オスマン帝国伝統の「細密画」でセーラームーンを描いたら トルコで評判の気鋭アーティストは日本通
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○驚異の常備軍団

 「トルコの軍隊は不敗である。彼らと戦おうと試みるのは、愚かなことである」
 十五世紀半ばに、ローマ・カトリック教会の枢機卿スカランボはこう嘆いた。西欧人の恐れた常勝不敗の軍隊の中核に位置したのは、
当時の西欧では夢想だにできないほど大規模な常備軍であった。
 オスマン朝の常備軍は、歩兵であるイェニチェリ軍団(イェニチェリ・オジャウ)と、常備騎兵軍団の六連隊衆(アルトゥ・ボリュク・ハルク)を
二本の柱としていた。
 その補助軍団としては、砲兵軍団(トプジュ・オジャウ)、砲車兵軍団(トプ・アラバジュ・オジュウ)、鎧師軍団(ジュベジ・オジャウ)などがあった。
最後のジュベジは、原義は鎧師を意味するが、実際には武具・武器の作成と修理を主任務とし、工兵も含んでいた。
 俸給支給表によれば、スレイマン大帝初年の一五二七年現在で、イェニチェリ軍団七八八六名、騎兵軍団五〇八八名、砲兵軍団六九五名、砲車兵軍団九四三名、
ジュベジ軍団五二四名である。一五世紀初めには一万名いたといわれるイェニチェリの数はやや少なめだが、それでも常勝軍団は総員一万五一三六名におよぶ。
 一六○九年になると、イェニチェリ軍団三万七六二七名、騎兵軍団二万八六九名、砲兵軍団一五五二名、砲車兵軍団六八七名、ジュベジ軍団五七三〇名で、
総員六万六四六二名に達していた。
 構成員の全員が銃器の扱いに習熟し、一糸乱れずに行動することで西欧人を震えあがらせたイェニチェリ軍団は、一六世紀には一九六の大隊に分かたれ、
全体がイェニチェリ・アースゥ(イェニチェリ軍団長官)の指揮下に置かれていた。その本隊はイスタンブル内の駐屯地(クシュラ)で生活していた。
 首都にまとまって駐屯する巨大な軍事力は、帝都の治安を支えるとともに、地方に対しにらみをきかせた。スルタン子飼いのイェニチェリ軍団は、
君主専制的・中央集権的なオスマン帝国を象徴する存在であった。

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書) より

イェニチェリ
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イェニチェリ武器
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オスマン歩兵
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オスマン騎兵
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オスマン帝国の武具
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ベオグラード包囲戦(1456年)
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ヨーロッパに侵攻するオスマン帝国(映画:Stars of Egerより)
https://www.youtube.com/watch?v=lpQmhrhydC4