『鎌倉殿の13人』で石橋山にて源頼朝惨敗! なのになぜ富士川の戦いでリベンジできたのか。関東制覇を果たす源氏と、平清盛を失い木曽義仲にも敗れた平家の都落ち 「合戦」でわかる!鎌倉殿・第2回

22年1月からNHKで放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。平安末から鎌倉前期を舞台に、小栗旬さん演じる北条義時、大泉洋さん演じる源頼朝ら、権力の座を巡る男たち女たちの駆け引きが三谷幸喜さんの脚本で巧みに描かれて人気を博している。
本連載では源平の争いから鎌倉幕府誕生まで、その行方を左右した「合戦」を中心に、歴史をひも解いていく。第二回となる今回は、石橋山で平家方の大庭景親、伊東祐親らに惨敗した源頼朝が復活し、関東制覇を決定づけた富士川の戦いについて。

◆諸国の武士が次々に蜂起!源平合戦はこうして始まった

平清盛による後白河法皇(ごしらかわほうおう)幽閉後、京では平氏への不満が募っていた。

治承(じしょう)4年(1180)、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨(りょうじ=皇子や皇后の命令書)を全国の武士に発した。

この謀反はすぐに露見し、王に味方した源頼政(みなもとのよりまさ)は滅ぼされたが、京の防衛に不安を覚えた清盛は、急遽、安徳天皇(あんとくてんのう)以下、法皇や平氏一門を連れて摂津福原(せっつふくはら=神戸市)へ向かう(福原遷都)。

しかし、平氏の独裁政権に対する反発は急速に高まり、8月に伊豆国(いずのくに=静岡県)の源頼朝が挙兵したのをはじめ、信濃国(しなののくに=長野県)の木曽義仲(きそよしなか)、甲斐国(かいのくに=山梨県)の武田信義(たけだのぶよし)など諸国の武士が次々と蜂起し全国的な内乱に発展する。

治承・寿永(じゅえい)の乱(源平合戦)の始まりである。

◆一度は大敗しながらも勢力を拡大した頼朝

中でも、急速に勢力を拡大したのが関東の頼朝であった。

伊豆の代官を討って緒戦を勝利した頼朝は、石橋山(神奈川県小田原市)の戦いで大敗したものの、房総半島にわたって急速に勢力を拡大。三浦・小山・千葉・上総・畠山など有力豪族を従えて、わずか1カ月で南関東を制圧し、相模国鎌倉(さがみのくにかまくら=神奈川県鎌倉市)を拠点として武家政権の整備に着手する。

事態を重視した清盛は、新都の建設のさ中、平維盛(これもり)を総大将とする遠征軍を東海道に派遣する。

しかし、平氏軍が駿河国(するがのくに=静岡県)に着いたとき、同国の平氏方武士はおろか、石橋山で頼朝を破った相模の大庭景親(おおばかげちか)や伊豆の伊東祐親(いとうすけちか)の軍勢も壊滅しており、遠征軍は完全に孤立してしまったのである。

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