]、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った[34](ウーによれば飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた[32])。そのため、河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった[35]。
1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)[35]。そのための兵力は約6万人であった[35]。この時、河南戦区の蔣鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは農民に耐え難いことであった[36]。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した[37]。推定では、河南の戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた[37]。すべての農村において武装暴動が起きていた[37]。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた[30]。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた[37]。この結果、30万の中国軍は全滅した[37]。 >>12
中国共産党はもっと過激
https://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/5237c3878dd75a4fc32a33d3524eae96
グスマンは、「村長を殺す」手法は毛沢東に倣ったと供述している。
石平の『中国大虐殺史』にはそれが「一人一焼一殺」と呼ばれたとある。
まず夜明けとともに村を襲い村長の財産を略奪したうえで火を放つ。
集めた村民の前で村長を裁き「銃で頭を吹き飛ばして」処刑する。
村長の田畑は小作人に分配し、小作料は革命税として納めさせる、という手順だと説明している。
ただ毛は「一殺」にはこだわらなかった。搾取者つまり金持ちが多ければその分、殺しも増える。江西省吉安では四十五日間で一万人を殺している。 >>15
>>16
結局残虐なこいつらが生き残ったのはアメリカ帝国主義がこいつらを支援したからだな 寒さよりもボロディノ会戦等でロシア軍主力の捕捉撃滅に失敗したからな
ロシア軍主力の捕捉撃滅→ロシア皇帝を講和交渉に引っ張り出す というプランだから、前提が崩れればどうしようもない ロシア軍も冬の中進軍するじゃん?と
雑でウンコと吹聴される設定に対して
めっちゃ的確に撤退・焦土化実践されてる結果の無慈悲なダブルパンチ 装備が糞で舐めてたんでしょ
半袖で出兵してたアホだからなナチスは イギリス封鎖に手を出した時点で負けてたとか
まっとうな分析言われても嫌だろ ナポレオン「ロシアぶっころがす。モスクワまで攻め込むぞごるぁ」
「でもそんなん補給線が伸びすぎるじゃんよ。そこ攻められたらどうすんのよ」
ナ「そこは高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変にやれよ」 そもそもナポレオン自体が嘘八百並べてデマ流しまくってたじゃん それじゃあキングのナポレオン漫画どうなるんだよ
また巻末で嘆くのか >>28
別もアレも冬将軍だけのせいにしてないし
大丈夫でしょ
お前らが絶賛してたナポレオン漫画、キャラクター多いわりに顔の見分けがつきづらくてあんまり入り込めないわ >>16
中国経済崩壊一度も言ったことがないよほざいた石兵太郎をソースにする低学歴無職貧困ジジイバカウヨw ロシア帝国の広大さとスカスカド田舎さの見積りが甘かったよね 一方、我が大日本帝国の兵士は味方将軍の無茶な作戦でボロボロにされて負けた >>8
ナポレオンは何度戦っても決定的な勝利を得られないままフランス軍は消耗し
モスクワを占領した時点でフランス軍11万にたいしてロシア軍は増強を重ね兵力90万人達していた
震えあがったナポレオンは泣きを入れて必死にロシアに講和を乞うが相手にされずモスクワから逃走
後は後ろから攻撃されまくってボロボロに フランス人「零下21とか寒くて死ぬ!」
ロシア人「零下21とか乾燥してて軍事的に最適」 補給線なんて当時はないよ
基本現地調達なのは20世紀まで続いた
ゆえに孫氏の理屈でいけばインパール作戦はあながち無理な作戦でもなかった 俺がナポレオンだったら…
・夏でなく、春に出発する
・モスクワではなく、ペテルブルクを目指す
・ロシア全土の征服でなく、バルト海沿岸の封鎖を目的とする
・ツァーリがモスクワに逃れて抵抗を続けたら、ペテルブルクに対抗政府を擁立してロシアを分裂させる
・占領地の農奴を解放し、味方につけて補給路を確保する
・トルコを抱き込み、ロシアを包囲する
これで、政略目的(大陸封鎖令の完全実施)は実現するんじゃないかな? みんな早く帰ってオナニーしたかったんだろ
俺は修学旅行の時ずっとオナニーしたくてしょうがなかった
早く帰りたかった >>34
おまえもこの本読んで中国共産党の現実を知れ!
なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか 中国大虐殺史
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%9F%B3%E5%B9%B3_000000000346520/item_%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AB%E6%AE%8B%E9%85%B7%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E5%8F%B2_5244743
尖閣諸島問題などで見せた中国人のメンタリティと社会構造の深淵を暴く!なぜ中国人は人殺しが好きなのか、大検証。
目次 : 第1章 大量殺人から身を起こした中国共産党(革命とは「破落戸たちとの共謀殺人」である/ 「一村一焼一殺」の恐ろしい実態 ほか)/ 第2章 自国民への大屠殺を楽しむ共産党政府(200万人の命を奪った「土地改革運動」/ 71万人を即時処刑した「鎮反」という名の大虐殺 ほか)/ 第3章 「殺人者の楽園」を作り出した文革時代(毛沢東最後の「地痞流〓(ぼう)革命」/ 「迫害致死」という全国規模の大量殺戮 ほか)/ 第4章 中華帝国史を飾った殺戮の残酷物語(「三種の殺戮」をやり遂げた秦帝国の暴虐/ 陰謀と殺し合いで綴られる漢帝国400年史 ほか)/ 第5章 中国史上の戦慄すべき無差別大屠殺(100万人殺しから始まった「四川大屠殺」/ 人口の絶滅をもたらした張献忠軍の「殺人競争」 ほか) オランダとロシアじゃ距離違いすぎると思うんだが
場所が違えばやれることも全然異なる >>10
今戦史叢書ネットで見れるようになってるから誰も信じないぞそんな話 冬将軍って英語でなんていうんだろうと思ったらGeneral WinterかGeneral Frostでほとんど直訳なんだな
ひょっとしてナポレオンのエピソードからできた言葉なの? >>アントワーヌ・アンリ・ジョミニ
この人、作戦術のご先祖様な 人間猿が無駄な争いよ
ロシアが温帯だったらナチスやナポレオンとの戦果は変わってたのか? 広大な領土を持つ国の征服は困難である
(クラウゼヴィッツ) >>46
無理しなくてもいいんだぞ
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