【真実】倭国は白村江の戦いの後、唐に占領されていた 古代の「日本独立戦争」に迫る [426566211]
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西暦663年
倭は、唐の支援を受けた新羅に征服された友邦百済の復興を目指し、3万の大軍と6人の将軍を朝鮮半島へ派遣する。
7世紀時点での日本人口は500万人程度と推測されている事、集権化が進んでいなかった事から、当時の倭としては出来得る限りの「根こそぎ総動員」で戦争に臨んだ事がその規模から伺えるわけだが、、、、
なんと!!倭国は上陸前に唐水軍と衝突し鎧袖一触、木端微塵に敗北して掻き集めた総兵力を殆ど失ってしまうのだ!!
(殆ど戻ってこれた兵はいなかった。白村江の戦いに従事した6人のうち5人の将軍の名が再び日本書紀に現れる事もなかった)
にも関わらず『日本書紀』では表面上、白紙和平を結び、唐軍は黙って帰り、朝廷は国内改革を粛々と進めた事になっている。
ここで当然疑問
軍隊を全て失い威信が地に落ちた朝廷がどうして地方豪族から反乱を起こされずに改革を進められるのか?
倭国軍を全滅させ無力化させた唐が何故黙って引き返すのか?
日本書紀に記される白村江戦後の時系列に沿って、日本独立戦争に至るまでの9年間を見ていきましょう
──前提──
倭国首脳部は百済復興戦争に際し、所在地を大和から筑紫に移している(日清戦争時の広島大本営のように) まあ普通にGHQ的なものが一時的に支配してたとは思う >>422
当時の状況がどうだったかは解らんけど
大野城や基肄城のあることが否定材料にはならないと思うなあ
大宰府って地理的に南北には出口があるけど東西にはけっこう高い山があって軍隊が超えたりは難しいところだから、南北に城をつくるのは別に不思議ではないよ
大和側から奇襲的に攻めるんだったら正攻法で攻めるんだったら小倉方向から、かなめ手なら日田方面からだろうけど、どちらの場合でも北と南からになるし 天武天皇のヘンなとこ
・兄であるはずの天智天皇の生年は日本書紀に記されているのに
なぜか弟であるはずの天武天皇が生まれた年は記されていない
※日本初期には第33代 推古天皇から生年が記されているのに天武は書いてない
この件で古事記は関係なし
・天武天皇は兄であるはずの天智天皇の娘を4人も嫁にしている
つまりなんと姪っ子を4人も妻にしている
※天智天皇の長男であった弘文天皇(大友皇子)を天武は壬申の乱で
首つり自殺に追い込んでいる
・天武天皇がまだ大海人皇子(皇太子)の頃に太皇弟と呼ばれている
※え?おまえ一体誰の弟だよ?天智天皇の弟なら皇太弟だろ?
・蘇我安麻呂に「有意ひて言へ」(よく注意してお話なさいませ)と忠告されて
天智天皇サイドにぶっ殺される危機を乗り切ったという都合の良すぎる話で
出てくる天武にとっての命の恩人はずの蘇我安麻呂のその後が全く不明
こんな感じ? >>422
大宰府の西側守というか大宰府は西側が山
その山をずっと更に西に行くと飯塚の鹿毛馬神籠石
更に西に行くと行橋の御所ヶ谷神籠石
だからこの古代山城の布陣ではそのまま北部九州の要塞化が
まず見えてくるよ
その上で瀬戸内の古代山城 古代山城を考えるとき日本の尺度で考えたら
大宰府と飯塚や行橋はあまりにも遠いように感じるけど
大陸の感覚で行くと
飯塚の神籠石は山間部の間に流れる遠賀川からの進軍を止める位置にあるから極めて適切で
行橋は瀬戸内海をにらむ当時の平野部の背後なんで合理的
更に
南西は杷木神籠石
南は久留米の神籠石からのさらに阿志岐山城神籠石で二重防御
南東は帯隈山神籠石
などなど東西南北くまなく北部九州の山々の地形を最大限利用し
大宰府をまもるように形成されている >>557
こういう話をする時にほとんどその当時の地形が今と同じ前提で話すから理解が難しくなる
例えば遠賀川中流域から下降は田河郡と言われるほど田と川が混在する遠賀川の暴れている工作できない湿地帯だったし
行橋についても当時は箕島が本当に島であり、太宰府から近畿に行く下校としての役割を担うことが出来たのは行橋市草野近辺であったことは容易に想像がつく
あなたの主張も現在見つかっている神籠石をもとに組み立てているが神籠石はまともに研究されていないためまだまだあったんじゃないかと個人的には思う >>536
お前の推測なんて誰も聞いてないんだけど >>558
遠賀川は当時も大きな川なんで船で南下できます
行橋はすぐそばに京都郡があるように
当時は仮宮が置かれたとされるほど栄えた平野部ですよ まっ最初から「当時の地形」を前提にして
当たり前に>>557こう
ってことです 仮宮が置かれたのは行橋の中でも内陸部だわな
みやこ町であるな
御所ヶ谷の裾野には条理性が残っているわな
とにかく当時は現在の標高4m以下は耕作不能地帯と考えればかなり重要なところがわかる
遠賀川はいいんだよ
なぜなら出口がはっきりしているからね
右岸は山鹿の第三紀岩で作られた安定地塊
そして左岸は延々続く、砂丘地帯 俺は九州王朝説は何かしらの示唆があると思うな
全面的に賛成はしないが近いところもあったのではあるまいか 当時の地形を考えるときに北部九州で重要なのは
まず海岸線
これは元寇なんかでよく出てくる赤坂、鳥飼を
今の海岸線で考えたらワケわかんなくなったり
もっと古代で奴国を推定するのになのあがただからと那の津だろと
埋立地付近を示したり
そういう勘違い
もう一つは山の形が明らかに変わっているとしてよい
飯塚と田川ですがこれは炭鉱絡みなのでどうでもいい話でしかありません >>527
想像力がない
ドクトリンは瑣末だ
今も昔も戦争とは補給なのだ
30000の軍勢を送り込むことが出来た
それだけのバックに官僚組織があった
当時それが出来る主体は何個あるか
しかも当時の日本は100人程度の遣唐使を送るのにすら四苦八苦する時代だ あと今もそうだし古代でもそうですが
北側の海から上陸し大宰府に侵攻するためのルートは
陸路しかありません
ここらへんには舟が通れるような川がないに等しく
三笠川ですら水量が少なすぎるため
大野城に入るずっと手前で座礁します
これは山系が遠賀川と筑後川にその殆どを持っていかれてしまう地形のせいで
近年まで福岡市内で水不足が起きやすく
ダムだけではなく「海水淡水化」によってやっと福岡市内の水量を確保している現在の状態からも自明です
こういうことはちゃんと地元を調査してないと解るはずもなく
決めつけでこいつは何も知らないと煽っても
笑われるだけの話だと >>567
福岡市は人口が増えすぎただけで水が少ない地帯ではないけどね
中世以来箱崎宮の社領として安定的に米を出してるよ
水に関しても南畑ダムの上に出来たあれで渇水することはありませんしね
江戸期に渇水が起こってるのも脊振山系の水を強制的に佐賀藩側に取られたのが大きい >>567
自分で墓穴を掘るようだがあなたの理論の太宰府ありきの神籠石なら11.12あたりは説明できないのよね
だから、太宰府ありきで神籠石を捉えるからどうしても都合のいい理論になりがちなのよ >>568これみると
まず不思議なのが
なんと日本海側に一つもないこと
これ半島から列島付近まで来てそのまま沿岸航法で日本海側を西に進む
潮の流れを利用した最も素早い侵略があった場合、
近畿を守る気がまったくないですよね >>569
うそつきですね
福岡市は人口増加前の昭和40年代に水不足を起こしていますよ >>570
それはあなたの脳内での話なので私にはどうでもいいことですよ >>336
やめなよ
こいつはチョン連呼してるネトウヨとレベルとしては変わらない >>572
笑止ではある
そもそも昭和40年の時点で近代化しており、大量の水が必要となっている
北九州市で有れば遠賀川から水を融通できたが
また、神籠石も逃げずに女山にある理由を考えていただきたい
かの位置は街道の要所にあるわけでもなく、ただただ直線的な山並みの中間地点に突如現れる格好になっている >>575
あれあれ
人口増加が近代化に代わっていますけど
あのね
君さ
そういう話をころころかえるような人間と赤の他人がまともに話をしないといけない理由って何かな?
よく考えてレスしなさい
>>559
いや、俺が見てる 道の歴史学を辿れば明らかに転換期がある
かつては直線的かつ大道にて整備をし、班田のために直線的に国土利用していたものがある時から、道は地形に沿ったグニャグニャになり、直線的線路は取られなくなってしまった 面白いな白村江後の奇妙さは個人的にもずっと疑問だったし
勿論何が本当かは分からんのだが中国は日本の歴史の脆弱性をだまって見過ごすわけもなく
たぶん今後中国の方がめっちゃチカラ入れて新証拠とか見つけ出してくるんじゃないかな
先に書いたように何が本当かは分からないが、情報戦としては多分日本は中国に負ける
何十年後かには日本が唐に占領されてた時期があったなんて常識になってると思う >>580
それ
まだまだ出てくる可能性があるのが中国だもんね
有名な空白の4世紀もありゃそのあたりの発掘が進んでいないとも取れるわけで
7世紀の文献がまだ出てくる可能性も十分にある もしかしたら>>1も中国人なのかもしれないが
それでも面白いものは面白い
どんどんやってくれ 新羅、耽羅、加羅これらは半島の地名だが
明らかに同じ語族がいたことは末羅(松浦)、比羅(平戸)、加羅(唐津)
肥後の北部を見れば明らかでないか
平戸は比羅の脱臭で比羅+瀬戸で平戸にしたものであり
唐津は加羅の脱臭で加羅+津(港の意)で唐津にしたものだ 太宰府は博多周辺に睨みを利かす高台だけど、同時に佐賀や熊本方面にもそうだからな
九州ってのは文字通り、9つの州で海洋的なつながりがでかかったんだよ。 地名から考える九州王朝説は楽しい
例えば国東半島は、地名の名付け主体が国東よりも西にあるべき(つまり太宰府から見て東ということ)
また玄界灘も由来がはっきりしないが、文字通り解釈すれば玄は玄武であり北である
(つまり太宰府が主体となった地名である) 新羅、加羅、多羅にみられる「羅」とは
バカでも知っているように韓国語の羅と同じく「土地、国土」の意味
だから
新羅、加羅、多羅とはそれぞれ
新しい土地、加の国(土地)、多の国(土地)という意味
これは~スタンと同じような用法で世界的にみられるもの
唐津はそのまま唐=韓 津=港の意味で
貿易港を表す
妄想飛ばしているデマ野郎に騙されないようにw 案の定ボンクラ汚言症ジジイ涙目逃走してて草
>ワシは次にレスする内容でこのボンクラを一発で、
ぐうの音も出ないレベルで論破してしてやれるのよ
だっておwww >>38
近現代日本でも、明治大正期や敗戦直後には全国各地で地方新聞地域新聞が超多数発刊されたが、その多くは現物が失われている、公立図書館にも収蔵が無い 馬鹿はどちらなのか新羅は新しい土地では無い
斯盧族の土地であるからしるらである
唐津は貿易港と言うがそれでは半島側の加羅に説明がつかない
少し考えれば分かることがわからない
そもそも中国の書に末羅と書かれている時点で同国である 羅の意味は韓国語で完全に規定されている事実を
韓国語すら学んでないために理解できないバカがいるw >>538
倭王の「白鳳王」が唐から帰国した途端に天智天皇が死んで天武天皇が勝利したのは偶然じゃないのかな
あと筑紫君薩夜麻と「白鳳王」の関係は? >>549
そこは不比等の父親の鎌足が
某国から有力者として倭にやってきて
中臣家へ婿入りしたところからかもよ >>556
西と東間違えてるぞ、
>>571
ほんまやな、確かにや、、太宰府のみ守ろうとしてるように見える近畿の勢力から >>591
多々良とかもそう、でも、これ玄界灘付近のみなのでは?
沖縄の平良もかも >>62
上下関係を叩き込みはしただろうけど
唐からすれば所詮は朝鮮半島南部での小競り合いだし
大軍が海を渡って直接日本列島を武力制圧する理由もないしな
来たとしてもせいぜい交渉使節の護衛部隊が駐留したくらいだろう
装備品なんかで格の違いを見せれば日本も反抗する気もなくなるだろうし 歴史は勝者によって作られる→日本側にも中国側にもはっきりした記録がないってことは真の勝者は中国でも日本でもない、という可能性もある…? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています