【悲報】日本史最強の名将・豊臣秀吉「明国を攻めるぞ!まずは手始めに属国の朝鮮を潰せ!」→ボロ負け撤退 これ何だったんだ・・・? [661852521]
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>>127
明の文明と農業産出力を考えれば一人あたりのGDPが3倍強でも不思議ではない >>136
別に嫌ってないが?
太閤立志伝5はケンモジのバイブルだし >>5
最初、高麗は圧政下にあったので国民が協力してとんとん拍子で進軍できた
だが豊臣軍も略奪や虐殺をしたせいでゲリラ化して以降は兵站に苦慮するようになる
平壌は明軍を前にして戦うことなく撤退
碧蹄館では有利に戦いを進めるも両軍兵站が限界のため和平交渉へ
慶長の役では文禄の役で海路による兵站が失敗していた反省から全羅道を重点的に攻め拠点作りに終始するが防戦一方で平壌まで攻めることは出来なかった >>123
碧蹄館以降、前線サイドでは「やる気ねーな」ということで明の沈惟敬と一致して交渉してたけど
万暦帝と秀吉の両方を納得させる落とし所が見つからず苦慮してたのかと
結局「相手の国が降伏した」と両者が嘘ついて終戦にこぎ着けたから死ぬ覚悟でやった行長はスゴいと思うよ 当時の秀吉は武力で占領しても統治政策の事までは考えてなかったっぽいんだよな・・・
実際序盤は勝ちまくっていたのに、欧米の最新兵器持ってきた明軍には太刀打ち出来なかった 海路で進行して陸路で兵站をしようというのが厳しすぎた
文禄の役では南西部の全羅道を確保しないまま北上するタブーを犯し高麗民がゲリラ化したら立ち行かなくなる
慶長の役ではその反省からかなりの戦力を全羅道に投入し海路による兵站路を確保し拠点となる城を東西に築城していった
それでも完全には全羅道を確保できなかったけど 家康が自分から朝鮮に行こうとしてたけど、秀吉が止めさせたってわけ本当なのか? このころから兵站軽視されてたんだよな
そして火薬を自国で作れないのに何故か世界で一番の保有数を持ってた火縄銃を相手に鹵獲されて使われるという間抜けっぷり 当時は大航海時代
スペインが世界を荒らし回ってたことも
日本もターゲットだとも秀吉も当然知ってる
スペインに対抗するため明や東南アジア抑えようとしたのは
不思議ではない この歴史的事実をなんで明治以降の対外政策に生かさなかったんだろう 秀吉は天皇の臣下ということをアピールしてたから
明治維新で英雄扱いされたんじゃねーのw
新田義貞とか楠木正成もそうだったし
だからさげることは無理 >>160
征韓論派が持ち上げただけかと
加藤神社が明治に作られたのも同じ >>103
中国の歴史書に書かれているなら、日本が優勢だったんだろうね。
明や朝鮮みたく、国が傾くことも無かったし 文禄の役では奇襲により緒戦は快進撃が続いたが兵站が持たない上に1番隊の小西らと2番隊の加藤らはソリが合わなくほぼ連携がとれずジリ貧
慶長の役ではただの朝鮮への嫌がらせに終始する
損害の多くはジャップ得意の餓死、病死 >>152
秀吉も言うても当時五十代半ばでしょ?
今でいえば江口洋介とか福山雅治とかの年代だよ
バリバリ壮年 秀吉は家康を警戒してたってのは後世の人間だからそう思ってしまうだけで
実際秀吉は家康のことを心から信頼してたと思うぞ 領土拡張欲は秀吉だけが持ってただけであって
家臣軍は国内の自領拡大にしか興味が無いから継続する意味もあるまい 秀吉軍が朝鮮に上陸した時には 既に朝鮮半島は焼き払われた後で補給すらできなかったから 有力者に媚びて成り上がったクズの末路の典型例だよね。 異民族支配は前例がなくノウハウが全く無かったし歴史にも学ぼうとしなかった
大量の銃を使う戦術は先進的だったかもしれないが大砲がなく攻城戦は向いていない スペイン帝国=米帝
明=NATO
ウクライナ=朝鮮
ロシア=日本 実際の戦闘ではほとんど負けてないだろ。
小西行長や石田三成が秀吉の方針に従わなかったのも原因だと思う。
関ヶ原の伏線だよな。 >>173
明軍来てからまともに勝ったと言えるのって碧蹄館くらいじゃね?
負けてないだけで勝ってもない >>166
その渡す領土がないから進出したわけで
秀吉自身は朝鮮何て欲しくないだろう
あるいは領土に代わる高価な輸入品を
手に入れる貿易の為とも言われてるな >>165
まあ最初は当然疑ってたと思うけど
何年も忠臣演じてたら信じるかもな
家康自身何が何でも秀吉死んだら天下取ってやる
なんて思ってなかったと思うしね
たまたま秀吉死んだ後の豊臣政権がガタガタだっただけで
下手すりゃ待ってるうちに家康が先に寿命で死んでた >>162
いや傾いたろ
治安を司るべき武士が国内から消えて重税課したもんで、日本国内は盗賊が跋扈する状態になってたんだぞ
国内から朝鮮出征者に向けて
「今日本に戻ればやりたい放題だからお前もなんとか脱走して戻ってこい」
とか手紙書き送ったりしてる
その不満もあって豊臣の権威が揺らいだわけだしな
女真族に攻略された中国と違うのは、傾いたからと言っておいそれと日本に上陸出来る異民族なんかいなかったということ ジャップはこの頃からロジスティクスの概念がだめだったんよ 秀吉も晩年は今のプーチンみたいな精神状態になってた
やっぱ一人に権力を集中させるとそいつがジジィになったときのリスクが大きすぎる 名護屋城まで出向いておきながら自身は出兵しなかった家康の狡猾さよな
間違いなく存命中から政権簒奪を考えていたと思われる節が有る 動員された西国大名も、2年後には関ヶ原やる余力を残してるから、真剣にはやってなかったんだろうね >>1
天下統一による足軽失業者の雇用対策だろ?
始皇帝による南征や西郷隆盛による西南戦争と本質的に同じ >>183
え?西国大名が島津とかほとんど関ヶ原に派兵できてないじゃん >>183
国内に残って力を温存した家康に色々援助されてるからな
だから出兵した大名の多くが家康に恩義ができて東軍に加勢したわけだし、
逆に西軍の小西行長なんかは回復できず二十万石大名としてはしょぼい兵しか出せなかった >>185
島津が兵を送れなかったのは、庄内の乱で伊集院氏を屈服させれず、国内に反乱分子を抱えてるのと、義久と義弘の確執からでしょ
殿様の一大事で、手弁当で1,500人が集まったのは、義弘の人望 >>186
20万石で、4〜6千人も動員できれば充分では
隣は不仲の加藤清正で、抑えもあるだろうし >>178
失業していた雑兵が動員されたから、国内からならず者が減ったとも
手紙の件は、代官の改めがないから、逃げても捕まらないって、加藤清正が人夫の手紙を見つけたってやつ? >>188
それ大半三成から貸してもらった兵なんよ
>>189
一時的に減っても重税によって新たにならず者が増えてんだから意味がない
そして増えた時に治安を守ってきた武士はいない >>190
毛利ならともかく、三成に兵を貸す余力なんてあった?せいぜい2.3百とか >>147
太閤5は最初に秀吉プレイでエンディングまで行けば
主人公カードが最低でも2〜300枚は集まる
それ以降秀吉主人公でやるのは家康や光秀のカードを取るイベントを起こし損なった時くらいしかないだろ 明側は日本の侵攻を予測して朝鮮に防備を固めるよう警告していたが、朝鮮は日本による侵攻はないものとして特に対策もしなかった
装備についても朝鮮は対馬藩から献上された火縄銃の価値を理解出来ず死蔵させていたなど、元々の武官を軽視する風潮もあいまって軍事的な知識や理解が皆無だった
結果として朝鮮軍は日本軍に軽く蹴散らされ、大した抵抗も出来ず瞬く間に壊滅させられる
一方朝鮮人の農民階級などは朝鮮政府の圧政に苦しんでおり、日本軍を解放者として歓迎し物資の提供や道案内を買って出るなど積極的に協力をした
その結果1ヶ月も待たずノーダメージで朝鮮全土を攻略。しかしその後日本軍の多くの部隊で食糧強制徴発や戦果アピールのための耳削ぎなどを行ったため反感を買い、ゲリラ化した民衆によって本土から輸送した食糧を奪われまくるようになる
そのせいで日本軍内では餓死者が続出するようになり、更にまともな防寒装備もなかったため朝鮮の寒冷な気候に順応出来ず凍死者も頻発した
明軍参戦で戦線も膠着状態に陥り士気は急降下、厭戦ムードも蔓延したため明と共謀して停戦、撤退
得したのは日明軍の手によって反政府的な住民を一掃でき、更に300年続く長期王朝を築く足掛かりを得た李氏朝鮮の王党と両班だけと言うなんの意味もない戦いだった >>192
三成だけが出したわけではないからね
イエズス会の報告では、小西行長は島津と並んで
「若干名の軍勢」
しか出せなかったとしている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています