【真実】倭国は白村江の戦いの後、唐に占領されていた 古代の「日本独立戦争」に迫る [426566211]
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西暦663年
倭は、唐の支援を受けた新羅に征服された友邦百済の復興を目指し、3万の大軍と6人の将軍を朝鮮半島へ派遣する。
7世紀時点での日本人口は500万人程度と推測されている事、集権化が進んでいなかった事から、当時の倭としては出来得る限りの「根こそぎ総動員」で戦争に臨んだ事がその規模から伺えるわけだが、、、、
なんと!!倭国は上陸前に唐水軍と衝突し鎧袖一触、木端微塵に敗北して掻き集めた総兵力を殆ど失ってしまうのだ!!
(殆ど戻ってこれた兵はいなかった。白村江の戦いに従事した6人のうち5人の将軍の名が再び日本書紀に現れる事もなかった)
にも関わらず『日本書紀』では表面上、白紙和平を結び、唐軍は黙って帰り、朝廷は国内改革を粛々と進めた事になっている。
ここで当然疑問
軍隊を全て失い威信が地に落ちた朝廷がどうして地方豪族から反乱を起こされずに改革を進められるのか?
倭国軍を全滅させ無力化させた唐が何故黙って引き返すのか?
日本書紀に記される白村江戦後の時系列に沿って、日本独立戦争に至るまでの9年間を見ていきましょう
──前提──
倭国首脳部は百済復興戦争に際し、所在地を大和から筑紫に移している(日清戦争時の広島大本営のように) 凄えー!
これからは「嫌儲歴史学者」と名乗っていいぞ! >>442
唐の宿敵は高句麗だから、倭国に上陸して本土決戦するよりも、適当に痛めつけて属国にして大人しくさせたら、
あとは高句麗との戦いに集中したかったんだろうね >>333
わずか5年くらいで占領は終わってるから、書くほどのことじゃなかったんじゃないかな
むしろ5年で占領終わってしまったっていうのは失策の黒歴史だったのかも >>445
引用するために借りパクして燃やしたんだろ >>423
一部のイデオロギーで歴史をクリエイトする学者が声高に叫んだからといって、記録の存在しない人間が実在するまでに覆る訳じゃありませんよ?
>>414で張られた記事でさも当たり前のように語られてる「厩戸皇子に聖徳太子の名が送られた」ものも、その実そんな記録すら存在しないからね >>452
唐が占領してたんなら何で日本様式の城を大宰府の周りに白村江後に建てるの?
しかも海岸防衛用に大宰府の西にさ >>446
返さずに燃やしたのは、事実なのか。
それは知らなかった。 >>454
そんなこと言われてたって今頃そんなこと言ってるのお前だけだしな・・・
他に誰かもう1人ここ5年くらいの間で同じこと言ってる奴連れて来いよ >>455
朝鮮式山城だぞ日本式じゃない
>>456
事実かは知らんけど、現存していないんだからあえて燃やされたと考える方が自然だと思う >>453
正史から文章をパクっているのは事実だ。
書名を出して引用している箇所もある。
日本書記が中華文化圏に向けて発信するための国史だったとすれば、
使った正史を燃やしたって隠蔽できるとは思ってなかったと思うぞ。
引用ルールが現在とは違っていただけであって、高らかに引用できました!と自慢したんだと思う。 >>458
すまんそうだった百済様式だったな
でもなんで占領してたのに唐様式じゃないの?
風土記は数か国現存してるぞ
燃やしたんならなんでそんな中途半端なことするの? >>437
> 倭国首脳は「唐が攻めてくる!」「唐に滅ぼされる!」って恐怖で仕方なかっただろうけど
>
> 唐にとってはそこまでするメリットもなかったという
安倍晋三&自民党&ネトウヨのみなさんと
中華人民共和国まんまの構図だな >>445
> 派手な隠蔽や捏造はできないと知っていたはずだよ。
2005年に日本シリーズと呼ばれる、千葉軍と大阪神戸連合軍の戦いがあったとされる。
↓歴史的事実
結果は33-4と伝わる
↓隠蔽や捏造
これは3対3または3対4のいずれかという意味と思われる。
みたいなやり方でやってたんではないかなあ。
「当時最も勢いのあったとされる両軍が合間見えて
33対4という一方的な結果となるとはありえないからだ」とか
「これは素直に33-4ではなく、33~4と読むのが正しい」とかみたいな。 もし中国が勝っていたら
その後も繰り返し日本に攻めてくるだろう
そういうメンタリティーの民族
でも実際は元寇の2回だけ
それもボロ負け
もう嫌ってなるわ 日本書紀では唐のことを「大唐国」とかなり持ち上げて書いてるからな
なぜか隋の時代のことについても大唐国って書いてる
それくらい唐の力は圧倒的で、倭王家の記憶に残ったんだろう 日本書記偏差者たちは、新羅も唐も正史を書き続け、いずれ日本書記と比較されることを意識しなかったわけがないと思う。
大幅な捏造や隠蔽はできない。
しかし、ほほえましいというか、あえて書かないのは見受けられる。
倭人の王たちが金印を受け取ったことは絶対に書かない。
卑弥呼は書かないが、金印を受け取っていない台与のことは書く。
中国の歴代王朝から位を賜ったとも絶対に書かない。
雄略については詳細にその生涯を書くが、位を賜ったことは書かない。
皇帝に謁見したらお前の国はおかしいよと指摘されてしまった第一回遣隋使についても書かない。
しかし、つつがなきやとの対等な手紙を差し出した第二回については詳しく書く。
つまり、中国歴代王朝の臣下だったことは書かない。 何だと思ったらソースは学生の妄想か 教授にレポート提出してみ一蹴されるか優しい先生なら赤大量に付けてくれるから >>466
それって「書かない」だけでなく、「それらが書かれている別の文献は徹底的に燃やした」ということだと思うんだよね >>428
そもそも築城したのは百済人の憶良福留とかだしな
倭と百済が協力して築城なら分かるけど
唐に占領されて百済人を起用して倭に築城てのは大分苦しい >>468
日本で手に入れたコピーを燃やしても、中国の正史は残っている。
百済や新羅の書も(当時は)残っている。
国内で燃やしても意味がない。 >>470
だとしたら新旧唐書に倭国占領のことが書かれてないのはなんでなんだろうね >>471
当時の唐の概念上では「占領」していないから。
つまり刺史や県令を送り込んだ支配でもなく、均田制を敷いて徴税していたのでもなかったから。
ただの冊封国であり臣下なだけ。 >>472
でも千人単位の「留学生」を送り込んでるんだよな
唐が倭国に学ぶことなんかないんだからこの「留学生」ってのは明らかに倭国の嘘なんだけど
つまり占領しようと思ったけど失敗したから書かなかったってことなのかなと理解してる 日本的な価値観からしたら
北方異民族王朝である唐のことは最初は舐め腐ってたんだと思う
舐め腐って戦争したらめちゃくちゃ強くて「こんな国と戦争したら倭国が滅ぼされる!」ってガクブルになって
態度を180度転換させて「大唐国」って持ち上げるようになったのかな、と
当時の倭国首脳の心理を想像するね >>473
千人もいたとは知らなかった。
でも、留学生の倭人たちは、唐に学んだろう?
留学生を通じて各分野の専門家たちを日本に招聘してもいる。
留学生を送りこみ、唐に学んだことについては、大和朝廷は嘘を言ってない。 >>476
>>22
逆よ
唐が2000人の留学生を連れて日本に来たと日本書紀では書いてる
唐が日本から何を学ぶというのか 2000人の留学生とは
「又大唐遣郭務?等二千餘人」のことかな。
書いてあることと、書かれたことの独自解釈の区別がつかないのか、
書いていないことを書いてあると思い込む人のように思われる。 面白い話なんで論争になって更に新しい見解が出れば、それで、いい 船で渡るのも命懸けな部分のある蛮族の住まう辺境の地が倭国だから、少数の兵士や武官と技術者や吏僚を送り込んで蛮族を統治したとみても良いのか
後は多分白村江の戦いで領主や大君クラスの捕虜も取られて人質的になってるってのもあるのかもな、武力での徹底統治というよりもトップだけ送ってくるってのは
この唐の前後で日本の文化技術で飛躍的に進歩、ブレイクスルー的なモノって起きてるのかな
海外からの支配者による管理が入れば海外の文化やシステムも取り込まれるので何がしかの大きな進歩が見てとれると思うんだけど 朝鮮式山城どうすんだよ
665年とかに作りまくって本土決戦やる気満々だろ 歴史のことは詳しくないがジャップのやることだから当時から大本営発表ぶちかましたんだろうなと容易に想像できる >>482
飛鳥浄御原令だろ
大宝律令のベースになってる >>457
「お前だけ」って、君個人がへんな媒体ばっかり見てることによる主観の認識でしかないからなぁ
実際、「やだやだ聖徳太子は実在したんだもん!」って界隈って、「日本人や天皇家のY染色体が~」とか言ってる界隈と丸かぶりしてるからなー >>430
「現存してないから焚書されたに決まってる」ってむちゃくちゃな陰謀論もいいところ
じっさい日本書紀よりふるい上宮記や安斗智徳日記は13世紀の卜部兼方の時代までのこってた
一昔前までエピクロス系の哲学者の著作がのこってないのはキリスト教の弾圧のせいだと言われてたけど
エジプトのパピルスの出土状況からいまじゃキリスト教の覇権以前にプラトン以外の哲学書はほとんど読まれなくなってたってのがわかってる
エピクロス主義のばあいはキリスト教と相性がわるいのは明らかだったから弾圧説もまだ理解できたけど
都合が本当にわるかったのかまったく分かりもしないのに「のこってないから都合がわるかったに決まってる」って論理がさかさまだよ
世の中にはいろんな偶然によって伝来しなかった本なんか腐るほどある
韻鏡は中国で散逸して日本にだけのこってたけど韻鏡のなにが中国人にとって都合がわるかったってんだよ
>>446
保管されてたにきまってんじゃん
日本国見在書目録は宇多天皇がつくらせたものだけどそこに中国の歴史書がいくらでもでてくる
天皇だって中国の歴史書は読んでたし読みたがってた
いまでも宮内庁図書寮は魏志倭人伝ふくむ三国志の12世紀の刊本をもってる コーンパイプをくわえたマッカーサーが献上の品を持って厚木基地に到着して、天皇に謁見したんですね、捏造歴史 白村江(はくすきのえ)がどうやっても読めない
白と江は分かるが村をどうやってスキと読むのか 聖徳太子は、唐の制度を導入してたが
実は 唐の人間だったのかも >>490
朝鮮由来の読みという説をどっかでみた
渡来系のカバネである村主をスグリと読むのと関連してる >>1
めんどくさいからちゃんと読んでなかったけど
高句麗問題を抱えてるのに倭と揉めているどころじゃないからだろ
妄想がひどすぎるは >>487
補足しとくと日本でそもそも文字がひろくつかわれるようになったのが白村江の敗戦で渡来系知識人が大量流入して以後なんだよ
7世紀後半より前の木簡竹簡はほとんど出土しない
文書行政が普及しだしてから約50年後にかかれた歴史書が現存最古ってのは妥当な線というか結構はやいまである
記紀が現存最古の書物である理由としては根拠のない陰謀論にはしるよりそれで十分だろう >>491
西暦600年の第一回遣隋使の際に、隋帝にどや顔で政治体制披露したところ、
「なんやねんお前それ、めっちゃおかしいやろ!あんまフザケとったらいてまうどワレぇ。誰か、こいつらにモノを教えてやったれやボケぇ」と言われてるので、何らかの隋の監修を受けてる
その結果、「日の出前に起きて、占いとかで政治の話を決めます。お昼になって以降はもう政治の仕事しません」だった政治体制から、わずか三年で冠位十二階や十七条憲法が生まれた >>496
3年でやってのけたのはすごいよな
そこはすごいと思う >>497
すなおにそれで満足していればよかったのに、日本史からこの第一回遣隋使を消してしまうから、ややこしいことになってしまってる
消してしまった結果、隋の監修なしに突然それらが降って湧いたことになってしまった
そのつじつまを合わせるために、超人の存在が求められることになり、彗星のごとく現れ、一族まるごとサクッと全滅して退場してくれる聖徳太子が生まれた
ちなみに、「聖徳太子」初登場は、日本書紀完成よりさらに30年後(750年代)の、史書ではなく詩集だったりする 中大兄皇子と中臣鎌足って今で言うネトウヨムーブのそれだよな >>498
東宮法王とか普通にいるでしょ
ネーミングの話したら天皇の名前だってほとんど後から名付けられたわけだから
聖徳太子だけをことさら否定する理由にはならない 森公章さんが、この説とってるね
『「白村江」以後――国家危機と東アジア外交』(講談社選書メチエ 1998年)
新しい資料とか出てこないから、進まないんじゃあ。唯一、考古学の発掘での進展は期待できるけど 天武天皇の年齢の謎とも関わってくる。天智天皇より年上説は潰れてないはず >>505
年上だけど弟扱いってのは皇位継承権が絡むと良くある
妾の子が先に生まれて、本妻の子が後に生まれると
本妻の子が「長兄(皇位継承権順位1位)」で
妾の子が「年上の弟」として扱われる
天智天武は完全にそれだと思ってる
天武の母親は百済人じゃないか? 日本が唐に支配かそうでなくても強い影響力をもたれていた、
そのきっかけは白村江の戦いの敗北、ってストーリーは
物凄い説得力あるわな
そこらへんで日本は改革して国力高まってるはずなのに
朝鮮半島との繋がりがぷっつり消えたこととか
謎の聖徳太子による大改革がすんなり進んだこととか
最初は九州が国力の中心地だったようなのにいつの間にか
畿内にこれが移っていることとか全てが納得できるわ 仮にこの説が本当だったとして
明治政府が天皇カルトを作るためにわざと封印したのか
あるいは江戸幕府のころから日本の歴史研究はおざなりだったのか >>507
そっかー。あんまクリティカルじゃないのね
古代史を学び直して、天武天皇期の大宝律令(701年)を起点にするのが
すっきりする感をもったけど、そうしたくない意図が水面下にあるのかなと
645年の大化の改新から50年の間は何か抜けてる感。元号も一旦途切れてるし
総力かけた白村江の戦いも負けて帰ってきて終わりだし 大化年号は680年頃なんだよね
大化の改新は645年じゃない
645年は蘇我氏を殺しただけで、政治改革としての大化の改新は680年頃のことなんじゃないかな >>509
天皇が王として力を持ったのは、奈良時代くらいじゃね。
それを明治期の近代国家デザインの軸に採用した
歴史の最初と最後がそうでずっと続いてる感覚があるが、
権力は他にあった期間が圧倒的に長い。いわゆる中空構造 (天智)六年(667年)十一月、
百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山牒令上柱国司馬法聴等を遣わして
大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。『日本書紀」 >>513の2年前
・日本書紀
(天智)四年(665年)、是歳、小錦守君大石等を大唐に遣わす、云々。
(等と調うのは小山坂合部連石積・大乙吉土岐嫡・吉士針間を謂う。)『日本書紀』
・旧唐書
麟徳二年(665年)、封泰山、仁軌領新羅及び百済、
耽羅、倭四国酋長赴会、高宗甚悦、擢拝大司憲。『旧唐書」劉仁軌伝
(訳)
麟徳二年(665年)、泰山に封ず。(劉)仁軌は新羅及び百済、
耽経、倭の四国の酋長を領(ひき)いて会に赴く。高宗は甚だ悦び、擢(あ)げて大司憲に拝す。
麟徳二年(665年)十月、皇后請封禅、司積太常伯劉祥道上疏請封禅。
(中略)将封泰山、発白東都。十二月、命有司祭泰山。『出唐書」本紀
(訳)
麟徳二年(665年)十月、皇后は封禅を請う。
司雄太常伯劉祥道は上疏(天子に事情を書いた文書を奉ること)して封禅を請う。
(中略)将に泰山に封ず。東都より発す。十二月、有司に命じて泰山を祭る。 龍朔二年(662年)七月、仁願、(劉)仁軌等は留鎮の兵を率いて大いに(鬼室)福信の
齢衆を熊津の東に破り、其の支羅城及び者ノ城、大山、沙井等の柵を抜き、獲(とらえ)て
殺すこと甚だ衆(おお)し。的りて兵を分けて以て之を鎮守せしむ。
(中略)是に於いて仁師、仁願及び新緩王金法敏は陸軍を帥いて進み、劉仁軌及び
別帥杜爽、扶鈴隆は水軍及び糧船を率いて、熊津江より白江に往きて以て陸軍と会い、
同じく周留城に趨(はし)る。仁軌は扶齢豊の衆と白江の口で遇、っ。回戦して皆な捷(か)ち、
其の舟四百般を焚き、賊衆は大いに潰れ、扶齢豊は身を脱して而して走る。偽王子扶除忠勝、
忠志等は士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城は皆復た帰順す。『旧唐書』「百済国伝」
劉仁軌は百済と日本の軍を破った将軍である。
「663年」に「白村江の戦い」で百済・日本の軍を破った劉仁軌は「665年日月1ロ月」に
「新羅及び百済、耽羅、倭の四国の酋長」を領(ひき)いて泰山へ行き、「666年正月」の
「封禅の儀」に参列している。新羅は勝者の国である。百済と倭(日本)は敗者の国である。
劉仁軌は自らが撃ち破った百済と日本を引き連れて「封禅の儀」に参列している。
「高宗は甚だ悦ぶ」とある。敗戦国が「封禅の儀」に参列することに高宗は大いに満足している。
このときの日本の代表(酋長)が小錦守君大石・小山坂合部連石積等であろう。
「665年」に小錦守君大石・境部連石積等を唐へ派遣したのは敗戦固として「封禅の儀」に
参列するためである。「遣唐使」ではない。唐は敗戦国の代表として守君大石・境部連石積等を
「封禅の儀」に参列させたので境部連石積等を「百済」経由で「筑紫都督府」まで送り届けているの
であろう。「唐から筑紫」まで「唐の支配下」にあることがわかる。「対馬」も、「壱岐」も、「筑紫」も
すべて唐の占領地になっている。
白村江の戦い」で「唐」は「対馬」から「筑紫」までを占領している。これが「白村江の敗戦」後の
「日本の歴史」である。
http://
tsukudaosamu.com/pdf/ge-3.pdf 白村江の敗戦→大化の改新(革命)
その時天皇ぶっ殺しあらゆる書物を焼き払い
古事記を編纂して新生日本の歴史はスタート
それまでの正史は完全に葬られた >>515のリンクより
「白村江の敗北」と「筑紫都督府」の設置
663年9月 「白村江の戦い」で敗北
664年10月 「筑紫の割譲」が決まる
665年9月~11月 「筑紫都督府」の設置
665年10月~12月 守君大石・坂合部連石積等を唐の泰山へ
666年正月 敗戦国として「封禅の儀」に参石7
667年11月 唐は境部連石積等を「筑紫都督府」に送り届ける >>503
贈り名をもらった記録すらないし、王でもない
冠位十二階や十七条憲法の根幹に関わる
遣隋使の記録を消してごまかした史書にすら出てこず、本当に急に出てきた名前でしかない
ぶっちゃけメアリー・スー的な存在 そして>>517この一年後の668年7月に「筑紫率」が任命され
671年11月には「筑紫大宰府」の呼称が日本書紀に現れ
ココから筑紫は日本史のイメージそのままの大宰府っぽくなる
つまり今の日本史は
665年~667年までの「筑紫都督府」の存在を
誤魔化したものである可能性が高いのだぁ
この約3年間には一時的に唐が筑紫に都督府を設置し駐屯地とし
統治したとしてよく
白村江の戦いで敗北し占領軍に統治された期間としてよい
ここで負けたことで現代史の戦後のように列島の外部からの文化文明の流入が加速し
日本国の体をなしたと考えるのが自然
すなわち日本とは昔は中国の影響によって国家としての体をなし
現在は西洋の影響によって高度経済成長を遂げた国となる >>516
文献としては日本書紀を中心に置く方がすっきりするね
古事記はその後にできたという説もあって、
これは使用語彙や構造の情報解析で新しい知見が出てくる可能性ある
森博達が10年くらいかけて示した日本書紀のα群β群のような仕事
それまであったはずの正史という見えないものを想定するのは禁じ手よ >>517
その時系列だと日本書紀に見えるいろんな城の設置がおかしくね
664年12月に水城をつくって665年8月に大野城と長門の城をつくってて
667年11月にも大和と讃岐と対馬に城をつくってるけど
割譲がきまったあと敵のために大野城とかの城をつくってやるってのもおかしいし
大野城と水城をつくったのがかりに唐だったとしても長門その他の国にまでつくれたとは思えない
築城のときに働いた百済人たちの名前までかいてあるってのも唐がつくった城だとしたら不自然 あーこれがあるのか
『日本書紀』巻二十七、天智天皇三年
是歳於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽。
又於筑紫大堤貯水名曰水城。
この歳(とし)、對馬(つしま)嶋、壹岐(いき)嶋、筑紫國等に防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。
また筑紫、大堤(つつみ)を築て水を貯へえしむ。名づけて水城と曰(い)ふ。
(読み下し文は『太宰府市史古代資料編』に拠る) >>281
ひらがなが出来るのもこの後の平安時代だもんな
蘇我氏の持ってた史書も殆ど漢文だろうしな >>521
つーことはこうじゃね
古代山城はまず白村江敗戦後に
「筑紫都督府」防衛のために作られ始めた
しかし667年11月には司馬法聴等が帰ってしまい>>519「筑紫率」
後は唐や半島からの防衛を考えて
瀬戸内海にもつくったりしたと >>475
>>277のHP見ると
白村江での日本側の戦術は勢いつけて突っ込めだからな
こんなん紀元前の中華にも勝てないだろ
未開すぎる
大和朝廷が蝦夷粛慎に勝てたのも勢力がただ大和のほうが大きかったってだけだと思うわ >>396
まあどうみても天皇一派を人質にして軟禁状態にしてるよねこれ >>31
軍勢3万が消滅して力が落ちた上に遷都で負担を強いたので暴動や反乱が起きたのでは? はくすきのえぱれすのたたかい
661年5月、第一派倭国軍
船舶170余隻、兵力1万余人
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍
白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上
663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗
作戦期間 約2年4カ月
総兵力
倭国軍:42,000
倭国船舶:800余
そんがい
船舶:400
兵:10,000
馬:1,000 >>518
そりゃ仏教が微妙な時期が長かったからでしょ
唐にならって仏教を正式に日本の国教にしたときに、遡って倭国の仏教普及を推進した聖徳太子が改めて注目されたんだろ 万の兵士を異国で2年以上戦わせたら
常時1万の兵を海外運用するとして
用意しないといけない食料は一日一食でも
「365*2*一万食分」730万食分
当時の列島の人口は100万~300万人
これだけの戦やって負けたんだから
そりゃ国内はボロボロになんね >>523
太宰府の位置づけの変遷を追うと、見えてくるかもしれない >>532
そしてココに注目したい
> 倭国船舶:800余
もんのすごい数の船です
しかも当時のヤマト朝廷は百済に無茶苦茶入れ込んでいた
百済はすでに滅亡した後なので
船の現地調達は難しかったといえるし
コレは白村江の戦い時にあっても列島側が用意したとしてよいかと
つーことはですよ
唐と新羅にボコられて四散したとされる百済人
これ殆どが難民として列島にやってきたとするのが自然ではないかと
そのために物理的に必須な船舶も「日本側からですら」用意できたと日本書紀は語っていると
百済の人口は
761,500人
70万人の移民が当時100万~300万人しかいなかった
列島に押し寄せたと
百済の難民船と列島からの避難用船舶によって
百済人の難民が日本にやってきて融合したと 遣唐使船
> 1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。
一隻百人として
70万人を運ぶには、のべ7千隻が必要
800隻が対馬海峡10往復で可能じゃん
これやっぱ大量移民発生してるわ だから倭王の白鳳王は唐に連行されただろ
八年後帰国
なぜか天武が即位した年と同じ
高宗にならい天皇 いやおかしいと思ってたんだよ
いくらなんでも現代日本ですら唐の文化が根付きすぎてるし
唐の時代に遣唐使船で交易していたといってもさ
ここまで文化が定着するかと
当時、唐化していた新羅
そして百済からの大量移民
もちろん百済は中華の「南朝の文化(六朝文化)※漢文化の継承地域な」の影響がバリバリだった国
これもう最終的に日本の文化の方向性を決めたのは
百済人の移民でしょ >>507
> 天智天武は完全にそれだと思ってる
> 天武の母親は百済人じゃないか?
井沢元彦が昔その節唱えてたな。 日本海を超えて兵力を送り込むのは不可能だからな
よっぽど魅力があるならともかく土人の国を占領する意味は無いだろう 異民族による支配だからここで語学のできる者と出来ない者による分断統治みたいなのが発生してそう
そしてその憎悪や闘争の結果としての渡来人系や支配者の走狗系の一族への粛清や虐殺なんかも起きたろう
また、過去の物語と称して今のその現状を批判したりまつろわず戦おうとした者が居た的な物語を語り継ごうとする者もでるだろう
それが現代に何か痕跡残ってたら面白いな >>490
たぶん日本語じゃなくて当時の朝鮮半島で話されてた言葉のどれか そもそも白村江って向こうの地名だしな 伊勢神宮の紋が唐花だったり
天武と武則天の名が似てたり
能の海人には藤原から髙宗の妃になった話があるというのはどういう理由なんだろね 朝鮮半島もあんな臭え所イラネって直接統治はしなかった中国が半島飛ばして日本にそんなことはしないだろ >>534
その時代なら食糧飼い葉(馬のエサ)等は現地調達(=略奪)だったんじゃないか
食糧まで補給するようになったのは結構最近の話だよ >>546
まあ、結局そこに行き着く。それより、平安の摂関政治に到る流れの源な
藤原不比等がキーマンってのが主流じゃないかな
奈良時代はこれ意向もあちこち首都が移動したり、内紛の記録もあるんで実は非常に掴みづらい
国分寺のネットワークはこの頃作られ破棄されたのは、何らかの示唆があるんだろう
世界史-東洋史的には唐が弱って、その辺気にせず平安時代が長く続いたってこと
江戸時代も似たようなもの。外圧が減ると安定するんだわ >>547
朝鮮半島とひとくくりにし過ぎ。
交易でみれば、渤海使の東岸ルート、百済や済州島の西岸ルートは違う
日本列島からの影響強かった釜山周辺エリアもある
んで、今の半島南部は釜山から内陸を通る動線が主軸
朝鮮史としてみれば、地理的に不利だった半島南東部の新羅が統一できたって問題はあるよ
この辺は普通に議論される世界になって欲しいねえ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています