弱者男性「現代アートはつまらない。説明を読んでも意味がわからない」←これ [715065777]
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「難しい言葉を使うくせに」ネットに蔓延する“現代アート嫌い”、理由は「特権意識」なのか
https://bunshun.jp/articles/-/39498?page=1 まだ絵画や彫刻や書みたいなジャンルに収まってるものは分からなくもないが
変な格好してパフォーマンスする系とかガラクタ並べてるだけとか気持ち悪いもんで不快にさせる系はもうお帰り下さいだわ
それアートじゃなくて君がアーティストぶりたいだけだよね?っていう 追記しとく
とある日本のマルクス主義系の文芸批評家は
批評、批判は「最低の鞍部で越えるな」と言った
スレタイを鼻で嗤うアート論者には
「現代アートはつまらない」という
自分にとっては軽く「最低の鞍部」で越えられたつもりが
その最も低レベルの物言いが「つまずきの石」となったことに気付けない
なぜか…人間を忘れたからだ
人間に付き合うことなしに人間の変容には気付けない
そうして自分は時間を超越しながら人間の、
アートの「新しさ」を語れると思い込む 現代アートでも綺麗とか気持ちいいならいいけど
不愉快なものはいらんね 表現物って人の心を揺さぶってなんぼだよね
だからって自分の心に刺さらないから無意味と断じるのも視野が狭すぎる >>105
不愉快な小説や
不愉快な映画なんていっぱいあるで >>95
ザハの作品そのものにこだわるな
そもそも建築にはどうやっても抜きがたい存在がある
それでいてそのどうやっても抜きがたい存在が
どうやっても抜きがたいがゆえに
しかもそれは語れば自分たちの負い目を見つめることになるから
けっきょくは抑圧するしかない存在が抜きがたくある
なんで古今東西
建築には安く使われながら命の危険にまっさきに晒される人間が要るのか
そして実はきょうび…この悪しき歴史を超越できるかも知れないとひとは思う
テクノロジーはそんな奴隷的人間をもはや必要としない建築を達成できるのではないかと
ほんとだろうか >>97
差別化にネタは尽きないよ…だって
資本主義とは終わりなき差別化なのだから
とゆうより
「尽きた」「終わった」と語ってしまうこと
そんな「批評」が終わらないことが資本主義なのだから
尽きないどころかそれによって延命するのが資本主義なのだから 修士氏も言ったでしょう…いまどき現代アートですぐデュシャンとか、と
そんな言説は「終わった」と >>23
一般人を顧客にする努力を放棄してるからこその現在の惨状とも言える 弱者男性パヨクは表現の自由が大嫌いだからな
アートなんて天敵だろ なんで俺がクラシック音楽を根城にするか
音楽こそ「アート」のうちもっとも危ういから
しかしその危うさに付き合いつつも批判できるのはクラシックしかない
ジャズでもだめ
いわゆる純文学とクラシック音楽と
ここにしっかり付き合えれば
他のアートなるものはそのふたつのあいだにまあ収まるだろうからだいじょうぶ
そう考えてのクラスレ、クラレス
そして文学だと各自長文読む労が要るけど
クラだととりまつべ貼ってみんなで気軽に聞けるじゃない だから一般一般やめろっての
みんな自分は一般のひとりで
だから一般を語れると思う
そんなおのれの傲慢さを「抑圧」しながら批評家を批判する 現代アート集団が人様の同人誌切り刻んで作品にしたり
お札偽造みたいな事してたからなー 現代アート=フレーバーアート
フレーバーがなくなればゴミだけど、それまでフレーバーを楽しむためのものだと思え
高値で買ってる奴はアホ 作者が作品に自分のナルシズムを入れちゃうと、
俗物感が臭っちゃうんだよね 寝らんないから
ちょっとクラシック音楽なレスしてみましょうか
クラスレでは何度もレスしてる話だけど
ストラヴィンスキーのバレエ(音楽)「春の祭典」
(ワレリー・ゲルギエフconductor/マリインスキー・バレエ+劇場管弦楽団)
https://youtu.be/NQQR-GU14sQ
とりまクラではこの作品でもって
「現代アート」が誰にも意識されるかたちで始まったとされる
初演が1913年
ちなデュシャン「泉」が1917年 明示的に意識される前から「現代アート」性をうんぬんするなら
シェーンベルク、ドビュッシー、リスト、ワーグナーまで遡る論がある
シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」op.21(1912)
(キーラ・ダフィーsoprano/ピエール=ローラン・エマールpiano/クリスティアン・マチェラルーcond/シカゴ交響楽団)
https://youtu.be/bd2cBUJmDr8
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」(1892)
(アンドレス・オロスコ=エストラーダcond/フランクフルト放送交響楽団)
リストの「無調のバガテル」S.216a(1885)
(シプリアン・カツァリスpiano)
https://youtu.be/pdOBd_uqcaA
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲(1857)
(ピエール・ブーレーズcond/ルツェルン祝祭管弦楽団)
https://youtu.be/hcYjKs_9ov8 それでもこれは意識的な「現代アート」上の「事件」だとして扱われたのは
ハルサイを嚆矢とするのは衆目の一致するところ
そのストラヴィンスキーがしかし
「絶対的に現代的、永久に現代的」と評したのは
遡ること90年のベートーヴェン
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲「大フーガ」op.133(1825)
(デンマーク弦楽四重奏団)
https://youtu.be/JmIr-7z3XdY 逆にストラヴィンスキー以後では
シェーンベルクの十二音にはじまりセリーやら「偶然性の音楽」やら
とうとうケージの「4分33秒」まで行き着いたりしたけど
こんな音楽史のことじたいは実はどーだっていい
問題はいつだって人間にある
つまり
人間は「現代」をどういうものとして語りたがっているのか
20世紀前半の「現代人」、20世紀後半の「現代人」、
そしてわれわれ21世紀のうち一-四半世紀の「現代人」は クラシック音楽の世界でおそらく最初に
作曲家でありつつ音楽批評も意識的に行い
そのなかでみずからの「現代」を意識的に論じたのは
ロベルト・シューマンだろう
シューマンの幻想曲ハ長調op.17
(ネルソン・フレイレp)
https://youtu.be/lEkQMymyAM0 現代アートは逆に
説明読めばバカでもわかるんだから
間口が広い。 こんにちシューマンを「現代アート」として語る者は皆無だろう
むしろ古臭い「ロマンティシズム」と「ナショナリズム」が濃厚な
時代の、歴史の、ひとつの徒花として片付けられるのがオチでは
しかし繰り返すけど問題はそんな音楽史ではなくて
シューマンにとってはみずからの言論とそしてなにより作品とが
かれの「現代」だったのだということ
そしてかれだけでなく
周りの多くもそのように自分たちの「現代」を受け取った 弱者に理解されないところまで含めてアートなんですよ しかしそれでもやっぱり
シューマンの「現代」とストラヴィンスキー「現代」とのあいだには
明らかな切断がある
そしてわれわれとしては
ストラヴィンスキーの方に「現代」を感じることは否めない
以上の感性を鈍らにしてるから
「現代アートとは『現代のアート』以上のものではない」などとのたもうて
それで「批評」いっちょあがりとなる
そして次々と「現代」が更新されてると考え
「インスタ」と「体感」が「現在的現代」などとのたまう
しかしポストモダニズムは論理的にモダニズムの下位概念であるように
ストラヴィンスキーは(現時点で)「永久的に現代的」であり
デュシャンのやったこともまた「永久的に現代的」 >>88
家電だって
機能が増える=価格が上がる
が一番わかりやすいじゃん 名画みたいなのだってあれ
蘊蓄格付けみたいな
わかりやすい家電カタログスペックなかったら
門外漢リッチおっさんに
希望額で売りつけられないだろ。 意味とかわからんけど見てるだけで気持ちよくなるのあるよな 仕組みが分かれば作品を理解する必要ないだろ
素人は美しい美術でじゅうぶん 上級おっさんは
門外漢向けの
蘊蓄格付けカタログ読んでるだけなのに おしっこしたからほんとさいご
おそらく前スレ本スレでもっとも多かったレスは
>>134>>135のようなものではないだろうか
そして修士氏もそんな「一般」を肯定すると
対して俺なら例えばこう言おう
ひとつには
感情、快不快は、とりあえずの現在地を示す以上のものではないと
そしていまひとつには
そのとりあえず(瞬間)のものにどう微分計算を与えていくのか
そこに時間、人生の変数を含めて
4時…おやすみなさい ファインアートは高尚でいいんだよ
パブリックで無理やり共有しようとするから誤解も生むし無駄な物が作られる ナチスは退廃芸術展を開催し、
現代美術を「キチガイ」「俗物」だとして弾圧した
一方でヌード画を中心とする古典画を大ドイツ芸術だとして称揚した
スターリンのソビエトは
現代美術を「ブルジョワ的」「エリート小児病」だとして粛清し
一方でわかりやすく具体的な的なリアリズム芸術を掲げた
良くも悪くも現代美術の受容は、その時々の社会の自由度、許容度による
今日、
ナチスやスターリン真っ青な現代美術観を振り回しながら、
一方で「表現の自由」を叫ぶトンチンカンなのが多いこと多いこと 現代アートなんて芸術センスの無い輩がダサイクルで互いにゴミを無理矢理褒めあってるのが殆どだからな
深堀隆介氏の金魚くらい有無を言わさないものを出されれば素晴らしいって答えるけど おいそれと真似できない圧倒的な表現こそ芸術として認められる
現代アートは手抜きに見える 実際に観にいくとだいたい現代アートって馬鹿デカいから
おいそれと真似できない、俺にはできないって感想になるんだけどね
写真やWEB情報だけの人は、俺でも出来ると思いがち
思いつくのは簡単だけど、実行するのは難しい、
を地で行くのが現代アートってところある なので、実地に見にいった人たちの間で現代美術は流行ってる
もはやアトラクショに近いところあるけどな わかりやすい「技術」なら現代美術から分化したモダンデザイン、商業芸術があるわけで、そちらの領域
雑貨なりガジェット買い漁って楽しむなり
漫画やイラスト読むほうがいいと思うよ 野山でも映画館でも昆虫館でもエロ収集巡回でも
意味を見るためにそこに行ったりそれをする訳でもないだろうに
現代アートの5文字(あるいは芸術の2文字)をスッと置くと瞬でイミガーおじさんになる不思議な症例の魅力 分からないのは自分に素養が無いからと考えられないお方がケチをつける 症例でもなんでもなく、それが現代アートの方向だから
写真が発明され、アートが商品として大量生産、配布できるようになった段階で、
「ひとつ限りの価値」をめざす芸術がとる方向は、
コピーや配布することが不可能な何か、「体験」や「その場」を志向するものになる
それが環境芸術だの空間だのへと向かってるいまの現代アートなわけで、
写真やWEB情報では何も言えない、いって楽しんだ人間にしか語れないものになった
原理的に、現代アートに限らず絵画はそういうもので、実物を見ないと見たことには実はならないわけだけれど、
現代アートは特にそういう方向 それを言い出したら現代アートだけじゃなくて、モネもピカソも印象派やキュビズムが出てきた背景を理解してなければ、ただの変な絵でしかないだろ
現代アートだけはやたら敵視されてるよね >>158
モネは実地で絵を描くことに拘った。それが印象派
ピカソは実地での時間と空間に拘った。それがキュビズム
どちらも画家の体験の話
なわけだけれど、157で言ってるのはさらに先の話だよ。観客の体験の話だ
もともと、商業芸術は大量にコピーされるもので、それによって価値を増す
一方で芸術(ハイアート)はオリジナルにしか価値はない。贋作に価値がない
コピーと大量配布と商業芸術全盛の時代に、ハイアートはどうやったらハイアートであり続けられるか、ってな話だよ 川村美術館でロスコとかステラとか
日本の映像作家のインスタレーションとか見たけど
印象派なんぞよりよっぽど現代美術のほうがええぞ
みたことないのにくさしてるやつおるやろ >>160
あそこはそれでいてレンブラントの肖像画も飾ってあるのが凄い 19世紀以前の近代絵画からバルビゾン派、印象派への変遷を見るとスゲーってなるぞ 作ってる奴にはなんとも思わないけど見て関心してる奴はぶっとばしたくなるな >>164
ほんとそれ現代アートは買ってなんぼ
マーケットすらまともに存在しない日本で現代アートすげえって言われても
はははwって乾いた笑いしか出てこない >>159
お前に対してレスしてるんじゃなくてスレタイに対してなんだわごめんな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています