「曽祖父は海軍中佐で戦艦陸奥に乗っていました」「うちの親戚は瑞鶴の艦長です」「祖父は愛宕に乗ってレイテ海戦に行きました」 [605031433]
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🇯🇵蘭 (Ran)🌸☘
@Ranchan2021
おはようございます😊
今日は春分の日
そして「暑さ寒さもお彼岸まで」のお彼岸ですね
今から家族と墓参りに行ってきます
私の曽祖父は帝国海軍軍人(中佐)、戦艦陸奥にも乗って戦ったそうです。
今日は曽祖父の意志を引き継いで蘭も日本を護るためネットで戦っていることを報告したいと思います😌
@awanokaijin
自分は昨日、お墓参りに行って来ました。
今日は仕事なので…😩
自分の叔父は特攻隊、降魔特別攻撃隊第108振武隊所属で知覧から飛び、私達の国の未来のため、十代の若さで散りました。
先祖様はじめ、戦火に散った英霊様に感謝です🙏
@buchi_okzk
うちの親戚は瑞鶴の艦長だった横川。
息子の名前は翔○、娘の名前は瑞○!
意識していなかったけど結果的に兄弟艦と同じに。
でもうちの親族では瑞鶴が優先なので・・・・妹の勝ち!
@Inada2127
おはようございます。私の祖父も帝国海軍です。中佐でした。愛宕に乗ってレイテ海戦に行きました。本日もよろしくお願いします。
https://twitter.com/Ranchan2021/status/1505709005079212035
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>235
大和乗組が嘘松かどうかはともかくとして
「海自組」が「大和」と聞いた途端「すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼」とかいうのが嘘くさすぎる
第一こんな漫画みたいなリアクションする大人はいない
第二に大和なんて戦術的にも戦略的にも、もっと言えば政治的にすらなんの活躍もしてないフネじゃん
もっと活躍したフネ、大変な目にあったフネはなんぼでもあるし、
さきの大戦をちょっとでも勉強してりゃ名もなき海防艦や哨戒艇、監視艇の類にもっとも敬意を払ってるだろ
だいたいどのフネだから偉い偉くないなんてそこまで露骨に態度で示すわけがない
(現役艦ならともかく)
ただただ不快なコピペ >>593
大和乗組がそんなに尊敬されるのなら、大和ホテルなんて明らかに揶揄する言葉なんてのが発生するわけがないんよなぁ 子供の頃おばあちゃんが小泉の文句ばっか言ってたのは覚えてる >>593
戦艦勤務は当たりだからな
比較的楽な職場
最悪なのは駆逐艦だよな wikipediaの硫黄島の戦いにリンク貼られてる従軍者の手記は壮絶すぎて一気読みしてしまった うちの祖父はなんかの軍艦の炊事係だったけど駐留先で赤痢にかかり入院してるいる間に帰属の船は沈没しました >>583
うちの爺さんも靖国は毎月いってたけど話は死ぬ直前しかしなかった 祖父の義弟(妹の夫)が、
士官で戦後水交会の会長。
親父は海兵予科で終戦。
前に身内が大和だ武蔵だと嘘言ってた奴がいたから締めてやった。 額縁に写真だけ残ってる祖父の弟は北方の島で死んだ言ってたからアッツで戦死したらしい 命をかけて戦った結果ネトウヨやらケンモメンの孫ができるとか浮かばれねーな 特攻隊だったけど出撃寸前に終戦になったって言い張ってる親戚が4人ぐらいいる 俺の父方の祖父はインドネシアで一兵卒として死に方もわからず亡くなった
母方の祖父はビルマで砲兵の下士官としてインパールに参加して所属の中隊でただ1人生還した
義祖父は予科練から特攻隊員になってすぐ終戦、戦後はヤクザになってた >>409
歩兵第29連隊 wiki
1943年(昭和18年)
2月7日 - 連隊の残存兵253名はガダルカナル島を撤退する。
2月8日 -ブーゲンビル島エレベンタに入泊し、無事上陸。
3月23日-連隊長交代
4月7日-ココポに移り補充隊を掌握。
4月18日-フィリピン移駐のため、ラバウル港を出航。
5月8日-マニラに入港し、ゴンザレスに向かう。
5月11日-ゴンザレスに全連隊が終結完了。とあるも参加出来た兵は五十名に満たなかった。
10月6日-ゴンザレス発
10月8日-マニラ終結連隊主力はサンタアナにて待機。
10月12日-第三大隊はシンガポールに向かい、マラッカに駐屯。
11月3日‐連隊(第二大隊・連隊砲中隊を除く)に出発命令下達
11月5日-輸送船興帝丸によりマニラ出航
11月10日‐シンガポール入港セレンバンに向かい前進、13日集結完了。第十八独立守備隊指揮下に入り教育訓練及びマレー半島の警備にあたる。
12月12日‐第二大隊・連隊砲中隊シンガポール入港。
12月中旬‐軍旗再親授の報とビルマ転進の為の出動準備の命令を受ける。
1944年(昭和19年)
1月13日‐軍旗再親授のため大島連隊長は旗手古沢少尉、誘導将校伊東中尉以下小野軍曹、赤塚伍長を伴いセレンバンを出発。
1月下旬‐ビルマ転進の師団命令を受ける
1月31日‐宮中にて軍旗再親授。
2月1日‐連隊長一行は立川発、福岡歩兵第113連隊補充隊に仮泊。
2月2日‐雁巣飛行場発台北に向かう途中長崎県の千々石町九千部山中腹に搭乗機が衝突。乗員は全員殉職。現地の部隊ではこの日深夜、軍命令により事故処理と軍旗宰領のための人員を決定。
2月5日‐三宅健三郎大佐着任
2月8日-連隊長代理、栗栖少佐以下西部軍司令部に出頭。
2月12日‐陸軍省、陸軍大臣室にて派遣技術員が旗手立会いの下、軍旗を修理。所要時間は約40分。
2月17日‐連隊長以下立川発
2月22日‐連隊主力(連隊本部、直轄各中隊、第3大隊)はサンドウェイ地区防衛隊となる旨の師団命令を受ける。
2月25日‐連隊本部、直轄各中隊、第3大隊はレパタンに集結完了。
2月26日‐連隊長以下ラングーンのミンガラドン飛行場着、連隊終結地レパタンに前進。師団長参列の下、軍旗奉迎式を挙行。
2月27日‐第1大隊は54師団の指揮下に入りアキャブに前進。主力はサンドウェイに前進。
3月 - ビルマに進出しサントウエイの防御に当たる
8月 - 龍陵に移動、第一次断作戦に参加
10月 - 第二次断作戦に参加
1945年(昭和20年)
1月 - 仏印に転進
第2師団司令部に部隊配置の指示を受ける。
3月7日以下の地域に配置完了
ストットレン - 連隊本部、第3大隊本部、11中隊主力、連隊砲中隊主力
クラチェ - 9中隊主力、10中隊、3機関銃中隊1小隊、3大隊砲小隊、連隊砲中隊の1小隊、工兵隊
パクセ - 11中隊の1小隊
プノンペン - 速射砲中隊主力、第7中隊(捜索第2連隊に配属)・大湖南側地区…第2大隊(第7中隊欠)
タイニン地区 - 隊1大隊主力
2月 - 明号作戦に参加
8月15日 - 終戦、玉音放送聴取、軍旗奉焼の緊急電報を受ける。当連隊は通信中隊の尽力により無線機を改造して受信することが出来た。 ガンダムみたいな感じで気軽に中佐だったとか言ってるんだろうな >>568
そもそも士官以上なら転属しまくるから
家族が横須賀に定住する意味ねーし >>581
暴行死も自殺も戦死で報告するってのは普通に行われてるらしいね
最高にジャップ >>520
何で米軍は台湾スルーしたんやろね?後ろから撃たれないって分かってたから放置しといたんやろか? >>595
うちの婆さんは小錦が大嫌いで負けると手を叩いて喜んでたな。鬼畜米英が身に染み込んでたんやろな。 >>615
本土に行くのに余計な回り道になる、
沖縄上陸戦やっても横撃されるほどの戦力は
台湾にないし空襲で片がつく、
何より同盟国・中華民国の領土圏に突っ込んで
ゴタゴタ起こしたくない、
日本領はそのまま米国勢力圏になるが
台湾占領しても返還濃厚で旨味がない 私の曽祖父は慰安所が大好きでしたがそれだけではあきたらず中国の女を犯していました >>583
生きてても記憶はどんどん消えてくから聞きまくるのがいい
俺も爺さんが死ぬ数年前あたりから聞きまくったが、途中からは特定のエピソードを繰り返すばっかりであんまり参考にならなくなったわ 釈迦の骨みたいに大和の乗組員100万人くらいいそう 曽祖父の遺影はセーラー
でも船に乗ってたのかすら知らん
親戚は大和に乗ってたとホラってたけど誰も信じちゃいなかった >>593
勝手に神格化されてなんの実績も無く上層部の無能判断で沖縄に送られる途中に沈められただけの船だからな
まさにハリボテの象徴で旧軍の無能っぷりを示すような存在なのに直立不動の敬礼?
00年代に大和テーマにした映画あったけどそれに影響されたバカなのかな >>603
確かに爺さんから直接話を聞いたことは無かったな
ただ婆さんからは結構話を聞いてた
空襲が始まると防空壕に入らず近くの缶詰工場に皆集まって吹っ飛んでくる缶詰をひたすら拾ってたという話しをするのが大好きだった
ホントにそういうのがあったのか知らんが 米海軍の大和的なヒーロー艦がエンタープライズなんだけど
これはとにかく被弾しても沈まなくて最初から最後まで戦い続けたからヒーローになったんよ
大和は出来たときから名前とスペックで持て囃されて戦果は散々なのと好対照
活躍したからヒーローになるんであって旧軍は順序が逆 うちの爺さんは、
弾薬が残ってると怒られるから、
蛸壺から鉄砲だけだしてバンバンめくら打ちしてたって言ってたわ うちの親戚中将って聞いてたけどネットで名前検索したら少将って出るし軍籍謄本?取り寄せてみたら少将って出てくる
終戦直前に中将に昇進したって聞いてるけど本当のところ何が正しいのかわからなくてモヤモヤする 第一航空艦隊「行ってきます」
第五航空戦隊「行ってきます」
第一機動部隊「行ってらっしゃい」
第三艦隊「行ってきます」
第一機動艦隊「行ってきます」
第三航空戦隊「行きます」 ウチの母方の祖父は木更津で終戦を迎えたと言ってた
グラマンの機銃掃射から逃げるのが面白かったと言ってたわ
父方は美大だったから招集免除だったらしい >>616
ウチの爺さんがサッカーで髪染めてる選手をTVで見るたびに、小学生の自分にあれは毛唐かと聞いてきてた 大伯父はコネで近衛兵やってたらしい
イケメンじゃないとなれないらしいがワイは不細工や ふーん凄いね。
ウチの爺様は有名な教授だったから戦争には行かなかったわ。 こういう虚言癖の言ってる爺全部加算していったら大和の乗組員何人になるんだかな 川口少将の孫は大学時代の同級生にいたぞ
あとうちのガキが学校で、総理の子孫と同級生だが何か? うちの爺さんは海軍工廠に居たらしいんだけど艦艇の設計に携わった人員のリストって保管されてるの? 終戦から77年
50過ぎのジジイどもがこれ書いてると思うと普通に怖いな 愛宕乗りはナゼか大和乗りと言うことが多いので嘘です(´・ω・`) サイゴンで終戦なって軍の食料品食い放題で楽しかったて言ってた 俺の祖父も戦争行って補給艦乗ってたし勿論ただの一般兵だけど
一定年齢より上の親類なら大抵同じだろうから戦争行ったのだけは事実で他は話膨らませまくってるんだろうな ちょっと前の介護施設にはイギリスの捕虜になった人とかシベリアから帰還した人がいたりして
そういう人の話は面白い そういう人は悲惨な話はあまりしない 裏話的なエピソードもってる
そういうの聞いてない人は嘘松 シベリア抑留から帰ってきたじいちゃんは全然戦争の話せんかったな ネトウヨっぽい艦これオタクの甥っ子に曾祖父さんはヤマトに乗って戦死したと適当なホラを吹いたら信じてて草 ネトウヨのじいちゃんの大日本帝国海軍大和型戦艦2番艦武蔵搭乗率は異常
親戚に最近亡くなった元近衛兵のおじいさんがいたけど
戦時中も皇居周辺を馬でパカパカやってたらしい
その人一回だけ仕事したことがあって
皇居に火が燃え移った時に消火活動してたらしい 佐世保で本土決戦に備えて塹壕掘りじゃ駄目なのか
盛るの好きだね 俺の爺さんはガチで赤城に乗ってたらしいけど
そんな事より砲弾の破片が目に入ってそれを取るために麻酔もかけずに目玉を弄られたって話の方がショックが強くて覚えてるわ
曽祖父は第一次世界大戦に行って
祖父は第二次世界大戦でスパイ兵だった
ロシア語、核変化間違えずに話せる人だった うちの爺ちゃんも海軍さん
将校とかではなく農家出身なら料理できるだろ、と料理させられてたらしい
(農家の三男坊で大して料理しないのに)
艦での生活は意外とのんびりしていて甲板で訓練や毎日魚釣り(夕飯の足し)していたと言っていた
食べ物には困らなかったが上官の理不尽な体罰が辛かったって言ってたな
実際の戦闘の話は殆ど聞かせてくれなかった
子供にはあまり聞かせたくないと
凄い幼かったから当時は気付かなかったけど名前の書かれた腕時計を何点も大切に持ってたけどあれ遺品だよなぁと後で気付いたよ
他にも航空隊?(艦載機?)の人達との写真がとにかく沢山あった
どれもみんな若くて笑顔で悲しかったな
今は役場職員からの勧めで町の資料館に寄贈してしまってるけどまた見たいなぁ
ちなみに戦後は大牟田市の三池炭鉱で経理課にいて事務員してたそうだ
ちなみに隣の家の爺さんは背中にバッサリ刀傷と銃傷何発か、左腕は肩から欠損してて(行くと必ず見せられる)
何人殺したとか怪我で死にかけたがそれは誉れとか色々行く度自慢してて
それはそれで貴重な話を聞けたな〜 ネトウヨの妄想よ
しかも相変わらず他人のことでホルホルして気持ちよくなってるおぞましさ 20年前に大往生したじーさんは沖縄で捕虜になって帰って来た
手先器用な人で整備関係の仕事してたって言うけど戦地の話は酔った時ぐらいしかしてくれなかったな
所属部隊の懇親会があって10年前に最後の一人が亡くなった時に義理で葬式行ったけど故人親族の話聴くと前線でなくても結構悲惨な状況だったと聞いてモヤモヤした 関東軍所属ってパターンが一番多いだろうな現実的には うちの爺ちゃん、満州の前線から遠い都市で延々待ちぼうけ食らってたら終戦になって帰って来たってさ
だから敵を見たことも撃ったこともないそうだw うちのじーさんは戦地に一切行ってないんだが
学校の先生だったから? >>670
公務員は徴兵されないからな。うちの爺さんも当時保健所勤めしてて徴兵逃れてたわ >>631
帝國海軍軍人が揃いも揃って現場猫だったせいでロクに確認もせずに撃沈ヨシしてたおかげ もう死んじまったけど爺さんは一言も戦争の事語ったりはしなかったな
自分からひょいひょい語り出すもんなのかね >>673
お前のジジイが戦争経験者の全てではないだろ うちの爺さんは元々大工で太刀洗で戦闘機の整備をやってて空襲にあって逃げた防空壕の中で亡くなった
ありがたいことに太刀洗平和記念館に写真を飾ってもらってる 俺の爺さんは幸いな事に両方とも戦争行ってないんだよな
父方は村の数少ない国鉄職員だったから招集されず
母方は漁師だったが食糧生産に従事する人は招集されにくかったとか >>60
NHKのインパールの特集で牟田口のお孫さんが出てた
祖父に対しては批判的だったね
勇気あるお孫さんだった 俺のおじいちゃんはラバウルに行かされてた
曾祖母が戦地から帰って来た息子に魚を食べさせてあげようと思い雷魚釣って振る舞ったら雷魚に当たり死を彷徨ったと言っていた >>680
現役が入管にぎょうさん居るからの
このご時世、さすがに恥ずかしくて名乗れまい >>404
島根県の田舎にも機銃掃射の跡あるんだよね。
なんでこんなとこまでわざわざ来てるんだって思ってた。 祖父が戦艦大和に乗ってたニートよりも祖父が小作人で今会社勤めの社会人の方が偉いんだぞ >>593
大和はどうか知らんけど乗ってた艦でのマウントの取り合いはあるみたい
親戚(瑞鳳乗組員)が入院してたときに大部屋の同室に武蔵乗組員の爺さんがいて、マウント取られたといって怒っとったわ
艦橋もないような小さい空母だから馬鹿にされてる!って >>685
武蔵組なんて大半はシブヤン海で死ぬし
生還者も激戦地に陸戦隊として送り込まれて
ほぼ死ぬから うちのばーちゃんの兄弟はブーゲンビル島のタロキナってとこで戦死したらしい >>472
パリピw
中野学校出の特務は軍服も着ず髪も伸ばして一般人に紛れてたというがどうだろ
軍も「お役所」であるから事務方もあるしなあ
書類を運搬したりとか物資の在庫管理したりとか
別の忙しさがあったんじゃないかな うちの爺さんは関東軍で良かった。南方に送られたら俺が存在して無かっただろうな
ダイナマイト食べた人の話聞いた
その人は「ダイナマイトはニトログリセリンだから食べれる」と理解して食べたらしい
感想を聞いたら「羊羹みたいだった」って言ってたw じーさん、軍医で大尉だったかな?
フィリピン送りになる
ところ、乗艦予定の輸送船が潜水艦に沈められたことで、難を逃れたと聞いている
つまり今の俺がいるのは、この輸送船を沈めたアメリカさんのお陰である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています