ジャーナリストの佐々木俊尚氏は「表現の自由はリベラリズムの一丁目一番地だ。その権利を守るためには、日経新聞のマーケティングの問題や未成年者の性被害の問題など、他の論点とは切り分けて議論しなければならない。
そして“見たくないものに触れない権利”のようなものを認めていたら、世の中のあらゆる表現が消滅してしまうわけで、論外だというのが僕のスタンスだ。
批判する自由はあるが、封鎖する自由は無い」と話す。
「例えば戦争報道には社会的意義があるが、『月曜日のたわわ』は趣味だし、僕は全く興味がなくて擁護する気もない。
それでも守らなければいけないという話だ。
出版の世界で言えば、エロ・グロ・ナンセンスな文化が山ほどあって、
その中から育ってきたライターや編集者が『文藝春秋』のような雑誌を作るような、ある種のヒエラルキーがある。
そこで『月曜日のたわわ』のようなものや萌え系の文化をどんどん潰していったとしたら、次の新海誠や細田守のようなクリエイターは出てこなくなる。
しかもTwitterなどを見ていると、過激なフェミニストといわれるような人たちの中には、その“見たくないもの”を探してきては炎上させている人たちもいるわけで、
それは“見たくないものを見ない権利”なのだろうか。不快なものを認め合わないで、表現の自由や多様性はどのようにして守られるのか。
不快だからといって表現の自由を縮め、多様性をなくし、全体主義へと回帰しているだけではないか。
価値観をアップデートと言いつつ、逆に守旧的で戦前回帰に近い考え方になっている部分もあると思う。
例えば“not for me”という言葉がある。不快なものがネットでは可視化されてしまうが、でもこれは私のものではないとして距離を置く。
そういうエチケットのようなものが今の社会には必要なのではないかということだ。
それ無視して人が好きなもの、一人で楽しんでいるものを足蹴にするからみんなが怒る、ということについてもうちょっと考えて欲しい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a916b02763dc6fc2e997af6642c579bea700fd85?page=2